昔の夢
それは遠い遠い昔の夢。まだ若かりし頃の話。
--------
――日傘の先で子爵令嬢の額を小突いている。傘の柄に伝わってくる振動が実に心地良い。暗い喜びで胸が軽くなっていくのと同じくらい、心に穴が開いていくような虚無感を覚える。
口からは頭で思っているのとは全く別の、心臓から勝手に流れ出てくるように悪意ばかりが吐き出されていく。
『ふんっ。なんて生意気な髪ですこと。その髪で殿下を誘惑したの?それともその胸かしら?まさか肌を許して脚を開いたの?よくも私の殿下の心を奪ってくれたわね。この売女が!』
『痛っ!痛い!や、やめてください!』
『フルールはそんなことしてません!』
『そうです!フルールはただ殿下のことが心配だっただけで!』
『お黙りなさい!!どんな理由があったにせよ、この小娘が殿下のお心を惑わせたことに違いは無いわ!!万死に値しますわよ!!』
――思い切り日傘を振り被って子爵令嬢の頭にぶつけてやろうとしたが、それは横から伸びてきた男の手によって阻まれた。
『よさないかコランティーヌ!!それ以上の暴力行為は許さないぞ!!』
『あら殿下、お見苦しいところをお見せしましたわ。今殿下に寄生する虫を駆除していますの。終わったら城でお茶会を開きましょう』
『虫だと!?フルールは虫なんかじゃない!!一体君はどうしたんだ!!こんな悪し様に人を傷付ける娘ではなかっただろう!?』
――私ではなく子爵令嬢の肩を持つというの!?あなたを惑わしたのはこの女なのに!!許せない……許せない……!!殿下までもが私を否定してこんな小娘を選びますのね!!
『子爵令嬢如きにお心を砕かれるなどと!!』
『君のやっていることはただの私刑だ!!このままでは婚約も維持できなくなるぞ!!』
『結局それが狙いですのね!?やはり殿下も私のことが邪魔なのだわ!私よりもこの女が良いのですね!?私よりも愛らしくて、私よりも殿下に優しく、私には無い物を持っているこの女の方が好きなのでしょう!!私と違って人肌のぬくもりを感じさせてくれるこの小娘を愛しているのだわ!!はっきりおっしゃってくださいまし!!』
『そんなことは――』
――殿下に気を取られていたのが良くなかった。まさか、あの女が掴みかかってくるなんて。
『……エドガー様はそんな人じゃありません……!エドガー様への侮辱を撤回してください!!』
『……っ!?バカ!!駄目よ、その手を離しなさい!!すぐに私から離れて!!』
『えっ……!?』
「……早くその手を離して!!」
「わかった!!」
直後、私の額にガンという鈍い音を立てて何か非常に硬いものが落ちてきた。あまりの痛みに何も言えず、ベッド上で悶絶する。
痛みが少し落ち着いてきた私は、ようやく現状を確認する余裕ができた。まず、落ちてきたのはおたまとフライパンだった。そして落としてきたのはポーラだった。
「朝だよ!全く何度フライパンドラムを聞かせても起きないんだもの!手を離せって言うから離してやったわ!ほら感謝!」
……あ、あの後そのまま寝てしまったということだろうか……?ここまで来た記憶が全くない……。
「う…………あ、ありがとう、ポーラ……。酷い夢を見てたの……昔の夢……」
「他人の夢ほどつまらない話はない!それより早く着替えないと仕事に遅れるよ!ほらパン食べて着替える!!」
「んもぁ!?」
ポーラは私にパンを詰め込むと、あっという間に寝間着を剥ぎ取ってしまった。
ポーラは魔力がないので、私に触れてもまるで影響がない。魔力が少ないのではなく、一切無いのだ。
生物なら例外なく持っているはずの魔力を持たない彼女は"動物以下"の扱いをされてきた過去もあるのだが……私にとっては彼女こそが唯一遠慮なしに感じられる体温だった。彼女が動物以下だとするなら、私などそれにも満たない塵芥に過ぎないだろう。
「今日はすっごく大事な日なんだからね!ちゃんと身だしなみも整えて臨むよ!」
「ふぇ……?何かあったっけ?」
「んもー!寝ぼけてるでしょ!夜会だよ、夜会!今日の主催はここなんだから、完璧な仕事をしないと怒られるからね!!」
そうだった。最近ちょっと刺激的な出来事が連続していてすっかり忘れていた。今日はアレクサンドル・フォン・サンティレール伯爵主催の夜会。そして主賓としてお迎えするのは、なんとあの王妃様だ。
フルール・フォン・エル・シャミナード王妃が、勇者様への激励のために挨拶にやってくる日だ。だから、あんな昔の夢を見たのかもしれない。
夜会の設営作業を行う前に、旦那様と奥様に目が覚めたことのご報告と、ご迷惑をお掛けしたことへの謝罪をしなければならない。
執務室のドアを叩いてから入室すると、そこにはどこか緊張した面持ちのご夫婦の姿があった。お二人は私の姿を見てまず驚愕し、その直後に安堵の声を上げてくれた。
「コレット!?もう、大丈夫なのか?」
「はい、旦那様」
「しかし急性魔力失調で倒れたんだぞ。もう少し休んだ方が――」
「いえ、働かせてください。夜会の準備をサボったとあっては皆に示しもつきません」
それに休んでいてもあの悪夢をもう一度見ることになりそうだ。それならまだ働いていた方がマシ。
「アレックス、本人が大丈夫と言っているんだからやらせてあげましょう。コレット、無理して夜会で倒れでもしたら減給よ。体調に違和感が出たら失態を晒す前にすぐ休憩室に飛び込みなさい。いいわね?」
「ありがとうございます、奥様」
棘を抜かぬ言葉でありながら、その棘に毒は無かった。奥様から激励のお言葉を頂けるなら、私はいくらでもご奉仕できる気がする。拾ってくれたのは旦那様だけども、一番仕事を楽しいと思わせてくれているのは奥様かもしれない。
「待て、その前に昨日の一件について話しておく」
旦那様の顔つきが険しくなった。あまりいい話ではないらしい。
「あの後、オートンシア嬢を連れたセレスタンがお前を診たのだが……どうやらかなりの量の魔力を排出することが出来たらしい。しばらく"破裂"の心配は無いと言っていた。ただコレットの魔力保有限界量が不明なままな上、しかもこの方法で魔力を使い切ってしまえば命に係わる。"雨乞いの遺灰"は俺が預かるようにして、余程一気に大量の魔力を吸わない限りは一週間に一回程度触れるようにしてくれとのことだ」
「かしこまりました」
確かに魔力が飽和しそうなほど満たされた状態で触ったにも関わらず、意識を失うほどの魔力を吸い上げられたのだ。半端な魔力量で触れば、かつての雨乞いと同じく灰も残らずに消滅する未来が待っているだろう。問題の根本が解決したわけじゃないということか。
「それと……セレスタンのやつが、お前をずいぶん心配していた。今日は忙しいだろうから、後日無事な姿を見せてやってくれ」
「え?」
あの人が?確かにずいぶん深刻な顔をしていたが……あの無遠慮な皮肉屋が他人を心配しているというのは、あまり実感が湧かない。
だが次に苦笑いを浮かべながら旦那様が話した内容は、それ以上に信じられないものだった。
「君を部屋まで運んだのは、彼なんだよ」
「セレスタン様が!?だ、大丈夫だったのですか!?」
「流石に君をベッドに連れて行った後はフラフラだったが、どうやら意識を失っている間は魔力吸収の強さも少し鈍るらしい。そのことも検証したかったと強がっていたが……まったく素直じゃないやつだよ」
なんという無茶をする人なのだ。下手をすればそれこそ瀕死に追い込まれかねない危険な行為だ。馬鹿な人だ。今度会ったら叱り飛ばさなくてはならない。
……しかし契約により魔力を吸い上げている旦那様と、魔力が無い故に魔力を吸われないポーラ以外で、私をまともに触れてくれる方がまだいたとは思わなかった。……運んでくれた事には、ちゃんとお礼を言った方が良いだろうな。
セレスタン・シュニエ…………か。
--------
訳ありメイド達。