氷解
気まずい二人
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フルール・フォン・エル・シャミナード王妃は、専用の待機室で私達を待ち受けていた。その目にはあまりにも多くの感情が混ざり合っていて、何も汲み取れない。憎まれているばかりだと思っていたというのに、どうもそれだけでは無さそうに見える。
一体、私に魔力と生命力を吸われ、瀕死から脱した後の彼女に何があったというのだ……?
「…………人払いを」
「ご安心ください、王妃様。私はコレットの保護者に過ぎません。ドラゴンキラーの名に誓って、お二人のお話に割り込んだりはしないとお約束しましょう」
もちろん、これが通るなどと彼も思ってはいないだろう。暗に「害したら王族相手でも許さない。さもなくばドラゴンを滅した力が貴様らに向くと思え」と宣言……いや、脅迫しているのだ。そしてその意図を、フルールも正確に汲み取ったらしい。
「…………今日はコレットと二人きりでお話したいだけです。大丈夫、お話が終われば夜会会場までお二人揃って案内させます」
「承知いたしました。コレットのことをよろしくお願い申し上げます。……では後でな、ミス・コレット」
最後は私にしか聞こえない声で囁きかけて、セレスタン様は退室された。部屋に残されたのは私とフルール、そして話が聞こえない位置で控えているメイドだけだ。
「……コランティーヌ様……ですか?」
やはり、似過ぎているからだろうか。……ここで娘だと言い張っても仕方ないだろう。
「……ご無沙汰しております、王妃様」
「ええ、お久しぶりです。……彼に誓いましたので、今日はこれ以上コランティーヌ様とは呼びませんが…………やはりあなたはコランティーヌ公爵令嬢なのですね。体が……覚えております」
……フルールが震えている。怒りか、憎しみか……それともトラウマが蘇っているのか。
「私を招待したのはコランティーヌの娘だと思ったからですよね?」
「…………ええ。城門では兵が大変失礼いたしました。"コランティーヌの娘なら待機室へ案内してください"と騎士団長に言っておいたのですが、まさか参加者も集まっているだろう城門前の兵に確認させるとは思わなくて」
つまり、まず夜会を普通に楽しんでもらってから、適当なタイミングで二人きりになろうとしていたのか。それをあの騎士団長が「コランティーヌの娘であればすぐに連れてこい」と命令を曲解して、部下に指示を飛ばしていたのか。あとでセレスタン様にはこの辺の誤解を解いておこう。
「……あのサンティレール伯爵邸で見かけた時、あまりに似ているし、あなたの体質を考えたらもしやとは思っていましたが……まさか本当に本人とは。いつまでも若々しくて羨ましいですが、あなたと年齢が離れてしまったのは、少し残念でもありますね」
少なくともその言葉に嘘は見当たらなかった。私も……同級生がずっと年上になってしまったことは寂しい。恐らく、私は同級生が全員天寿を全うしたのを見送ることになってしまうだろうから。
「……ご用件をお聞かせいただけますか?」
王妃の目的がわからない以上、ここは単刀直入に聞くことにした。
直後、フルールの目に暗い炎が宿った。攻撃的な欲求がありありと出ているが……その右手の甲からは血が流れていた。左手の爪が右手の甲に食い込んでいる。まるで、湧き上がる黒い感情を押し留めるかのように。
「お、王妃様……!?」
「ねえ……教えてくださる?」
まるであふれる殺意に抗うような不安定な声色だった。
「コレット……あなたはこの"悪意"と、どう向き合ってきたの……?」
「……!?ま、まさか……フルール、あなたもしかして、周囲の悪意を!?」
一瞬、私の体質によって集められた悪意が、コレットに移ったのかと思った。あの日、コレットの魔力と生命力を吸った日から、私は悪意から避けてきたから気付いてなかっただけで、実際はフルールに移っただけだったのかと。
だが、フルールは首を横に振った。泣きながら、切れた口の端と右手の甲から血を流しながら、殺意を込めた目で私を睨みつけて。
「周囲の悪意……?なんのことかわからないわ。……これは私自身の感情……私の悪意……周囲への敵意よ……」
「フルール……の……?」
「最近、忘れてた感情がどんどん蘇ってくるの。嫉妬したり、イライラしたり……いっそ殺してやりたいと思ったりする、汚い悪意が。ここ数年、まるで無縁だったはずの醜い感情を抑えきれなくて、周囲に当たるようになってしまっているのよ」
その瞬間、ドロリとした生温く重い空気が部屋の中を支配した。
「ねえ、学生時代の私を覚えているかしら……?私って優等生で、優しくて、殿下のために尽くしていた女だったわよね……?あなたにいじめられても、いじめられたことには怒らなくて、友達が侮辱された事を怒れる正義感の強い娘だったはずよね……?」
フルールの言っていることはその通りだった。いや、あの時は誰もが善良だった。誰もが善意と正義で動き、悪の権化である私と戦う勇者たちだったのだ。
「でも、おかしいのよ。私、昔はそんな良い子じゃなかったはずなの……喧嘩っ早くて、自分勝手で、些細なことですぐ癇癪を起こす子供だった。どちらかと言えば不良少女だったと思うわ」
それは私が知るフルールのイメージとは違った。だが、彼女はそれが本来の自分だという。理解し難いことが顔に出ていたのか、フルールの顔に苦笑いが浮かんだ。
「本当よ?なのにあの学園では皆と一緒に穏やかに暮らしていたのよ。皆も優しい人ばかりだった。…………全員がよ?でもそんなの絶対おかしいわよね?学園にいい人しかいないなんて、あり得ないじゃない。しかも数年後に殿下と結ばれて城で過ごすようになったら、城の人々も学園の皆と同じくらい優しかった。まるで善意と正義のみで動いているかのようだった」
……フルールは自力でその違和感に気付いたのか。誰もが自分の正義を信じ、酔っているはずの夢の日々に対する違和感に。皮肉にも、自らが悪意を取り戻したことによって。
「ねえコレットは何か知ってるんでしょう?どうしてコレットは学園で悪意を持てたの?どうして私は今になって悪意を思い出したの?どうして今のあなたは悪意に抗えているの?ねえ……教えてもらえる?」
彼女の言っていた言葉が理解できた。確かに目の前にいるフルールこそが本来の姿なのだろう。溢れ出る悪意を認識しながら、善意と理性でそれに抗う姿は、学園の勇者たちや城内の清潔な貴族達とも違い、まさしく人間そのものだった。
なら、私も人間としてちゃんと答えなくてはならないだろう。故意ではないにせよ、彼女から彼女たらしめていた物を奪ってしまったのは事実なのだ。これこそコランティーヌが犯した最も重い罪に違いなかった。
「私が悪意を振りまくことが出来たのは、皆の悪意を私が根こそぎ奪っていたからです」
「…………?」
「私の体は長い期間魔力を奪わないでいると、周囲の人々から悪意を全部奪って自分のものにしてしまうんです。あなたが持っていたあなたらしさも、学園の皆のも、お城にいる人達のも、全部私が奪って自分の物にしてしまったんです」
「悪意を……奪った!?」
荒唐無稽な話だ。感情を奪うなどと馬鹿げている。私だって未だに分かってないことも多い。だが、本来の悪意を取り戻したことを自覚したフルールが聞けば、これまでの違和感がすべて氷解する事だろう。
そして、私に対する殺意も明確になるはずだ。
「私はうんと小さな子供の頃から、誰にも触ってもらえませんでした。お父様にも、お母様にも、もちろん殿下にも。触れば死ぬかもしれないって怖がられてて、誰からも。ご存じですか?私に人肌の暖かさを初めて教えてくれたのは、あの日私の腕を掴んでくれたフルールだったんですよ」
「私が最初……じゃあ、それまでは本当に一度も……?」
「はい。だから私の体は常に魔力に飢えていたのだと思います。飢えて、飢えて、飢え続けて、ついには体の方が我慢できなくて、魔力を簡単に奪えるような人間になるように仕向けたのでしょうね。周囲の悪意を貪ってからは、人を陥れるのが楽しくなりました。人が悲しむのを見ると嬉しくなった。おかげで私は望んでもいないのに、簡単に人を傷付けて愉悦に浸ることができたんです」
もしあの頃、人肌の温かさと優しさを教えてくれる誰かがいてくれたら、私はもっと違う人生を歩めていたのだろうか。セレスタン様がそばにいてくれて、魔力を使い切れば私と触れ合えることを皆に気付いて貰えたなら、私はあの巨大な悪意の波に飲まれずに最後まで善意を信じる理性を保ち続けることが出来たのか。
あの日の私に、今のフルールのような気高さがあれば、あるいは。でも、そんな夢想に意味はない。私は平民へ落ち、フルールは王妃となった。私の悪行が引き金となって。それが全てだ。
「悪意のまま動くのは気持ちよかった。人を傷ついたり悲しんだりしてるのを見ると、心が軽くなりました。でも最後の一線である魔力吸収だけはしないで済みました。……あなたに触れられるまでは。もしかしたらあなたに悪意が戻ったのも、その時だったのかもしれませんね」
だがフルールが悪意を完全に取りもどすまでに、そこからかなりの年月を要しているようだ。だとすればフルール以外の人たちは、皆まだ善良のままでいると思うべきだろう。それも善良足らんとしているのではなく、悪意を持てないが為に善良として表れるだけで。
もしかしたら私がもう一度触れていくことで、城内の人々も悪意を取り戻せるかもしれないが……それを試すにはリスクが大きすぎる。
「…………では、今の私が抱えているこの悪意は、私が狂ったからあふれ出たものではないのですね?私が誰かを嫌ったり、妬んだり、憎んだりするのは……おかしいことではないのですね?」
どうやら、これこそが確認したかったことらしい。確かに今まで無かったはずの悪意が急に湧き上がってきたら、誰だって困惑するだろう。
「……それは自然な感情です。今までずっと胸に秘められていたものが表れただけなんだと思います。私がはじめから存在しなければ、その悪意ともっと早くから向き合えていたはずです」
私は一体、どれほどの罪を重ねてしまっているのだろう。どれほどの人生を狂わせてしまったのだろう。考えれば考える程、私が幸せになっていい理由なんか無いような気がしてしまう。
「はじめのご質問にお答えしますが、私は悪意に抗っているのではありません。私だって怒ることはあるし、イライラしたり、誰かを憎むことはあります。でも、怒っても後で仲直りすればいいし、イライラしてたら別のことで発散すればいい。サンティレールご夫妻や友人たちに支えて貰えているから、悪意を抱えたまま生きていることが出来ているんです」
「悪意を抱えたまま……生きていく……」
フルールにとっては残酷な言葉だったかもしれないが、もう一度悪意を取り込むわけにもいかないのだ。普通当たり前にある感情なのだから、なんとか折り合いを付けていくしかない。
ただ向き合う時間を奪ってしまったことだけが悔やまれ、後ろ暗い気持ちになる。その後ろめたさが、私の中にあった贖罪を望む気持ちを蘇らせた。
「フルールが自分の感情に疑問を抱き、恐怖してしまった原因は私にあります。だから……フルールには復讐の権利があると思います。私が命を吸ってしまったフルールの手で裁かれるなら、私も納得できます。それだけのことをしたと思うから……あなたの思うまま、私を裁いてください」
後ろ暗い気持ちのまま捨て鉢になりかけた私を、フルールの瞳が射抜いた。
「裁判所を通さずして私刑を下すような真似は、このフルール・フォン・エル・シャミナードの名がある限り絶対に認めません。シャミナード王国は法によって公平に統治し、公平に罪を裁くすることを誇りとする国。すでに王都追放の沙汰を下されたコランティーヌに、これ以上の罰を与えることはこの私が許しません」
はっとして顔を上げると、そこには今までで一番のきらめきを瞳に宿したフルールがいた。あまりの美しさに息を呑んだ。
なんて綺麗な人なんだ。
学園で見た勇者然としていたフルールとは比較にはならない。自分の悪意を認め、それを受け入れてなお善性であろうとする人間は、こんなにも美しいのか。
「…………コレット。教えて頂戴。今日はこれだけ教えてくれたら帰してあげる」
自らの暗部を認め、王妃としての自分を取り戻した姿に圧倒された私は、ただうなずくことしかできなかった。
「どうして学園で魔力を吸おうとしなかったの?きっとあなたが周囲の悪意に飲まれていた時は、敵意を向けてくる人々の魔力を吸いたくて仕方が無かったはず。チャンスだっていくらでもあったはずなのに、あなたは私が腕を掴んだ時もすぐに離すように言ってくれた。私が抗えない悪意を取り戻してもなお狂わなかったのは、あの時のコランティーヌが脳裏に焼き付いていたからだわ」
フルールは、私のことをそんな風に思っていてくれていたのか。魔力を吸われて昏倒し、突如取り戻した強烈な悪意に苛まれていたにも関わらず、私を指標としてくれていたというのか。
……勝てない。王族に相応しい大器だ。ただ罪から逃げ続けてきた私なんかとは比較にならない。
私が逃げ出した後、フルールが殿下の隣に立ち、支えてくれていたことに感謝してしまった自分がいた。それは自分の中に僅かに残っていた殿下への恋心を、過去の物にするのに十分な衝撃だった。
「…………どうしてなの?」
「……たぶん私にしかわからない感覚だと思うのですが……魔力を吸うときって、相手の血を吸っているような錯覚を覚えるんです。相手の命を喰らっている感覚……なのに、凄まじい快楽が走る。とても気持ちいいんです」
「気持ちいいですって……!?」
「はい。ですがそれはひどい不快感も伴います。まるで強引に快感を与えられているかのような強烈な違和感も。昔から私は、この気持ちよさに慣れたらいけないと常々思いながら生きてきました。多分それが私の根っこにあったから、私は悪意に飲まれても寸前で道を踏み外さずに済んだのだと思います。もしあの悪意の思うまま快楽を求めて学園中の魔力を吸うようになっていたとしたら、それはもう学園内の騒動では片付かなかったでしょうね」
その時点で私は国の討伐対象になっていたはずだ。フルールもそれに気付き、顔が青くなっていた。だが学園で正義のまま動いていた、かつての勇者フルールは既にいない。顔つきを一新させた彼女は毅然として語りかけてきた。
「コレット。あなたの事情がどうあれ、私はあなたをまだ許すことは出来ないわ。あなたが学園でしてきたことについては既に裁かれているから遺恨を残すつもりもないけれども、あなたの体が私たちから感情を奪い去ったことについては、まだ何も償えていないのだから」
「…………その通りです。私は罪を償うよりも、私を敵視する人々から逃げることを選びました」
「いいえ、体質を理由として罪に問う事は出来ないわ。あなたのそれは不可抗力でもあるのだから、裁判にかけられる類じゃないことも事実。そこで王妃として特別な償いを命じるわ」
王妃はニヤリとして笑い、政治的な狡猾さも匂わせる強い目で私を刺し貫いたまま、指差した。
「国の支援の下、体質の改善を命じます」
「……え?」
「あなたのその体は、あなたの意思から離れて暴れる部分がある。それは国を危うくするし、個人の努力で改善を図るのにも限界があるわ。あなたが意図して民に害を加えず、メイドとして国の仕事を支える道を選ぶのであれば、あなたの体質改善に国として力を貸しましょう」
「ど……どうしてそこまでしてくださるのです?」
フルールは露悪的な笑みを浮かべて見せた。
「復讐よ。あなたの愛する殿下と私が治める国が、あなたを含めた万民を幸せに導くところを見せつけてあげるわ。あなたよりも私の方が国母に相応しかったということを、その長く伸びた寿命を使って見届けることね。どう?どんな私刑よりも辛いでしょう?」
フルールは突き出した指を全て広げ、私に手を伸ばしてくれた。
私と握手をしようとしてくれるのか。
学生時代にあなたを虐げ、今もなお苦しめている私を助けてくれるというのか。
……ああ、フルール。あなたが殿下の隣に立ってくれていて、本当に良かった。
「わかりました……!最期まで見届け、陛下と王妃の功績を後世に伝えますことを、ここに誓います……!」
「ええ。子供が出来たら私にちゃんと見せるのよ?たっぷりと恩を着せますからね?」
私はフルールの魔力を奪い過ぎないよう気を付けながら、一瞬だが固い握手を交わしてすぐに離し――この日、初めて二人で笑いあった。学生時代には考えられなかった、屈託のない笑い声が待機室に響き渡った。
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復讐の味はどんな味?