オートンシア
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「はじめまして、コレットです。水の精霊様…ですか?」
「ああ。私はイフ。…おや?オートンシアはついてこなかったんだね」
もう驚かないが、水の精霊様にも根回しは済んでいるようだ。
「シアは今、セレスタン様と二人きりで話すことがあるからと、席を外しています」
「そうか、あの男に話す気になったわけか。随分と時間がかかったが、いよいよ決心がついたようだね。…さて、では早速君に魔力を渡そうと思うわけだが…その前に、君に言っておくべきことがある」
「…なんでしょうか?」
そしてこれもやはりというべきか、水の精霊様も私に対して何かを試したいらしい。だが直後、イフの温和な表情が一変し、凄みを持ってこちらを睨みつけてきた。あまりの迫力に、反射的にであろうが旦那様が剣を抜き、私の前に立った。
「君の甘さには反吐が出る。全くもって覚悟が足りない」
「…!?」
「アリストロシュの時も、チュベルーズの時も、君は魔力を全て吸い切ろうとしなかったな。何故だ?何故全て取り込もうとしなかった?」
精霊達はお互いに情報を共有する手段があるのだろうか。さも当たり前のように聞いてきた。しかし、当たり前のようにすべて取り込めと言ってくるとは…自らのこともそうせよと言っているに等しい。やはり精霊の死生観を理解することは難しい。
「全て吸えば、あなた方はこの世から消えてしまいます。私はあなたがたを消したいのではなく、魔王として覚醒し、この忌々しい力を制御できるようにしたいだけなのです」
「……ふ、ふはは!あっはははは!!なんと愚かで哀れな娘だ!!やはりオートンシアは、君に最も大事なことを教えずにここまで送り出したのだな!!オートンシアだけではない!!アリストロシュもチュベルーズも本当に甘いやつらだ!!」
「何が可笑しいのですか!?」
「可笑しいに決まっているだろう!!そろいもそろって君の境遇に同情し、魔王と言う存在について何も教えないまま覚醒の旅をさせていたとはな!!まさか精霊達に同情されながら魔王になる人間が出てくるとは思わなかったぞ!!はーっはっはっは!!本当に滑稽だ!!」
腹を抑えてゲラゲラと嗤う彼に、先ほどまでの温和さは微塵も感じられない。彼が見せているのは純粋な悪意と嘲笑だった。私のために全ての魔力を捧げてくれた彼らを侮辱するような態度に、怒りを覚えた。
「馬鹿にしないでください!!私はもう覚悟を決めてここに来ているんです!!あなたの魔力と地の精霊様の魔力も受け取って、私は必ず魔王として覚醒する!!私が喰らった精霊たちに報いるためにも!!」
「馬鹿を馬鹿と嗤って何が悪いか!やはり貴様は大馬鹿者だ!我々に報いるなどと笑わせてくれる…ならば教えてやろう!魔王とは精霊を取り込み、精霊に代わりこの国の自然を支配する存在だ!4属性の精霊を全て吸収しない限り絶対にお前は魔王にはなれない!!つまり魔王になると決めた時点で、お前はオートンシアを消さねばならないのだ!!お前が最も大事に思っている存在のひとつを、お前の手でな!!」
「………オートンシア…を……?それは、どういう…?」
「オートンシアこそが地の精霊なのだ!我ら4属性の精霊の頂点に立つ者!山に燃ゆるマグマを抱き!木々を支えて風を生み出し!地の底より水を湧かせる!火と風と水を束ね、その根源たる大地そのものを守護する上位精霊!それがオートンシアだ!!」
う……そ……!?
じゃあ、彼女が精霊たちに根回しをできたのも、彼女が地の精霊だから情報を共有できたということ…!?精霊に詳しいのも、彼女自身が精霊だからなの!?
困惑と驚愕で一切の身動きが出来なくなったところで、急激に接近してきたイフが私の胸倉を掴み、持ち上げた。
「な、なにっ!?」
その信じられないほどの速さは、あの旦那様ですら反応しきれなかったほどだ。息苦しさに抵抗するが、全くビクともしない。水と言うよりも血液と言うべき魔力が、凄まじい勢いで流れてきた。
滴るような悪意を込めた嘲笑が耳を打つ。まさに彼こそが魔王であるかのようだ。
「君は魔王になった後もオートンシアと幸せに暮らそうとしていたのだろう?だがそれは絶対に叶わない夢だ。君が魔王になればオートンシアは消える。そして私の魔力を取り込む以上、君は魔王にならざるを得ない。もし私とオートンシアを喰らうことを躊躇うようであれは、器が君を許さない。きっとオートンシアだけでなく、君の愛する人々の魔力と生命を貪り食うために悪意を取り込み、暴れまわるだろうな!」
彼は魔力を取り込みきられる前に、私を投げ飛ばした。凄まじい勢いで床に叩きつけられたため、一瞬呼吸が止まる。
「…っ!?げふっ、けほ!」
「さあ、どうするのだコレットと呼ばれる女よ!君の言う覚悟とやらが本物かどうか、この私に示せ!私を喰らい、オートンシアの魔力を喰らってでも魔王になる覚悟はあるのか否か!!」
私がシアを喰らう覚悟…人並みの幸せを得るためだけに、そんなものまで必要になるというの!?あの童女の命と、私の幸福が釣り合うはずがないじゃないか…!?
私の迷いにつけこむように、イフの声色は一転して甘く優しいものになった。
「それとも……ここで私を喰らわずに屋敷へ帰るかい?そうすればオートンシアは消えずに済むし、お前も今までの生活に戻れるよ?」
「えっ…」
「君は未完成の器のまま過ごすことにはなるが、勇者が生きている限りはそうそう暴走もしないだろうさ。むしろあえて発散させずに魔力だけを喰い続ければ若返ることもできる…夢のような体質だ。もし今代の勇者が寿命を迎えたら、その子供から魔力を分けて貰えばいい…どうだい?その方が良いのではないかな?」
「今帰れば……今までの生活に、もどるだけ…?」
今になって思えばひどく魅力的な…あるいはそれしかないと思える提案に聞こえた。
脳裏を幻が浮かんでは消える。私がいて、皆がいて、旦那様と奥様のお子様がいる。私は皆とは少し離れた位置からお子様の成長を温かく見守っている。触ったら危ないですよと時々苦笑いしながら。きっと私は、お子様を抱き上げることは出来ないだろうけど、お優しい奥様と旦那様なら許してくれるかもしれない。ポーラたちも分かってくれる。セレスタン様だって………。
………っ、いや、違う!それは逃げだ!!
私はまた逃げようとしていたのか!この卑怯者め!優しい魔王になるって約束したじゃないか!皆にも…シアにも!!
私は露悪的な誘導に乗りかけた自分に怒りながら、その気力を全てイフへと向けた。
「………惑わそうとしても無駄です!私は、もう逃げません!約束も守らずに帰って、皆が喜んでくれるはずがありません!私が喰らった精霊も、私を導いてくれたシアも許すはずがない!私は精霊の命を背負いながら魔王として目覚め、絶対に世界の脅威にならない生き方をしてみせる!!私がいる限り、魔王が支配する世界になんてさせません!!」
奥様は私に、旦那様の次に抱き上げて欲しいと言ってくださったのだ。後輩メイドや、ポーラだって、魔王になることを応援してくれた。シアだって何度も言ってくれたのだ。私が望む、優しい魔王になってほしいと。
ならば、こんなところで躓くわけにはいかない…!
「なんとしてでもあなたの魔力を頂いていきます!例えあなたと戦うことになろうとも!!」
「よく言ったコレット!シアをどうするかなど後で考えればいい!まずは水の精霊の魔力を手に入れろ!」
旦那様の後ろで、私は弓を握りしめた。あの速さだ、当たるかどうかはわからない。そもそも旦那様ですら捉えられなかったのだ、撃つ前にこちらが絶命させられる可能性すらある。それでも、私はやらなきゃいけない。私自身の幸せと、精霊たちとシアの気持ちを無駄にしないためにも。
だが、戦闘の姿勢をとった私達に対し、イフはあまりにも無防備だった。そして、最初の穏やかさを取り戻し……笑った。嗤うのではなく、慈しむように。
「その言葉が聞きたかった」
「……はい?」
「もし君が私の口車と挑発に屈していれば、ひどい未来が待っていた。君が自分の意志で、私達を喰らおうとしてくれて本当に良かったよ。さもなくばここで君を殺すか、無理矢理にでも魔力を注ぐかしなくてはならなかったからね」
あまりの豹変ぶりに付いて行けず、拍子抜けしてしまった。この感情の揺れ動きが激しすぎる点だけは、何度観ても慣れない。旦那様も毒気を抜かれ、剣をおろしている。あの殺気と悪意は、一体何だったのだ。
「……全て演技だったのですか?」
「いいや、全て本音だよ。精霊は隠し事こそするが、嘘をつかないし演技もしない。人間と違ってね」
その言葉に込められた皮肉が、ますますセレスタン様を想起させた。……今、猛烈にあなたに会いたいです。
「では私が消えてしまう前に、もし君がオートンシアを取り込まなければ何が起こるか、垣間見させてあげよう。それを観た上で、正しい判断をしてくれることを祈っているよ」
「未来…ですか?」
「あくまで可能性の一つだけどね」
そう言うと彼は指を打ち鳴らすと、周囲の水が止まり、静寂が支配した。そして周囲の風景が一気に移り変わっていき……そこには見慣れた食堂が広がっていた。その床の光景だけを除いて。
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「ここは俺の屋敷……か?」
「ああ。床を見てみるといい」
「床?……オレリーッ!?」
赤い絨毯の上に、屋敷の住人とメイドたちが横たわっていた。一見すると寝ているように見えるが…いずれも呼吸をしていない。そしてどの表情も絶望と苦痛に歪んでいた。奥様の腕の中には、小さな赤ん坊がいたが、やはり息をしていない。そして、その側には…旦那様と…セレスタン様の死体もあった。
そしてその横には私が呆然としたまま立っていた。その両手にはベットリと砂が付いている。
動悸が早まる。脂汗が流れる。この死体の山はどう見ても魔力と生命力を吸って作り上げたものだ。私が、殺したんだ。そしてその手についた砂は、おそらくは地の精霊を取り込んだ時の。
ガタガタと全身の震えが止まらない中、背後からバタンと乱暴にドアが開く音が聞こえた。ビクリと肩を震わせて振り向くと、そのドアの前には…ポーラがいた。
その手にはサンティレールの宝剣、勇者アレックスの剣が握られている。
『嘘つき…!』
幻の私に向ける目は、憎悪と復讐心で染まっている。
『嘘つきッ!!よくも…よくも騙したわね!!優しい魔王になるって約束しておいて…ちゃんと旅を終わらせて来たように見せておいて…よくも旦那様を…奥様を…!!』
『ポーラ…』
わ、私…笑ってる…!?
『何が可笑しい!!何が面白いと言うの!!』
『……いい天気だわ』
『っ!?許さない…!殺してやる…!!殺してやるッ!!奥様と旦那様の仇ッ!!私の手で晴らしてやる!!』
真っ赤に染まった目で私を見据え、一気に加速したポーラは私の腹部へと剣を突き立てようとする。幻の私はヘラヘラと笑ったまま動かない。
『死ねえッ!!コレットぉぉぉ!!』
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「うっ!〜〜〜っ…!!」
あまりの光景に、吐き気が止まらなかった。いつの間にか周囲の水は流れており、遺跡から流れる滝の中に私の吐瀉物が僅かに混じることになった。
「これは君がオートンシアを取り込まなかった際、最も平和的に迎えられる末路の一つだよ」
「こ、これが平和的だって!?」
「ああ。なぜなら彼女が殺したのは屋敷の人間だけで、最期は親友に看取られながらコレットとして死ねたのだから。他の末路も教えてあげようか?勇者の魔力でさらにじっくりと未完成の器を大きくしたコレットは、ついに国中の生命を吸い上げるんだ。だが大きくなりすぎた器はオートンシアの魔力だけでは飽き足らず、国境を越え、海を越え、世界中の悪意を吸い上げ、彼女は気付くんだ。最も美味い生命とは幼い――」
「も、もうやめてくださいッ!!!」
いくらなんでも残酷すぎる…!!
「いずれにせよ、ポーラはどの未来でも最後まで生き残り、最終的にコレットを殺す役割を担うことになる。何故なら今代の勇者の器を持つ人物とは、彼女に他ならないからだ」
「何…!?ポーラが!?俺ではないのか!?」
「所詮君は、国が認めた勇者に過ぎない。奪われる魔力もなく、親友を斬る覚悟と勇気を持てる彼女こそが真の勇者なんだよ。無限に等しい魔力を吸い上げるコレットに対し、人並み以上に魔力を生み出せるだけのドラゴンキラーが出来ることといえば、魔王の腹を一時的に満たすだけの魔力を分け与えることだけだ。食糧に過ぎないんだよ、勇者アレックスは」
シアを喰わねば残酷な未来しか無いことに絶望しつつ、私の頭は冷静な部分を残していた。いや、常に逃げ道を探す私の本質が、わずかな猶予を求めたからかもしれない。
「……シアをいつまでに喰わないといけないのですか?」
「コ、コレット…!」
未来を知るイフであれば、きっと私のレッドラインも分かっているはずだ。
「………教えることにあまり意味があるとも思えない。私を吸収したらすぐ、オートンシアを――」
「お別れまで少しでも長く一緒に過ごしたいんです!!お願いします!!必ず魔王になってみせますから…どうか!!」
シアを喰らわねば、私の幸福どころか、世界中の人々を食い尽くしかねない。ならせめて、お別れを言う時間は少しでも長く…!
「……いいだろう。オートンシアの言う通り、君は本当に優しい。最後の最後は間違えないと信じてあげよう。………一ヶ月だ」
「そ、そんなに短いのか!?」
「むしろ長い。普通なら二週間と保たない。アリストロシュとチュベルーズの思念が君の器に強く宿っている。……あの二人らしくないほどの力強さだ。どうやら随分とあの二人に気に入られたようだね」
それでも、一ヶ月だ。ここからなら屋敷までニ週間。つまり、帰りを待つ人々が別れを偲べるのは…ニ週間だ。
「そこに私も尽力した上での一ヶ月だ。個人的に言えば、私は君のことが嫌いなのだ。君は嫌なことからすぐに逃げるからな。我々の尽力に心から感謝するのだな、新魔王コレットよ」
「いえ…十分です。ありがとうございます」
話は終わったとばかりに、一方的にイフが私の手を力強く握った。胸倉を掴まれた時よりもさらに強い勢いで、イフの魔力が伝わってくる。そして彼の姿は足元から徐々に泡沫となって失われていく。
「コレット。君のために犠牲になった者達を笑って悪かったな。君を試すためとはいえ、言い過ぎたとは思っている。……彼らのために怒ってくれたことに感謝している」
「………いえ、あなたの言う通りでした。半端な覚悟であなたの魔力を貰おうなどと…」
「ああ、それはその通り。だが気をつけろ。恐らく一ヶ月を待たず、君は魔王にならざるを得なくなる」
「っ!?どういう意味ですか!?」
泡沫となって消える直前、その瞬間だけは険しくも剣呑な、余裕のない表情だった。
「魔獣集団暴走が発生する。サンティレール領の近くだ。別れを偲ぶなら、急げよ」
それだけ言い残し、イフは泡となって消えた。手に残った、割れた泡沫の水しぶきが、彼の憂慮を表しているように見えてならなかった。




