おやすみ
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「…あれ?」
「ん?どうした、コレット」
アリストロシュの魔力を得た私達は、翌日から再び馬車を走らせた。火の精霊からは風の精霊が近いというシアの助言に従い、"風生みの森"と呼ばれる土地へ向かっている。馬車の操作をセレスタン様に任せ、急に抱きつかれる前にと旦那様の魔力を早めに吸い上げていたのだが…。
「なんか、いつもより気持ちよくなかった気がします。刺激が弱いというか」
「そういえば今日は平然としていたな。うーん…足りなかったのか?」
「いえ…むしろいつもより激しくて濃かったと思います。何が違うんでしょう…?」
「わからんなあ…ついに俺も歳をとったのかな」
直後、うんざりしたような声が御者席から響いた。
「おいやめろやめろやめろ!倦怠期の営みに悩む夫婦みたいな会話に聞こえるぞ。安易に主語を抜くな。そんなんだからオレリーがいつまでも安心できないんだよ」
「は!?俺のせいか!?」
「今回はコレットも共犯だな」
「私もっ!?」
「えっち?」
「ていうかお下品だな」
「二人はおげひん」
「やめてシア!その言葉は私に効きすぎる!!」
私には相当甘いセレスタン様でさえこのような反応をするということは、奥様からすればかなり噴飯物だったのではないか…?
……そうだ、もしセレスタン様が奥様とそのような関係だったら、私だったらどう思う!?
『あっ…!くぅぅ…!い、いきなりは止めなさい、セレスタン…っ!んっ…!』
『いつもすまない、オレリー…!か、体が勝手に…!はあ…!』
……………あ、だめだ。普通に手が出そう。
想像しただけでアレなのに、実際に長年そのようなやり取りを見ても嫉妬程度で済ませてくれていた奥様は、実は本当に聖女様…いやそれ以上に慈悲深かったのではないかと思い至り、帰ったらこれまでのことを誠心誠意謝ろうと思った。よくこんな私から母親の在り方について説教されて、言い分を認めてくださったものである……今日から足を向けて寝られる気がしない……。
「"おげひん"はいいけど、気持ちよくないのはアリストロシュのおかげ」
「おげっ!?…え、アリストロシュの?」
「器がちゃんと成長できて、満足してる証。満足してるうちに風の精霊に会おう」
アリストロシュのあのニヤついた顔と、昨日感じた胸の熱さを思い出した。彼の魔力はとっくに冷めたはずだが、あのデリカシーの無い精霊が今も私のことを守ってくれていると思うと、再び少しだけ胸が温かくなった気がした。
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その森へ到着するまでには一月ほどの期間を要した。火の精霊が支配する領域が広いのもあったが、これまでよりも多くの魔獣に襲われることが増えて、馬車を進めるのに時間がかかってしまったのが大きい。
この風生みの森と呼ばれる土地は、木々の間を縫うように風が練り動いている。その風向きは常に安定せず、迷い込んだ者の多くは方向感覚を失ってより奥へと進んでしまうことから、所謂「迷いの森」とも呼ばれており、どちらかと言えば後者の方が有名な呼び方だ。
かつて、私に生き方を教えてくれた老冒険者の話が蘇る。
『小娘。独りで生きていくつもりなら、迷いの森にだけは近付くな』
『迷いの森?』
『正しくは風生みの森。あそこは孤独に苛まれる者を魅了する。魅了されれば最期、二度と森から出ることは叶わぬ』
『……貴方様も、その森に入ったことがあるのですか?』
『ああ。…二度と行こうとは思わぬ』
結局最後まで名を教えて貰えないまま、忽然と私の前から姿を消してしまったが、今も元気にしているだろうか。あの人のおかげで、今私は素敵な人々に囲まれて過ごすことが出来ているのだ。いつかまたお会いすることは出来ると信じたい。
「こっち。よそ見禁止」
「よそ見だって?」
「うん。惑わされると面倒」
シアはまるで庭を歩くようにグングン奥へと進んでいく。木々で光を遮られた森の中は薄暗く、恐らく振り返っても木々で阻まれてしまっていて何も見えないだろう。魔獣の姿こそないが、来た道もわからなくなってしまうこの深い森そのものが、最大の強敵と言って差し支えない。その森の中を目印も無しに進んで行くシアの背中に不安を覚えた。
「ねえ、コレット」
「え?」
シアに後ろから声を掛けられた私は、思わず振り返ってしまった。そこにはシアが満面の笑みでこちらを見上げていた。私の困惑を見て取ると、にぃっと歯を見せて笑みを深くする。
違う…シアじゃない!!シアはこんな笑い方しない!!
「おやすみ♪」
「ひっ!?」
シアの姿をした者が手を振った瞬間、私は意識を失ってしまった。
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コレットの体が急にぐらりとバランスを失い、倒れそうになった。僕は考えるより前に彼女の体を両腕で支えた。
「おい、コレット!?どうした、しっかりしろ!!……ぐぅっ!?」
「コレット!?お、おい、セレスタンも大丈夫か!?」
意識を失っている間は魔力を吸う量が少ないことは検証済みだったが、それでも魔力を減らす前にコレットに触れると相当な疲労感に襲われた。ここで体力を消耗するわけにもいかないので、一度彼女を木の根に下ろした。
「はぁっ…!はぁっ…!」
「すまないセレスタン、俺が受け止めるべきだった」
「いや…いい。たまには僕もコレットの体温を感じたかったからね」
かろうじて皮肉を投げるが、わずかな時間で相当な量を吸い取られたらしく、立ち上がることが出来ない。以前屋敷で彼女を運んだときは、メイドが当直に使う部屋まで運べたはずなのに。
「シア、コレットに何があったんだ」
「やられた。チュベルーズに惑わされてる」
「チュベルーズとは…?」
「風の精霊。惑わせて幸せな夢を見せる」
くそ、また精霊の仕業か…!!コレットに危害を加えなくては気が済まないのか!?
「教えろ、シア!起こす方法は――」
「無い」
事実をただ告げるような断定。シアが断定するのは、曲げられない事実を話すときだけ。
「おねえちゃんが夢に飽きるのを待つだけ。今日か、明日か、お婆ちゃんになるまでずっとね」
「ばかな……」
その呟きはアレックスだったか、それとも僕のだったか。
コレットは反応を示さぬまま、静かな寝息を立てていた。
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