起
本文や前書き後書きまで、ほとんど音声入力での作品です。
ファリム侯爵家のエスターは可愛らしい少女だった。銅色の髪に新緑の緑の瞳。その瞳を輝かせて微笑めば、誰も思いがけないプレゼントをもらったような嬉しさがこみ上げてくるような。
母親譲りの顔かたちで、
「将来はお母様にそっくりになるよ」
そう言われながら育ち、エスターは美しい母に似るのだと嬉しく誇らしく思っていた。
幼いエスターは優しい両親と使用人に囲まれ、愛情深く育てられている。年の離れた兄が一人いるが、とうに学校を卒業して文官として王宮に働いていて、たまの休みには街で可愛いプレゼントを買ってエスターのところに来てくれる。
「私のお姫様。街でとっても可愛いうさぎを見つけて、お姫様の友達にどうかなってに買ってきたんだ」
「ありがとう、お兄様! 本当に可愛いわ」
ピンクのうさぎは愛らしい赤い目をしていて、エスターの胸にすっぽり収まるぐらいだ。嬉しくて嬉しくて ニコニコしながら兄にお礼を言った。
とてもおおらかで優しい兄がエスターは大好きだった。
そのエスターにも苦手なことはある。父の弟であるファリム子爵の一人娘イーリンだ。一つ下のイーリンに会うと、なぜかエスターは胸が重くなる。ねっとりした蜘蛛の巣に囚われて、ろくにも身動きができないように感じる。
先日招かれた時にイーリンと二人で庭でお茶をした。お母様に教わりながらハンカチに薔薇の刺繍をしていると話をしていた時だった。
運ばれてきた紅茶に口をつけたイーリンが、いきなりメイドめがけてコップを投げつけたのだ。
「エスターお姉様に、こんなまずいお茶を出していいと思っているのっ!!」
パリンと割れるカップ。温いお茶を浴び青ざめた侍女の顔と、怒鳴り続けるイーリンの恐ろしい形相。エスターは今も覚えている。
「まぁ! エスターお嬢様! 紅茶が少しかかっています。早く染み抜きをしなくては!!」
エスター付きのメアリーが言った。
見るとエスターの若草色のドレスに点々と紅茶の飛沫が飛んでいる。これはエスターのお気に入りのドレスだったのに。悲しくて思わずションボリしてしまった。
「無能な侍女のせいよ! お前こんな高価なドレスの弁償ができるのっ!?」
「すみません、誠にすみません。お叱りならいかようにもお受けしますから、どうかどうかクビにはなさらないでくださいませ」
「イーリン。その者は何も悪くないわ」
「エスターお姉様は黙っていて! これは当家のしつけなんだから!」
メアリーはただおろおろするだけだ。
騒ぎを聞いた親達が来てくれて、メイドは咎められずにすんだ。
エスターの若草色のドレスが駄目に なったら、同じ色でもっと可愛らしいドレスを作ってくれるとお父様が約束した。
自分の両親の元で泣き真似をしたしていたイーリンが、それを聞いて憎々しげに睨んでことをエスターは知らない。
それでも従姉妹であるのだから会わなければいけないのだ。次はエスターのところにイーリンを呼んだ。
「エスター。あなたの部屋を案内してあげなさい」
「はいお母様」
エスターの部屋に入った途端にイーリンはキョロキョロして、あちこちのものに触り騒ぎ出した。
「なんて綺麗なお部屋かしら。お姫様の部屋ね。とっても女の子らしいわ。あのうさぎさんかわいい!」
「あれはお兄様が街で買ってきてくださったの」
「 いいないいな! 私にはプレゼントしてくれるお兄様がいないから」
「街にはいくらでも売っているわよ」
「私はあのウサギが欲しい」
「ごめんなさい。それはお兄様から私かもらったものだからあげられない」
「いや! 欲しい!欲しいのっ!
お願いっ! 欲しい!!」
騒ぎを聞いた親達が来て、イーリンは一人っ子だから寂しいのだろうと、お姉さんなのだからうさぎを譲るよう言われた。
嫌だった。とても嫌だった。せっかくお兄様がくださったのに。でもこれをあげないと、お父様の言いつけを嫌がったことになる。悪い子になってしまう。
エスターは黙ってうさぎを差し出した。
「まぁ!お姉さまありがとう! 」
イーリンは飛び上がるほどに喜んだ。それを見た自分の両親もイーリンの両親も、とても暖かく笑っていた。
(お気に入りのドレスは汚された。お兄様のぬいぐるみも取られちゃった。イーリンは私の大切なものを少しずつ壊したり取って行くみたい)
「エスターには今度お父様がもっとたくさんのぬいぐるみを買ってあげよう」
「はいお父様」
エスターを抱き上げてお父様が言う。
そしてうさぎのぬいぐるみに顔を埋めながら、やはりイーリンが睨んでいたことをエスターは知らない。
今日もお茶に呼ばれたと両親と揃ってイーリンの元へ行った。
「エスターお姉さま。ごきげんよう。今日はゆっくりしていってくれるんでしょう?」
「もちろんよ、イーリン。ごきげんよう。今日はお招きありがとう」
「嬉しいわ。我が家の薔薇がとてもきれいに咲いたのよ。それに特別なお菓子を用意してあるの」
イーリンはこんなに喜んでくれているのだから、変な事を考える自分がいけないのだとエスターは反省した。そして庭にある薔薇園を案内してもらっていた時のことだ。
「お姉様はどんな薔薇がお好きかしら? 赤? 白? ピンク?」
「そうね。このオレンジ色の薔薇は綺麗だわ」
「まあ! お姉さまみたい。私がお姉さまのために取ってあげるわ」
「そんなことしないで、イーリン」
エスターの制止も聞かずにイーリンは薔薇を折ろうと茎を握りしめた。そして案の定深々とと手のひらにトゲが刺さったのだ。
「… 痛いっ! 痛いわっ!!」
イーリンの指に血が滲み、その顔は青ざめていた。エスターは驚いてハンカチを取り出した。そのハンカチをイーリンがひったくると、足元に叩きつけ靴で踏みつけた。
「大丈夫?」
「痛いわ! お姉さまのせいよっ!! お姉様が取れって言ったのよっ!!」
涙をこぼしながら鬼のように目を吊り上げ、なおも執拗にハンカチを踏みにじるイーリンを見て、エスターにはかける言葉もない。
「ごめんなさい。イーリン」
「仕方ないわね。許してあげる」
イーリンの叫び声で駆け付けた侍女が傷の手当をしてくれた。何事かと駆け付けた親たちにイーリンは、エスターに薔薇をせがまれたから自分がとる為に怪我をしたと言いつけたのだ。それを聞いたエスターの両親の表情が厳しくなった。
「エスター謝りなさい」
「よそのお家で、そんなわがままを言ってはいけないわ」
「あの薔薇はとても綺麗だったから 欲しがっても仕方ないの。私は、もう痛くないから怒らないであげて。おじ様、おば様」
欲しがってない、せがんでないとエスターは叫びたかったが、綺麗と言った自分の言葉が原因なのだと唇を噛みしめた。
「……はい。ごめんなさい」
「こんな子だけど仲良くしてあげて」
母がイーリンに優しく言っている。それを聞いてエスターは胸が苦しくなった。
「……もう来たくないわ」
「ごめんなさい、お姉さま。私が黙っていればよかったの。怪我なんかしちゃって手当なんかしてもらったから、みんなにお姉様が責められて。私のせいだわ。お願いだからお姉様、嫌わないで」
「…………」
「「エスターっ!!」」
「いくら従姉妹でも、侯爵家のお嬢様がこんな子爵家の私なんかと仲良くしてくれるはずがなかったのよね」
そう言うとイーリンは身も世もなく泣き出した。エスターは一言も喋らなかった。そのまま黙って馬車に乗り、気まずい沈黙のまま家に帰って自分の部屋にこもった。。
「……ううっ!!……」
机に突っ伏してエスターも泣き始めた。その手にはイーリンが踏みにじったハンカチが握りしめられている。真っ黒で泥だらけになっていたけれど、これはエスターが初めて刺繍したハンカチなのだ。いつか上手くなったら両親や兄にプレゼントする。そう思いながら母に教わって、一針一針刺繍したものなのだ。
-トントン-
ノックの音が響いても、泣き続けるエスターは応えない。そっとエスターの部屋の扉が開かれた
「どうしたのエスター? 僕の可愛いお姫様?」
「…お兄様。あのね…」
「うんうん」
優しい兄はつたないエスターの話を じっと聞いていた。
「分かった。エスターは何も心配しなくていい。このハンカチは借りるよ」
「そんな汚いハンカチ、手が汚れちゃう」
「エスターが頑張って刺繍したハンカチを汚いなんて言わないよ。大丈夫。僕に任せておきなさい。エスターはお顔を綺麗にしてもらいなさい」
「はい」
兄が出てからしばらくすると侍女が入ってきて、温かいタオルで顔を拭ってくれた。
-トントン-
「はい」
まず父が、そして母がゆっくり入ってきた。二人ともちょっと悲しそうな顔をしている。
「エスター。 悪かったよ」
「エスターの話も聞かずにごめんなさい」
二人はエスターを抱きしめた。そしてエスターの家族はみんな元通りになった。
汚れてしまったハンカチの代わりにと、母が真新しい白いハンカチに綺麗な花を刺繍してくれた。花の下にはエスターの名前が入っている。エスターはとても喜んだ。
それからは、イーリンの家に行く事は無くなった。
精神科医が定義するモラルハラスメント、および加害者の心理構造や行動は理解できますが胸糞ですね。
一言でも「No!」と抗えば、心を守って助けてくれる人たちがいる。そういう優しいお話にしました。