大好きなはずだったのに。
そして今に至る。
「何があったのよ、東風谷」
杏梨が、我慢できないと言った様子で尋ねる。若いカップルに向かって「お母さん」と呟いた直後、エレベーターに飛び乗ったのだ。誰だって気になるに決まってる。
「…………」
東風谷は案の定黙ったままで、俯いてベンチに座っている。
(その態度、イライラするんですけど……)
舌打ちをこらえて、杏梨は東風谷をじっと見つめた。
「……ごめ……あん……だけに……いい……」
やがて東風谷は、ボソボソと呟き始めた。
「は? 何、はっきり言ってよ」
友実が声を荒らげた。東風谷は少女達に迷惑をかけまくったのだ。こんな態度をされて、当然と言えば当然だろう。
「……これだけは、杏梨に」
そう言ったかと思うと、東風谷はものすごい勢いで、杏梨の腕を掴んだ。
「はっ!?」
何が起きたのか分からない杏梨だったが、東風谷が立ち上がって叫んだ直後、状況を理解できるようになった。
「ごめん、これに関しては、俺から杏梨に話したい」
そして、杏梨の腕を掴んだまま、走り出した。
「きゃっ」
似合わない悲鳴を上げながら、杏梨と東風谷は、茂みの中へと隠れていった。
誰かが、「イチャイチャすんなよ~」と声をかけると、周りがつられて笑いだした。
「ねぇ、どうしたの、東風谷!?」
「黙って」
息一つ荒らげずに、東風谷は告げた。その緊迫した迫力に、杏梨は言葉通り黙り込んでしまった。
「……そっからは、俺が話す」
東風谷は、またも静かに告げた。都会の喧騒をかき消してしまうような、そんな声。
「……うん」
杏梨は、頷いた。
「……俺達は、四人家族だった」
目をつぶって語り出す東風谷。気のせいか、言葉に切なさが感じられた。
「どこにでもある一般家庭だ。学校から帰ればご飯があって、お母さんが洗濯物を干しながら「お帰りなさい」って言うような。そんな感じ」
杏梨は、その風景がありありと想像できた。杏梨の両親は共働きだが、たまに母親が有給をとると、それと似たような光景が、岡崎家でも見られるからだ。
「本当に、仲が良かったんだ。綺麗好きな両親。喧嘩も少なく、馬鹿なことを言っては笑いあう。兄ちゃんは勉強が出来たから、良く褒められてたんだ。だからって、俺が仲間外れにされることはなかった。いっつも元気なかったら、励ましてもらってた」
東風谷がうっすらと口角を上げる。
「だけどね、お母さんには、あってはいけないことがあったんだ」
(何となく予想できるな)
東風谷には悪いが、杏梨には、未来が想像できてしまった。
(さっきお兄さんにも話されたし? 天然兄弟、深刻な話、出来るんだもんな)
杏梨は、祐真との会話を思い出しながら、東風谷の話を聞いていた。
「不倫してた。知らない人と」
あぁ、やっぱりな。
心のどこかでそんな気はしてたんだ。杏梨は、そう言いたいのをグッとこらえた。
「……それが分かったのは、俺が家族に内緒でショッピングモールに友達と遊びに行ったときだった」
「親に内緒でショッピングモール行くのは悪いだろ」
すかさず杏梨がツッコミを入れると、東風谷はフッと笑みを浮かべた。
「それ、今の俺達が言う言葉じゃなくない?」
「あははっ、確かに」
杏梨もつられて笑いだすが、すぐに東風谷の笑いが収まり、一瞬の間にして真顔に戻った。
「……お母さんが、若い男の人と歩いてた」
「……うん」
「それを見付けたのは俺だけ。友達には言わなかったさ。……悔しかったんだよな」
(今そんなことを認めるだなんて、どういうつもりだ)
杏梨は少しだけムッとしたが、流石は天然、そんなことには全然気付かず、話を続けた。
「俺は、本当に、突然、お母さんがお母さんじゃないような気がしたんだ。……他の誰かに盗られたことが、無性に悔しかった」
(それは、少しだけ分かる気がする)
杏梨は、頷くわけでもないが、心の中で相槌を打った。
「……そして、兄がそれを見たのが、俺、分かっちゃってさ。……それで話しちゃったわけよ。……で、父さんに話したら、大激怒して、この有り様よ」
ははっ、と東風谷は薄ら笑いを浮かべた。
「笑えるよな……笑えるって……言ってくれよ……」
東風谷の声が、震えている。うな垂れて、体も震えている。
杏梨は、東風谷の悲痛そうな表情を見て、どうしても笑えなかった。
「……何でお前……いっつも笑うのに……こんなときだけ、笑えねぇんだよ」
それは、咎めているのか、独り言なのか。
呟きは、杏梨の耳にも届いたまま、静かに消えていく。
「俺……どうやってやればいいのか、分かんねぇんだよ。……授業参観に来る親は、皆母親ばっかだし。……保護者会に来るのも、いっつも母親で。……俺らの家族だけなんだよ。父親が来るのはぁ……」
ずずず、と鼻を啜る音がする。
東風谷が泣いているのは、顔を見なくても分かった。
「ずっと、大好きだったのに。……何で離れていっちゃうんだろうって、考えてた。……高校生ぐらいなら受け入れられる現実だと思うけどさ……。俺、まだ小学生だったんだぜ? 杏梨と変わらない、小学六年生だったんだぜ。まだ、数学の教科書が配られていない時期だったんだぜ……」
ひしひしと伝わってくる東風谷の絶望が、杏梨の胸にも響いた。
「大好きだったお母さんが、盗られちゃって。……すっごく、辛かった……」
言うことすらままらないだろうに、それを杏梨に伝えてくる東風谷もまた東風谷で。
杏梨は、もらい泣きを必死でこらえた。
「卒業式の日に……。もう、俺、駄目かもしれないなって、思ったんだ。……でも、そのあと、お前が、帰り道で、……告白、してくれなかったら……俺、きっと死んでたかもしれない」
(マジかよ! あの告白、結構東風谷にとっては重要だったんだ)
杏梨にとっては、「いきなりごめんなさい!」から始まった告白は、思い切りにすぎなかった。
でも、その告白が、東風谷の、生きる支えになってくれたのだとしたら。
何だか、とても良いことをしたような気分になる。
「だから……」
ふいに、うな垂れていた東風谷が、杏梨の腕を掴んだ。
「ウェイ!」
これこそ、いきなりごめんなさい、と言うべきなのだろうか。
「これからも、俺を支えてくれる?」
杏梨は、反論する言葉も見当たらず、ふるふると首を縦に振った。