泣いてばかりいられないから
ジェラール・グリュイニールは入学当初からその美しい容姿と侯爵家次男という肩書で有名だった。
とにかく令嬢たちからの人気が高く、お付き合いしている女性が数か月でころころ変わることでも有名だった。
私は当初、彼に対して冷たい人という印象を持っていた。遠目からだが、お付き合いしている女性にそっけない対応をしているように見えたし、秀麗な白皙の顔と美しい銀髪、そしてその青い瞳は温度のない世界にしか存在しないもののように感じた。
けれど、実際に付き合った彼はとても優しかった。私の話を楽しそうに聞いてくれるし、意見を交わすときも頭ごなしに否定することもしない。エスコートも完璧で私を喜ばせようと動いてくれる。何より笑った顔が、私を見つめる瞳がとても温かかった。
ジェルは完璧な彼氏なのよね……
眩しい朝の光を浴びながら、恋人のことを思う。
髪はボサボサ、目は泣きはらしてボヨボヨ。体中の水分が涙になって出てしまったのだろうか、肌はカサカサしていた。とても人前に出られるような姿ではなかった。
今日は学園を休むしかないわね。
学園に行けたとしても、ジェルと顔を合わせることが出来るのか不安だった。きっと彼の顔を見たら泣いてしまう。理由を聞かれても未来の貴方にフラれるからなんて言えるはずもない。
それに、今の気持ちのままヒロインに会ってしまうのも怖かった。ヒロインに嫉妬して何か口走ってしまうかもしれない。
ジェルが攻略対象者の場合、悪役は彼の腹違いの兄になる。侯爵家の後継を巡っての異母兄との対立が主なストーリーだ。その中でヒロインとの絆を強くしていき、最終的にはヒロインと結婚し侯爵領を治めていく。
本当はそんなストーリーなんてぶち壊してしまいたい。イベント毎に乗り込んで二人の間に入り込み邪魔をしてやりたい。けれど、それがどう廻って自分に還ってくるかわからない。
前世でよく読んでいた悪役令嬢ものは、悪役令嬢が転生者であることによって断罪イベントを回避したり、ヒロインと立場が逆転してみんなに愛されたりしていた。
では、モブ令嬢が悪役令嬢のような振る舞いをしたら、悪役令嬢に成り代わってしまうかもしれない。
――断罪された悪役令嬢は国外追放か修道院送り。
私はどうすればいいの……?
コンコンコンッ
「セリーヌさん、大丈夫かしら?」
「マルチーヌさん、すいません。すぐに開けます」
寮母のマルチーヌさんはボロボロの私を見て目を見開いた。
「あらあら……泣き腫らして、どうしたの」
「…………それは……何と言っていいのか……」
「そう……登校時間になっても出てこないから様子を見に来たのよ。でもその顔だと今日はお休みした方が良さそうね。それじゃあ学園にお休みの連絡をしに行くわ。朝食はまだよね、軽く食べられるものを持ってくるわね」
そうして、小さく切った卵サンドをお盆に乗せ、熱い紅茶を水筒に入れて私の部屋まで持ってきてくれた。
熱い紅茶をゆっくりと飲む。優しい味の卵サンドを食べて、昨晩から何も口にしていなかったことを思い出した。
「落ち着いた?」
「はい……ありがとうございます」
「そう。食べ物は体を元気にしてくれるのよ。体が元気になると、心がちょっと元気になるの」
「そうなんですね。確かに少し元気になりました」
今はもう涙は止まっている。
「マルチーヌさんが来てくれて良かったです。あのままだと私、ずっと泣いていたと思います」
「ときには泣くことも大事よ。泣くことで悲しみを心から流し出せるから。けれど、涙で流しきれないほどの悲しみのときは、体を動かすの。体を動かすことによって、悲しみは汗とともに流れ出ていくのよ。ごはんを食べることもおすすめよ。別のものを身体に取り入れることで悲しみを追い出すの。私はこれで乗り切ってきたわ」
「体を動かして、ごはんを食べる。確かに元気になりそうですね」
「セリーヌさん、話したいことがあればいつでも聞くわよ。これでも勤続15年のベテラン寮母なんだから」
マルチーヌさんは、ゲームの中でヒロインの相談役として登場する。身分違いの恋に悩むヒロインを励まし、その恋に向き合わせるキーマンだ。
私がこんなにボロボロになっていたのを知っていて、ヒロインに励ましの言葉を言うのだろうか?
今、私がジェルとの恋に悩んでいると相談すれば、ヒロインを応援することをやめてくれるだろうか。
「…………もしも……未来が決まっていて、それが恋人と別れる未来だとしたら、どうしたらいいんでしょうか」
「……その未来は変えることが出来ないの?」
「未来を変えようと行動すること自体が別れる原因をつくることになるかもしれません。未来が決まっている以上、何をすることが正解なのかわからないんです」
「それはジェラール君と別れる未来が決まっているということなの?」
「はい」
「何か言われたの?」
「いいえ。ジェル……ジェラール様から何か言われた訳ではありません。ただ私が別れる未来を知っているだけです」
「ジェラール君のあなたに対するあの態度を見たら、とてもそうは思えないけれど……あなたはそう信じているのね」
私は頷く。
ジェルは完璧な彼氏だ。私もゲームの記憶を思い出す前は、ジェルが私のことを好きでいてくれると思っていた。けれど私はもう、違うことを知っている。
「私の昔話をしてもいい? まだ私が若かったころの話。私が恋に胸をときめかせていたころの話よ。ハッピーエンドではないけれど聞いてちょうだい」
マルチーヌさんは紅茶を一口飲んでから、話しだした。
「――私には婚約者がいたわ。そのころは今みたいな恋愛結婚は少なくて、政略結婚が主流だった。私の婚約も政略だったわ。けれど私は婚約者のことを愛していた。向こうは私のことを政略結婚の相手としか見ていなかったけれど、将来は結婚して一緒にいることになるんだもの、私はそれで良かった。けれどお母様が亡くなって、我が家はだんだんおかしくなっていったの。お父様はお母様が亡くなった現実を受け止められなかったのね。領地の経営をおざなりにして、良くない人たちと一緒にいるようになった。領地の状態はだんだん悪くなっていって、お父様がギャンブルで作った借金が我が家を圧迫しだしたわ。そんな中で私と彼の結婚はどんどん延期されていった。お父様に立ち直ってほしかったけれど、私ではお父様を支えることはできなかった。もう婚約が解消されるのは時間の問題でしかなくて、私にはその事実を変えるほどの力がなかったけれど、悲しみに泣いてばかりいる自分が嫌で、婚約者に会いに行くことにした。我が家は娘しかいなかったから、結婚したら彼が婿に入る予定だったの。私と結婚して一緒に領地を切り盛りしてほしいこと、貴方を愛してるってことを何度も言いに行ったわ。傍から見たら、私は婚約者に縋り付く没落寸前の憐れな子爵令嬢だったでしょうね。けれど私は自分の思いをすべて出してしまいたいと思ったの」
マルチーヌさんは私を見て微笑んだ。
「婚約が解消されて会えなくなってしまう前に、彼を愛する気持ちをすべて彼に渡したいと思ったの。結局、婚約は解消されてもう会うことは無くなったけれど、私が彼を愛していたことは間違いなく彼に伝わったわ。その後、我が家は没落して爵位を返上することになったけれど、彼とのことは悲しみはあっても後悔することは全く無かったの。私はこの学園の女子寮で寮母として働くことになって、たくさん動いてしっかりご飯を食べて、悲しみはもう私の外にすべて出してしまったわ。あなたたち生徒と一緒に日々を送るのがとっても楽しいの」
そう言って、マルチーヌさんは私の手を取った。
「あなたにとって、どう行動するのが良いのかは正直わからないわ。けれど後悔はしないようにね。後悔は人を縛り付けてしまうから」
にっこり笑って私を見る。
あぁ、マルチーヌさんはヒロインの味方とか誰の味方とか、そんなのじゃなくて、生徒みんなに後悔する人生を送って欲しくないんだ。彼とのことに後悔はないと言い切ったマルチーヌさんだけれど、きっとお父様に対しては後悔があるのだろう。以前お父様が亡くなられたと知らせが届いたとき、マルチーヌさんは葬儀に行くかどうかとても悩んでいたもの。寮母の仕事が休めないと言ってはいたけれど、本当のことかはわからない。
「ありがとうございます、マルチーヌさん」
私もにっこり笑う。
「私も自分の気持ちをすべてジェルに渡したい。このまま泣きながらフラれるまでの時間を過ごすのは嫌です」
「そう。セリーヌさん、頑張ってね」
そう言って、マルチーヌさんはお盆をもって出て行った。