東風谷家の事情。
杏梨達は、改札口にスイカを押しあてた。
そこで、東風谷の隣に立つ東風谷の兄、祐真にお辞儀をした。
「こんにちは、私、岡崎杏梨って言います。こちらは兄の、岡崎海翔です」
杏梨の礼儀正しさにびっくりしたのだろう、東風谷は目を丸くした。
「あぁ、杏梨ちゃんか。風真がよく話してるよ~、毒舌家なんだって~?」
にっこり笑う祐真に、杏梨は少しだけ恥ずかしさを感じた。
(流石は東風谷。何から何まで筒抜けだわ)
「東風谷! ありもしない噂流して! もっと真面目になれよ!」
「嫌ですよ~、お前のせいだろ~。ってか熱くなれよじゃなくって、真面目になれよなんだ」
「うるさいっ!」
その場の空気が、一気に和んだものになる。友実達がクスッと笑った。
「お母さんに躾されなかったの!?」
杏梨が思いっきり大声で叫ぶと、途端に東風谷は俯いた。
さっきまでの明るさが嘘のようだ。
(あれ、何か変なこと言っちゃった?)
東風谷の態度の急変に、周りは少なからず驚いている。
「ご、ごめん……」
(何? 昨日お母さんにこっぴどく怒られた系?)
過保護なだけあって、やっぱ駄目だ、ときつく叱られたのだろう。それを何とか押しとおしたのかもしれない。
(こんなことで落ち込むなんて、繊細なのね~。……おまけに好青年っぽいこと言って、本当はちっとも好青年じゃないし)
「……別に」
杏梨の気持ちなど無視して、東風谷は歩いて行ってしまう。
周りが困り果てたその時、杏梨の肩に誰かの手が置かれた。
手の主を探すと、後ろに、祐真がいた。
「わっ、どうしたんですか?」
杏梨の言葉を遮るかのように、祐真は人差し指を上に向けて前後に揺らした。
(何か聞けってこと?)
杏梨は耳を傾ける。
ホームに続く階段を、全員で降りながら。
「東風谷家、実は母親がいないんだ」
「えっ」
唐突に言われた衝撃の事実に、杏梨は思わず目を丸くした。
「そ、そんなこと、私なんかに言っていいんですか?」
「もちろんこれは、友実達にも誰にも言うつもりはない。知ったら、面白半分で弟をいじるから」
確かに、と杏梨は頷いた。友実達は、東風谷が先輩であるにも関わらず、いじくり倒しているからだ。
「それに、あいつ、君は毒舌だけど良い人だって言ってたから。……力になってくれるなら、そうしてほしいな」
祐真の言葉で、杏梨の頬は赤くなった。
「えっ、そんなっ、良い人だなんて、嘘……」
「嘘じゃないよ。杏梨ちゃんのこと、嫌いではないって、言ってたし」
(あぁ駄目だ。この天然兄弟。言ってることを鵜呑みにする馬鹿ばっかりだ)
杏梨は一旦兄弟に呆れたが、すぐ考え直した。
(にしても、そうなんだ。
……私、そんなことも知らなかった。東風谷のこと、好きなのに)
胸がチクッと痛む。好きな人の力になれなかったことが、悔しいのだ。
「俺達の母親は、去年浮気の現場を、俺の友達に見かけられた。それを俺に伝えてきてさ」
祐真はふいに目を伏せた。声も、段々小さくなっていく。
「ショックで頭が回らなかった。自分達を大切に育ててくれた母親が、まさか……ってな」
やがて、掠れた声になっていく。
「俺は普通に振る舞ってたつもりなんだ。……でも、目ざといよな、風真って。馬鹿なくせに、こんなことに勘が働きやがって。
俺、その時言えなくって。……で、父さんに話したんだ。きっと解決してくれるって」
最後には、震えていた。
「だけどな、父さん、もう激しいぐらいに怒っちゃって。最後には母さん殴って、「出てけ!」って叫んだんだ。
その時は、俺は中二で、風真は六年だった。俺らは、何も出来なかったんだ」
ふいに、杏梨と祐真は目が合った。
祐真の目には、涙が滲んでいた。
「だからな、今もまだ「お母さん」って言葉を聞いただけで、不機嫌になるんだ。……すぐ治まるんだけど、多分大人になるまで忘れない。
だからさ……」
風真は、ふっと東風谷の方に視線を向けて、言った。
「あいつのこと、面倒見てやってくれない?」
杏梨もつられて、東風谷の顔を見る。
杏梨の大好きな人の、横顔。
その目に涙が浮かんでいる。
(あの涙も、私のせい……なのかな?)
そんなことを思っても何も起きないのに、そう思わずにはいられない。杏梨は、複雑な気持ちを抱えて、ホームに滑り込んだ電車に飛び乗った。
◆◇
電車の中でもなお、祐真の話は続いていた。
「あいつ、その時は本気で死にたいって思ったんだとよ。周りは授業参観にお母さんが来てるのに、何でウチだけ……って。
呆れるよな~、周りと一緒じゃなくても、別に良いんだけどな」
クスッと祐真が笑う。杏梨も、自然と微笑んだ。そんな一面があったなんて。好きな人を知っただけで、杏梨の心は弾んでいた。
「でも、あいつって、結構天然だからさ、あぁ見えて。だから変なこと言っちゃうかもしれないけどさ、宜しく頼むよ」
あんたが言うか天然兄貴、と口から出かかった杏梨だったが、何とかその言葉を飲み込み、頷いた。
「だけど、杏梨ちゃんのこと、毒舌家だなんだって言ってるけどさ、本当は感謝してると思うよ」
「……」
祐真の言葉で杏梨は胸が高鳴った。
「風の噂で聞いたけど、杏梨ちゃん、風真に告白したの?」
「うっ」
いきなりそんなことを聞かれるとは思わなかった杏梨は、言葉に詰まってしまった。
「……そう、ですけど」
「あいつ、告白されたの初めてだろうし、杏梨ちゃん、毒舌っぽいけど本当は風真のこと、ちゃんと暴走しないか見てる、良い子みたいだし」
(そういう風に褒めてもらえるの、何か新鮮だなぁ)
風真は当たり前のことのように言ったのかもしれないが、その言葉は杏梨の心にすとんと落ちてきた。
「あり、がとうございます……」
「たじたじになんなくても良いよ。風真、杏梨ちゃんのこと話してる時、妙に楽しそうだし」
更に胸が高鳴る言葉を言ってきて、杏梨は頬が赤くなっていないか確認した。
「……多分それ、毒舌家をなじってる気分が楽しいだけですよ。本当は私のこと、ただの友達としか思ってませんって」
「そんなわけないじゃん。だって風真、杏梨ちゃんが来るって分かった途端に、「よっしゃぁあ!」って叫んでたもん」
絶対嘘だ。照れ隠しにそんなことを考えた杏梨だが、無理矢理口角を上がらせて言った。
「またまたご冗談を。お荷物係から逃れて喜んだんじゃないんですか?」
「えっ、あいつお荷物係だったの?」
「知りませんけど」
杏梨は、祐真から逃れるようにそっぽを向こうとした。
だが、そこで東風谷と目が合ってしまった。
「!」
東風谷は、ひらひら、と小さく手を振った。
ほらね、と祐真の囁くような声が、聞こえた気がした。
「そ、そんなわけないじゃないですか! あの人が、私に好感を持ってるだなんて、あるわけないって」
「何も、自分を卑下しろと言ってるわけじゃなくてさ」
杏梨のどこがそんなに面白かったのか、祐真はプッと噴き出した。
祐真の瞳は、何故か杏梨を見据えているようで、少しだけ杏梨の表情は強張った。
(天然馬鹿兄弟だと思ってたけど、意外と見てるものなのね……)
「俺達、結構馬鹿だけど、杏梨ちゃん、何度も言うようだけど、面倒見てやってくれない?」
そこから祐真は、杏梨から目を背け、東風谷の方を向いた。
「あいつには、杏梨ちゃんが必要だから」
目を細めて言ったその言葉は、杏梨の耳には届かなかった。