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妄想論

自分の現実にない願望

作者: とびうお君

 ご都合主義と似てるんだけど、主人公の欲望に忠実すぎる展開ってのがなろうの軸にあって、ここについてその主人公と同化的に楽しむってのがある。自己投影の部分だと思う。後これに対するブレーキのようなものになるかと思う。ブレーキが何故生じるのか?はむつかしい。一番簡単なのはリアリティ、リアリズムだけど、ファンタジー系の作品を見てるともってややこしいと思う。


 まずこのブレーキの部分が人によって違いすぎるってのがややこしくなる点。そもそも質が違うってのがある。次に量=程度が違う。質が違うのと量が違うのが区別できてない人も多い。単純に自分の感覚からリアリズムだけの質の違いで語る人もいるが、周りの皆がそうか?と言うと全く違うのでまるで意味のない言い争いになる。


 多分これには答えがないってのが正解で、じゃ何のために書いてるか?と言うと、答えを導くためじゃなくて、基本的に答えの出ない論争って多分不毛なんだと思う。最初から意味のない言い争いをしてると見ている。


 どういう風に意味がないのか?と言うと、アクセル=シンプルな願望にたいして、ブレーキ=様々なものの質量ともにばらばらな人たちが、最終的な結果として満足を得ているため共通性が全くないってのが原因になる。もっと言うと多分アクセルの部分の質量も違う。それは前も書いたけど、なろうにおけるファンタジーの偏りは一般化しにくい好みの部分だと思う。


 好みを持ってるか?持ってないか?でそもそも刺激の強さが全く違う。アクセルとブレーキの差が満足度だとするとその大きさの違いは千差万別になるし、かつそもそも質が違う場合比較すらできない。


 展開って意味でご都合主義に結びつくんだけど、別にそれだけじゃなくてもっと根源的にどうなってるか?で、多くの場合自分が置かれてる現実とは違う願望が土台となってると思う。だからこそこれはリアリズムと相反する部分を持ってると思う。それに対してブレーキはリアリズムと絡むケースが多い。


 おそらく最初からめちゃくちゃややこしい話になるに決まっているんだと思う。一人の人の中でこのアクセルとブレーキがバランスが取れて完結してるものを他人のずれたそれらで突っ込んだところでまともな話し合いになるはずがない。ある作品に対するそれらの絶妙なバランスに受け手がばらけて支持するとする。


 そうなると、それはもうすみわけのようなものになる。争うための共通の土台がない。だから言い争いが不毛になる。


 特に問題はどちらかと言えばブレーキの方が発達してしまってる人は大きな勘違いをしてるのだが、根本的にアクセル部分がなければ意味がない。多くの物語はご都合主義が土台になってる。最初からリアルな現実にない願望こそが多くの物語の基本の面白さなのだから。


 確かにそういうタイプの物語じゃないものも多い。だが子供向けとバッサリできるほどか?と言うと、少なく見て半分以上はリアルな現実にない願望が土台になった物語の楽しみなんじゃないか?と思うし、そうじゃない物語も、それらの基礎要素と複雑に絡み合って成立していると思う。


 結局のところ、なろう作品はおかしな作品と言うより、単に物語の刺激の大半がなろう作品と大差ないってのが分かってないのだと思う。次にそれらに対するブレーキとのバランスが人によってバラバラで、それらを共通して話し合うことができないって現実を無視してるんだと思う。何かしらの共通した言及が可能だと思い込んでるから自分の価値観で批判が繰り返されるが多分それは不毛な言及だと見ている。


 現実にない願望、この刺激の重要性を多分わかってない。そうじゃない楽しみがあるのは認めるが、割合的には特にアニメ漫画ではこの楽しみが最も重要だと書いても問題がないと思う。後はそれに対するブレーキの部分が人よって違いすぎるからこの本質が見えないんだと思う。


 多分この重要な刺激自体を否定するような話になってしまってる人が多い。それが出来るのは多分文学ぐらいじゃないかな?と思う。だが大衆娯楽って意味ではそういう刺激が薄い物語を楽しむ人はそう多いだろうか?特にアニメ漫画に絞った場合皆無じゃないかな?とは思う。


 観客型と自己投影型と書いては見たが、実際アニメ漫画の観客型は自己投影型を俯瞰的に見ても面白いように進化してきただけにすぎないと見ている。土台の設定部分にあまり違いがないのはそのせいかと。


 大半の大衆娯楽の物語は、現実にない願望を求めてみるものだという事をもっと理解すべきだと思う。ブレーキの部分について考える前にである。ブレーキの部分に目を取られてそっちの批判ばかりしてる人が多すぎると見ている。大衆娯楽は根本の部分ではどの物語もこの部分を含んでいるとは思うのだが。


 ブレーキの部分の感覚が違うなろう読者によって選び出された、現実にない願望ばかり取り上げられるが、実際はその点突っ込むのは不毛だと思う。それはなろう外でもそう違いはないからだ。


 間違ってると言ってるわけじゃない。人によって千差万別にばらけてしまって言い争いが不毛だと書いてるんだ。その根本はそもそもアクセルとブレーキが矛盾をはらんでるからになる。現実にない願望のため現実を重視するリアリズムと密接に絡み合ってとてもややこしいことになる。


 それが分かりにくいのはアクセルとなる刺激について多くの作品がなろうでシンプルに見える現実にない願望の刺激が見えなくなってる作品がなろう外では多いからになる。この手の話で最後はリアルである事を無視できる面白さがあるって事で落ち着くケースが多い。


 実際はそこは多分違うんじゃないか?と見ている。そういう絶対的な作品があるわけじゃなくて、単にアクセルとブレーキのバランスの個人差が集団で合致しただけじゃないか?と思う。そこに答えがあると勘違いしてしまってることが原因じゃないか?と思う。


 ある程度答えを導き出せるとすると、それは時代を固定化した集団における数の多さについてだけだと思う。こう作ればこれだけの人が集客できるって話になる。そういった詳細なしに、良い作品の定義のように思い込んでしまってる人が居ると思う。



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