事件の始まり。
「兄ちゃん、いつまで寝てるんだよっ、起きやがれ!」
土曜日、午前十一時三十分。
昨日も夜遅くまで必死で勉強していたのか、海翔は布団にくるまって、目を閉じていた。
「起きろつってんだろ! てめぇ!」
杏梨は、海翔を蹴る。それに答えるかの如く、海翔はそっぽを向いたり、うつ伏せになったり、色々な体勢をしている。
その対応が、杏梨の怒りに火を注いだらしい。
杏梨は、力の限りでジャンプして、海翔の上にダイブした。
「ぐぉっ」
小さな悲鳴が杏梨の耳に届いたが、杏梨はお構いなしに、手足をぶらぶら動かした。
「起きろ、起きるんだ、海翔よ。今日は、今日は行くんだぞ……。置いてくぞ、置いてくぞ……」
呪いの言葉を延々と繰り返す杏梨が鬱陶しくなったのか、海翔は「だぁ!」と飛び起きた。
「うるせぇな! 何に行くって言うんだよ!」
(こいつ、覚えてねぇのか……)
杏梨ははらわたが煮えくりかえるような気持ちになりながら、叫んだ。
「銀座だよぎ、ん、ざ!」
一瞬の沈黙の後、海翔は悲鳴を上げた。
「あぁ、そっか! 今日銀座行くんだった!」
「何してんの!? 私めいっぱいお洒落したんですけど!? 十二時半に駅前に集合なんですけど!? あと一時間しかないんだよ!? 夜更かしして寝坊なんてアホにも程があるだろ!」
うっかりにも程がある。杏梨は、朝六時に起きて事細かに綺麗にしたというのに、この海翔という人物は、だらだらと寝ていたのだ。
(信じらんない! 私、今日をすっごく楽しみにしてたのに! 必死にお洒落したのに、こいつ、きっと普通のお洒落しかしないだろうな……)
杏梨は、自分の姿を、部屋に設置されている鏡で窺った。
下の方で小さな二つ結びにした髪の毛は、ほんのりカシスの香りが漂っている。しかも結んでいるのはヘアゴムではなく、親友二人との買い物で、ノリで買った可愛らしいシュシュ。
化粧水を塗り、母親の色付きリップをこっそり使って、肌を傷つけない程度にメイクもした。
白いフリルの長袖に、編みこまれた黒いキャミソール。母親が乗り気で買っていた今風の黄色のガウチョパンツ。
(スカートと悩んだけど、ガウチョの方が似合ってるんだよなぁ)
無理に兄の指摘通りにやらなくてもいい。杏梨はそう感じたのだった。
「ねぇ兄ちゃん、今の格好似合いますか?」
「何だよ改まって」
海翔は杏梨の服装に眉をひそめる。
「ってか、お前、俺のリサーチ真に受けすぎだろ」
妹のコーデを見てそれかよ。
(お前のリサーチどおりにしてやったんだからな。もっと何かあるだろ)
髪は女の命だという。髪が綺麗な杏梨にとって、この言葉はかなりの自信にも繋がる。髪すら否定されて、杏梨は少しだけ、悲しみを覚えた。「ダメージ」というものだろうか。頭の中にそんな言葉が浮かんだ。
「はぁ? とにかく、行くんだからね!?」
「ふいふい……」
今になって、乗り気でなさそうな雰囲気を醸し出す海翔。杏梨は、更に怒りを覚えた。
「行くよ~」
杏梨は、クローゼットの方に歩み寄り、服を取り出して、小さめのリュックに詰める。一応母親には「お泊まり会」で通しているので、そこら辺は用意しておくのだ。
(流石に何も持ってなかったら怪しまれるもんなぁ)
「ってかお前、割とクローゼットは綺麗にしてるんだな。尊敬したわ」
「尊敬するとこ、そこなんだ」
ムッとしながらも、杏梨は引き続きリュックの中に服を詰め込んだ。
去年の誕生日に海翔に買ってもらったそのリュックは、白と水色基調だった。杏梨はそれをすぐに気に入り、大切に使っていたのだが、少しだけ薄汚れてしまっている。
「それ、使ってくれてんだ。ありがとうな」
不意にそんなことを言われ、杏梨の体は一瞬で熱くなった。
「なっ、兄ちゃん、それは……」
少しだけ気恥かしそうな杏梨とは対照的に、海翔は冷めた口調で言った。
「二年前ぐらいに買ったやつなのに、それだけしか汚れてないだなんて、よっぽど大切に使ってくれてたんだな。ありがとう」
「……………っ」
(何かメチャクチャ恥ずかしいんですけど! っていうかその格好で言わないでよ!)
言ってくれることは嬉しいのだが、灰色スウェット姿で言わないでほしい。杏梨は素直にそう感じたのである。
「さ、もう準備してよ。忙しいんだから」
「はいはい」
海翔は布団からのそのそと起き上がると、クローゼットの扉を開けた。
◆◇
「お待たせ~」
杏梨は公園にいる少年少女に手を振った。
「あ、杏梨~」
友実が、バッグを持った手と反対の手を、杏梨に向かって振り返す。
「遅かったじゃない。待ちくたびれたよ」
「ごめんね~、ちょっと色々あって」
兄ちゃんがスイカ忘れたんだよ!
杏梨はそう叫びたかったが、男子と話している東風谷を見付けて、急に大人しくなる。
「ってか、今日の杏梨、何かいつもと違うね~」
咲希が目ざとく反応する。
(咲希ちゃん、ナイス! ありがとう!)
これで少しだけ東風谷にアピールできただろうか。
「そうなんだ! 今日は銀座行くから、お洒落したんだよ!」
その言葉で、東風谷は杏梨の方を向いた。
そして、サッと目を逸らした。
「は!? ちょっと何よ東風谷! まさか私がキモいとか思って……」
「思ってねぇに決まってんだろ!」
東風谷はすぐ杏梨に食ってかかる。
「目逸らさないでくれますか!? めっちゃ気になるんですけど!?」
「気になっとけ。別にお洒落なんかしても意味ないし」
「なっ、東風谷、おまえっ」
杏梨は、東風谷に飛びかかる。そのまま手首を、まるで蛇口を捻るかのように動かした。
ぎゃあっ、という悲鳴が公園に響き渡る。
(やっぱ、東風谷が、私が来るの嬉しいって言ってたの、嘘なんじゃん……)
こんなの、東風谷はきっと来ないでほしかったと思っているに違いない。
両想いなんてまだほど遠い。
(というか、一生来ない未来かもしれないな)
杏梨は心の中でそっとため息をついた。
東風谷は、「優しさ」というものを杏梨には見せてくれない。
他の女子だったら、いくらでも見せてくれるだろう。それこそ、東風谷を極度までいじり続ける友実や、咲希や、里桜にだって。
(やっぱり、私が告白したから、嫌いにならないって、確信したのかな……)
ふっと東風谷の腕を捻る力を緩め、空を見上げる杏梨。
「東風谷……」
その声に、東風谷を含め、その場にいた全員が反応した。
「私のこと、何だと思ってるの?」
その呟きは届かなかったようだ。
「何だ?」と尋ねたきり、東風谷は何も聞いてこなかった。