虐待された少女
院長と話した数日後、イーリンはかつてないほど爽快な気分で目覚めた。心を蝕んでいた、長年の澱のような何かが純化したのかもしれない。
(私は自由だ。今なら空だって飛べるわ)
嫌々やっていた労働にも新たな喜びを見出だすことができた。
(わたしが飲む水くらいちゃんと運べるわ。前とは比べられないくらい力持ちになったんだから)
実際にはほんの僅かであるが、人の前を向く気力の問題だろう。
朝食では素材の甘さを味わった。
(ふー。お腹いっぱい。運動した後は、こんなに食べ物が美味しいんだわ)
ふと、周りの修道女たちをそっと観察した。
何気ない世間話をしている人達。
一人で物思いに沈む人。
(この中にも心にケガした人がきっといるんだろうか?)
ふと、イーリンは部屋の隅で佇む女の子を見つけた。
暗い茶色の髪で、イーリンより少し下に見える。ガリガリとまではいかないが、とても痩せた体をしていた。子犬のように可愛らしい。でも、せっかくの可愛らしい顔立ちも暗い表情のせいで台無しだ。
(新しく来た子なの? でもあの子、どこか具合が悪いんじゃないかしら? 病気かもしれないわ)
女の子に向かって歩き出した時だった。
「院長がお呼びですよ、イーリン」
「はい」
ちょうど現れたシスター・ヴァネッサの言葉に、素直にイーリンは従った。
だが好奇心が抑えきれず、矢継ぎ早に質問した。
「あの子は誰? いつ来たの? 名前は何て言うの? 年はいくつ? どうしてあんなに暗い顔してるの? どうして……?どうして……?どうして……?」
「待ってね、イーリン。院長からのお話はそのこともあるのよ。真剣なお話だから、ちゃんと聞いて考えて欲しいの」
(きっと、あの子も心にケガした子なんだわ)
そして待っていた院長の話は、イーリンの想像を絶したものだった。
「あの小さな子供はマリーという名前なの」
「うんうん、それで!?」
「ガラント商会の一人娘だったわ」
「……だった!? じゃあ、今は違うの?」
「ええ。数年前に年の離れた弟が産まれたの」
「…………」
イーリンにはわからなかった。自分はずっと兄弟に憧れてきた。弟が産まれるなんて素晴らしいことじゃないの?
だが、院長が続ける話に衝撃を受けた。
「小さな時からマリーは跡取りとして、それは厳しい教育を受けてきた。躾という名の虐待のような教育をね。マリーは黙って頑張っていたけど、弟が産まれた途端にいない者のように扱われれようになったの」
「…………」
「遅くに産まれた弟を溺愛するあまり、周りはみんなマリーに冷たくするようになった。そればかりか居座られても厄介だからと、父親よりも年上の男性に嫁ぐように命令したの」
「酷いっ! そんなの酷いっ!! あまりにも酷すぎるっ!!」
イーリンのいた世界は優しい世界だった。両親から愛されてるのは当たり前。エスターだって、家族みんなに愛されていた。
「知りなさい、イーリン。この世界は優しいものではない。親に愛されない子供もいる。殴られ叩かれる子供もいる。食事をもらえない子供も、納屋に閉じ込められる子供もいる」
「…………」
イーリンはぎゅっと唇を噛み締めた。
「そういった子供たちを、国は孤児院で保護するようにしています。でも掌からこぼれ落ちる子供たちは、決して少なくない。前から気にかけていた叔父さんが、マリーを見つけてくれたの」
「うんうん。良かった。院長ならきっとマリーのケガを治してあげられる」
「それが私には無理かもしれないの」
「えっ!」
「マリーは大人を、特に大人の女性を怖がっているわ」
「院長もシスターも、こんなに優しいのにっ!?」
院長は楽しそうにクスクス笑った。
「ありがとう、イーリン。でも私は、こんなにおばあちゃんですからね」
「院長がおばあちゃんだなんて絶対にないっ!!」
目の前の院長は、こんなにも気品に溢れて強い存在感を放っているではないか?
「大人を信じられないのよ。だからイーリン。マリーの助けになってあげて欲しいの」
「そんなのわたしにできるはずないっ!」
イーリンは目を見張った。わたしは院長とは違う。シスターとも違う。聖人でも聖女でもない。普通の女の子だ。
「マリーは同じ年頃の女の子と遊んだことがないわ。それどころか話したことすらないの。多分年の近いイーリンなら興味を持つわ。難しいことは言わない。明るく挨拶したり、ちょっと笑いかけたり、元気かとたずねるだけでいいわ」
「そんなことでいいの?」
「でも怯えるから、決して大きな声をあげたりしないでね。優しく優しくよ」
「わかったわ、院長」
「私は、いつでもあなた達を見守っています。ねぇ、イーリン。平民と話すのが嫌だなんて言わないわよね?」
「言わないわよ! 言うわけないわ!」
院長とシスターの軽やかな笑い声を背にイーリンは決然と歩き出した。
「院長。イーリンはやっと持ち直したばかりです。マリーを任せて大丈夫でしょうか?」
シスター・ヴァネッサが心配そうにきいた。
「イーリンは今まで愛されること、与えられることを甘受してきた。誰かを助けたい。救いたい。守りたい。そう願って行動することは、イーリンの心を成長させます」
一端言葉を切って院長は続けた。
「反対にマリーには、気にかけて愛してくれる存在が必要です」
ふと物思いに沈んだ院長は顔を上げて言った。
「救いを与えることは容易い。でも私は永遠に生きるわけではない。私が死んでしまったら、あの子たちは道しるべを失うわ」
「…………」
「あの二人を引き合わせること。それが最善の選択だと私は思っていますよ」
友達が出版しました。
「細川・セピア」高樹 礼著作 文芸社からです。
「虐めに抗う青春、屈する青春という相克を描いた物語」と聞いてます。
本屋に買いに行ってなかったので、私は今度注文してみます。
みなさまもよろしければ、お手に取って下さいね。




