一話
雑巾をひっかけたバケツを持つエリンが、廊下を歩いている時だった。
通りかかった扉から、少女の金切り声が響いてきた。
「嫌よ、嫌。なんで、私がどこの馬の骨とも知れない者に嫁がなくてはいけないの。納得できないわ。一人娘の私を、そんな英雄とかなんとかもてはやされているだけの奴隷上がりの平民に嫁がせて、お父様もお母様も平気なの」
足を止めたエリンが扉を凝視する。
とたんにばんと目の前の扉が開いた。
出てきたのは伯爵家の息女アメリア。
応接室で何を話していたかも分からないままエリンは、屋敷のご令嬢とばっちり目が合ってしまう。
同じ年頃の二人は、背の高さも、髪や瞳の色もよく似ていた。
ぞくりとエリンの背に悪寒が走る。
嫌な笑みを浮かべたアメリアが、飛びつくようにエリンの腕を取った。
瞬く間の出来事にエリンはなすすべもない。
いきなり腕を引っ張られ、バケツが傾ぐ。
ぴちゃんと水が跳ねて、床を濡らした。
アメリアが、エリンの腕をぐいとひっぱり、室内に向かって吠えた。
「私は嫌よ。絶対に嫌。
どうせ、貴族の娘をあてがって、張りぼて英雄を国に縛り付けておきたい算段なんでしょう。それなら、私じゃなくても、貴族の娘、であれば、誰でもいいじゃない」
アメリアが吠えた先には、伯爵家の当主と夫人が並んで立っていた。
冷たい顔の伯爵と、眉間に皺を寄せる夫人。
二人の顔を凝視してしまっては怒られると思い、エリンはすぐにうつむいた。
「エリンだって、お父様の血を引いているんでしょ。私じゃなくても、いいじゃない。ずっと手をかけて育ててきた私をみすみす平民に嫁がせるより、平民には平民に相応しい娘をあてがって、私はもっと高位の貴族に嫁がせた方が、得策でしょう!」
アメリアの提案にうつむいたまま驚愕したエリンは生唾を飲み込んだ。
※
誕生月が秋のエリンと春のアメリアは同じ年に産まれている。
アメリアの母が妊娠中に、当主が屋敷で働く奴隷にお手つきし、産まれたのがエリンだ。
ひと時の過ちであり、奴隷が一人増える程度にしか考えなかったのか、アメリアが産まれて以降、奴隷の母に対し伯爵は無関心となったそうだ。
結果、母は一人でエリンを産み落とした。
何も知らない幼少期は、母に守られ、エリンは育った。包み込んでくれる母がいてくれたからこそ、心は豊かであった。
他の使用人や奴隷たちも、別段普通に接してくれており、父がいないことを含め、なにも疑問に思わなかった。
エリンの母は常に人目につかない下働きばかりしていた。
母と一緒に過ごすことができ、不自由がなかったため気づかなかったが、要は、夫人が顔をも見たくないと、エリンの母を隅に追いやっていたのだ。
エリンが十歳を迎える前に、母は病気になった。
死の間際、父が誰なのか、母はエリンに語った。
驚きはあったが、納得もできた。
エリンとアメリアが、髪色、瞳の色、ひいては、面立ちまで、双子と言われても間違えようがないほどに、とてもよく似ていたからだ。
程なく真実を告げた母は亡くなってしまう。
その後、伯爵を見かけるたびに、内心腹立たしく思ったものだが、他に行く当てもないエリンは黙して、知らないふりをした。
同じ姉妹だというのに、扱いの違いが目につくようになったのはこの頃だろう。
美しい衣装を纏い、美味しい食事を食べ、教育を受け、両親の愛を一身に受け、弟二人にも恵まれたアメリア。
あまりの違いに絶望もしたが、下働きしか知らない身では、もうあの高みにはのぼれないのだとはっきりと自覚できた。
結局、エリンは奴隷の娘であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
割り切ったエリンは変わらず、働き続ける。
十四歳になった時だった。
国が奴隷制の廃止を打ち出し、貴族たちが抱える奴隷たち含め、国中の奴隷が平民になるよう法の下で定められた。
苗字がついてきたことと給金が規定量払われることになっただけで、暮らしはたいして代わり映えがなかった。
強いて違いをあげるなら、お金があれば医者にかかれ、子どもを教育でき、旅行にも行ける、というだけのことだ。
仕えている貴族は、所有者ではなくなるが、雇用者にはなる。
雇用される以上、主人が気に入らなければ解雇もできる。文字書き不十分な奴隷たちは、新たな世界に踏み出す羅針盤を持たないも同然。解雇されれば、行く当てがない。
結局、他の仕事に就ける者ならいざしらず、奴隷たちは、そのままの仕事を続ける以外に道がなかった。
他の者たちは、奴隷も平民も何が違う。違うところなんかなにもないじゃないか、と、不満を漏らしていたが、エリンは内心それは違うと思っていた。
(平民なら、お金さえあれば、お医者さんにもかかれる。つまりは、稼ぐことができたら、道が開けるということなんだ)
奴隷だから、主人がいる手前、母を医者に診せられなかったが、平民であれば違う。それは、一つの希望のように感じられた。
道がない世界から、道がある世界に、変わったように感じられた。
※
アメリアの提案をエリンは反芻する。
(これは、アメリア様の嫁ぎ先の話。
アメリア様が嫌がっている。
理由は、相手が奴隷出身の平民だから)
つまりは、元奴隷でありながら、出世し成功した人物であるということだ。
(すごい)
それだけで、エリンから見れば、殿上人のような憧れの存在に映る。
(そんなすごい人なのに……)
アメリアと違い嫁ぎ先の相手をエリンは高く評価する。ふってわいたような話に驚きながらも、エリンは状況を冷静に値踏みする。
(これはチャンスかもしれない)
このまま屋敷で、夫人の顔色を窺い、ただの下働きとして一生を終えるか、飛び出すか。
人生の分岐点が、扉が開かれると同時にやってきたと言えた。
考えを巡らすエリンの横で親子喧嘩が始まる。
「付け焼刃の娘をわが家の娘として嫁がせることはできない」
「どうせ平民出の騎士でしょう。兵士からの成り上がり。そんな男に、貴族の作法なんて見分けがつくわけないじゃない」
「アメリア、お父様に何という口をきくの」
「お母様、これは私の一大事よ。黙ってなんていられないわ」
アメリアは更に強くエリンの腕を引く。
はずみでバケツを落としそうになり、バランスを保つと同時に、アメリアの横顔をエリンは見た。
「付け焼刃でもなんでも、エリンに教えて、仕込めばいいのよ。どうせ日がな一日働いているのよ。それをまるまる教え込む時間にあてがえばいいのよ。なんなら、私が、その役を担って、教え込んでやるわ」
その宣言に、エリンの胸にほのかな期待がきらりと瞬いた。
「私は絶対に嫁がないわ。社交界で、上位の貴族の殿方と出会って、見初められて、婚約し結婚するの。小さい頃からずっとそう決めていたのよ。お父様にだって邪魔させやしないんだから」
両親を凝視するアメリアの視線の先を辿るエリンは、屋敷の主人を直視した。
怒られるかもしれない、鞭うたれるかもしれない。
そういう恐怖が一瞬よぎったが、意を決した。
(これはチャンスだ)
この場から逃げる。
確信が発言を後押しした。
「私、嫁ぎます。アメリア様の代わりに!」
室内に響いたエリンの宣言に、アメリアは歓喜し、彼女の両親は渋い顔をした。
【登場人物】
主人公:エリン・ミドルトン
ヒーロー:ダニエル・スネル
主人公の異母姉妹:アメリア・ミドルトン
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全11話、予約投稿済みです。(本日1話、明日3話、来週3話、再来週4話投稿)
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