たった一人のあなたという価値
イーリンはすすり泣いていた。
シスター・ヴァネッサは鎮痛な表情を浮かべ一言も喋らない。
「マリー」
マリーの話にずっと耳を傾けていた院長が、マリーの目を見て口を開いた。みなが院長を注視した。
「あなたは悪くありません」
静けさに満ちた瞳、確かな意思に満ち厳かに響く声。
「あなたは何一つ悪くありません」
その言葉は託宣の如く聞く者たちの耳に響いた。
マリーが目を見開く。
「あなたの心はできる最高の努力であなたを守った。その努力を否定してはいけません。全てが自分を否定する世界では息をすることすら辛かったでしょう。残酷なこの世界は、いつかあなたの心を殺していた。だからあなたの心が、脆いあなた自身を守るのは当然です。例え偽りの自分を作ろうとも」
院長はマリーの傍らに寄り添った。
「よく頑張ったわ。とても偉かった」
院長はマリーの頭を撫でる。
「自分自身よりも心から誰かを愛する。それができない人はいるのよ」
呆然としたマリーはただただ聞き入る。
「あなたは親を愛し、愛されたいと願い頑張った。あなたは何一つ悪くありません」
マリーの心の中に固まったしこりがポキンと折れた。
「もう自分を責めてはいけない。だから、あなた自身を許してあげなさい」
マリーは声をあげて赤子のように泣いた。
ああ。
ずっと誰かにそう言ってもらいたかったのだ。
自分は悪くないと。
自分を許しても良いのだと。
自身の心の奥底にあった望みにマリーは始めて気づいた。
「泣くことは恥ではないのよ。涙と一緒に苦しみを洗い流してしまいなさい」
そう言って院長はマリーの頭を撫で続けた。
「辛かったわね、マリー。よく頑張ったわ。でも今は一人ではないのよ。私たちがいるわ」
そのままマリーが泣き止む長い時間、院長はマリーを優しく撫で続けた。
「今日はゆっくりお休みなさい。また明日話しましょう。あなたに見せたい景色があるの」
泣き疲れたマリーは泥のように眠り夜半に目覚めた。
今のマリーは昨日とは違うのだ。認めてくれる人がいる。頭を撫でて慰めてくれる人がいる。
遥か遠くにあったはずのもう一人の自分が……。
『もう、いいわね』
そう言ってマリーを抱きしめ消えていった。
心の中に暖かな思いだけが残る。
暗く惨めなマリーも、明るく空っぽなマリーも今はいない。
ちゃんと考え、楽しい時に笑い、泣きたい時に泣く、たった一人のマリーになった。
ベッドの傍らに置かれた水差しから水を飲み、安らかな気持ちでもう一度眠った。
−トントン−
朝になり小さな遠慮がちなノックが響いた。
「はい」
恐る恐る顔をのぞかせたのはイーリンだった。そして水瓶を抱えながら部屋に入ってきた。
「おはよう、マリー。もう大丈夫なの? 具合は悪くない?」
「おはよう、イーリン様。私はもう大丈夫。思い切り泣いたら、もうスッキリしたわ」
「良かったわ。あんな酷い目にあったら私は駄目になってた。マリーは強いのね。…それから様はいらない。イーリンでいいわ。同じ修道院にいるのだし」
「…ありがとう、イーリン。我慢することしか知らなかったのよ。嫌だって言うことを知らなかっただけなの」
「…本当に辛かったわね」
イーリンは痛ましげな表情を浮かべた。
「あなたの水を汲んできたわ」
「ごめんなさい。それは私がしなきゃいけなかったのに!!」
「昨日はあんなに具合が悪かったからいいのよ。さぁ、朝食に行くわよ! 朝食が終わったら院長に会いに行く約束よ。どんな景色を見せてくれるのかしら? 楽しみね!」
イーリンはとても喜んでいた。期待に目を輝かせるイーリンを見るだけで、どんなに院長を慕っているかがよくわかる。
(食事ってこんなに美味しかったんだ。食べることってこんなに楽しかったんだ)
昨日の残りのシチューに野菜を加えたシチューとパン。
簡素な食事だったけれど、言葉少なにイーリンと囲む朝食の席で、マリーは一口一口を噛み締めた。
「おはよう、イーリン。おはよう、マリー。見せたい景色があると話したわね。朝に見るのが一番綺麗よ。さぁ、一緒に行きましょう」
二人連れ立って訪ねた院長の部屋で、
何を見せてくれるのだろう?
きっと素晴らしいものに違いない。
マリーは心からそう思った。
やがて着いたのは修道院近くの草原だ。
そこは、かつてイーリンが嫌った草むらではない。
目に綾な緑の草原と木々。
所々に白樺の木。
黄色いタンポポ。
色鮮やかなポピー。
紫のスミレがアクセントを添え、全てを縁取るようにレースフラワーが乱れ咲く。
まだ残る朝露が更に瑞々しく花々を色づかせる。
「綺麗! まるで草原全てが花束のよう!!」
イーリンがはしゃいだ。
マリーは声もなくただただ感動していた。
生まれてから、こんなに美しい景色を見るのは始めてだった。
「この地は冬の寒さは厳しいけれど、夏の日差しは強いの。その寒暖の差で、どこよりも大輪で色鮮やかな花が咲くのよ」
院長は、キラキラと瞳を輝かせる二人の少女たちを見た。
「薔薇を好きな人がいれば、ポピーを好きな人もいる。でも同じように見えても同じ形の花は一つもないわ」
そして微笑む。
「イーリン。マリー。心が傷ついたままでは本当の大人にはなれないの。どうしても傷ついた子供の心が自分を責め続けてしまうのよ。だから、もう一度子供にかえっていいの。あなた達の子供時代を、笑うことすらできなかった子供時代を、やり直しなさい。この地で、この美しい地で」
そう言って院長は、遥か遠くの未来を臨むように草原を見る。
「薔薇が好きな人もいればポピーが好きな人もいる。私はスミレが好きよ。でも同じ花は一つもない」
院長はイーリンを、そしてマリーの目をしっかりと見つけた。
「本当の自分が何を願い、何を望むのか一緒に考えましょう。そうしてあなたもいつか、あなたという花を咲かせるでしょう。あなたは、たった一人のあなたであることに価値があるのだから」
院長の好きなスミレの花は、草原の中で慎ましやかに咲き誇っていた。
中書きに続きます。




