その日まで
一年生の頃。
学校のことなんてまだ何も知らなかった私は、当時ふざけて学校探検なんかして、校内で迷った。
「……う、うえぇ~」
出てくる涙を拭って、私は小学校を見渡した。
保育園とはまるで規模が違う小学校。そんな小学校が私にとっては怖くて、ただひたすら歩きまわっていた。
顔を上げても、辺りには人っ子一人見当たらなかった。
当時、下校時刻を更に上回った時間に忘れ物を取りに来た私。「一緒に行かないで、大丈夫なの?」と心配するお母さんに、「大丈夫だよ、何年生だと思ってるの!」と豪語してしまったのだ。
忘れ物ついでに、せっかくだから探検でもしてみようかなと思った。
一応、職員室に行ってみたけれど、先生達は気難しい顔をして、何だか話しあっていた。考えてもみてほしい。会議中の職員室にノックする勇気のある小学校一年生なんて、普通いるか?
いや、いない。
「はぁ……。出口、どこぉ?」
この学校は結構広い。大きくなった今でもその印象は変わらない。他の学校と同じく三階までしかないが、何しろ敷地が広い。何でもこの学校は結構資金が余っているらしく、専属の大工さんとかを雇い、毎週土日に体育館のライトやら教室の蛍光灯やらを確認したりしているらしい。ネジが緩んでいたら直してもらえるらしい。更に、体育館やらトイレやら、ちょくちょく改装をしていた。そんなことは当時知る由もなく、小三になってから知った。
話を一年の頃の私に戻す。
私は明るいうちに、まだ「校庭開放」という、放課後の校庭を利用した遊び場をやっている時間帯に昇降口からのこのこと入ってきたもんだから、当然靴も昇降口にある。だが、何故か夜になると、昇降口もしまっていた。
「……うっわぁー」
完全に打ちのめされ、見事に突っ伏した私。場所は一年三組。誰か出来ることなら私を助けてほしい。いや、無理だけど。
そんな風に思っていると、ふいに、以前図書室で借りた本を思い出した。
……題名は確か、「夜の学校のななふしぎ」。
理科室の骸骨の模型が動き出すとか、音楽室のピアノが勝手に鳴ったり、ベートーベンだかモーツァルトだかの肖像画が動いたり、トイレの何番目のドアをノックすると花子さんが返事をしたりだとか、開かずの校長室だとか……。
今考えれば、そんなの「ただのお話でしょ?」と笑い飛ばせそうだけど、一年生の私には、その本の内容がもしかしたら本当なのかもしれないと思いたったのである。
本当に、その時の私は馬鹿だ。今の私なら、「夜の学校の七不思議とか、あるわけないじゃん。だったら深夜まで学校に残ってる先生すげぇ」と言ってしまいそうだったが、本当にそのときはどうしてもそれが怖くて仕方がなかった。
だから、そのとき、目の前に現れた救世主が、お化けのように思えたのだ。
「大丈夫?」
その人は、とても優しい目をしている、私よりいくらか背が高い男の子だった。
……もしかして、この人、幽霊?
優しい目をして、私を、訳の分からない、地獄とかに、連れて行こうとしてる?
そう思うといてもたってもいられなくなって、私は「きゃーっ!」と叫びながら、忘れ物の筆箱を投げつけた。
「い、いたっ」
筆箱はその人にぶつかり、音をたてて床に転がった。両開きタイプの筆箱から、消しゴムや鉛筆削りが転がり落ちる。
私はその人がいる場所から一刻も早く立ち去りたいという思いでいっぱいで、足をくるっとその人と反対の方向に向けたかと思うと、走り出していた。
「……あっ」
そこで私は、投げつけた筆箱の存在を思い出した。
……そうだ、筆箱どうしよう。筆箱をつい先日壊しちゃって、買ってもらったばかりなのに。
ゆ、幽霊に、持ってかれちゃう?
そ、そんなの嫌だ! と来た道を戻る。
だけど、一瞬、足が止まった。幽霊にまた会うかもしれないと考えたからだ。
「……い、いいや」
お母さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
来た道を戻って、その男の人がいた場所に戻る。
「……え?」
その男の人は散らばった筆箱の中身を拾っていた。
「ゆ、幽霊……じゃないの?」
「え?」
私の言葉に、その人は反応した。
「……私のこと、連れて行こうとした幽霊じゃないの?」
男の人はしばらく私を見つめた後、ぶはっと噴き出した。
「ゆ、幽霊!? お、俺が!?」
はははっと笑っている。
ムッ。
何よ、その笑い方!
「……その筆箱、返して!」
私はその人の場所にすたすたと小走りで近付いて、右手を突き出した。
「うん、いいよ」
ひとしきり笑っていた男の人は、笑いながら私の筆箱を突き出した私の手の上に乗せた。
「……はい。大丈夫だった? ……鉛筆の削りかすが、そこら中にあるけど」
「……え? ……あっ、わ!」
私はその男の人に言われたとおりに、下を向いた。見ると、そこには鉛筆の削りかすと思われる黒いゴマみたいな物体がそこら中に散らばっていた。
「……わわっ。い、今すぐに拾う!」
私はそばの一年三組からホウキとチリトリを持ってきて、ささっとその場を掃き始める。
するとその男の人は、「俺もやる」と一年三組からホウキを持ってきた。
私が鉛筆の削りかすを捨てると、その男の人は「じゃあ、俺もこのへんで帰ろうかな」と伸びをしながら言った。
「あ、あの、ごめんなさい!」
私は咄嗟に謝った。
「へ?」
男の人は、首を捻っている。
「あ、あの、さっき、筆箱投げちゃって……」
最初は、幽霊だと思った。男の人が、夜の小学校に一人。そのシチュエーションが不気味で、思わず「幽霊、こっち来ないで!」という意味合いで、筆箱を投げちゃったんだけど。
でも本当は、私が投げつけた筆箱を、投げつけられた本人だというのに、何も言わず、飛び散った消しゴムやら鉛筆削りやらを拾ってくれて、更に鉛筆の削りかすが散らばってたら、すかさず、一緒に手伝ってくれたし。
この男の人、本当はとっても良い人だ。
なのに私は、何で筆箱を投げちゃったんだろう。
しかも、男の人は、「大丈夫?」と声をかけてくれたのに。
……私、酷い子だ。
こんな私のことを「そうだよ、あれ、痛かったんだからね!?」と怒るものだと思っていた。
なのにその人は。
「え、いいよいいよ。別に。逆に俺も、一人しかいないから不安だったんだよね。それが、君に元気に叫ばれているうちに、何だか不安も飛んじゃってさ。むしろこっちこそありがとう」
「…………」
あまりにも意外な言葉過ぎて、声を出すのも忘れてしまった。
だって、だって。
「むしろこっちこそありがとう」とか。心配してくれた人に筆箱を投げたこんな私に言うことじゃないよ。
「……君、名前、何て言うの?」
ふいに尋ねられて私は反射的に答えてしまう。
「はい。えっと、私、飯倉友実って言います」
「可愛い名前だねー」
その人はふふっと微笑むと、「じゃあ、これは?」なんて言って、自分の上履きを見せてきた。
上履きの表面に、漢字で「東風谷」と書かれている。
「えっと、ひがし……かぜ……たに……さん?」
「うーん。習っていない漢字まで読めるのはすごいけど、ブッブー。正解は、東風谷って言うの!」
「う、うえぇい? こちや……? これで、こちやって読むの?」
不思議な名字もいるもんだなとその時初めて知った。
「そうそう、不思議だよな、こんな読み方。東風谷風真っていうの、俺」
「こちやふうま……」
すごく、爽やかな名前。
東風谷さん、優しい人で、優しそうな名前だな。
うん、良い人かも。さっき何で筆箱なんか投げちゃったんだろう。
「……ごめんなさい」
「え? いいって。何で謝るの? 俺も、夜の学校で急に大丈夫? なんて声かけるから、友実ちゃんにしてみたら、ヤバい人だよね。警察に通報してもおかしくないよね」
東風谷さんはそう笑いながら、急に私の手を繋いだ。
「……はい?」
これが一番警察に通報しなきゃいけないんですけど、と言おうとしたら、東風谷さんは言った。
「一緒に、出口に行こうよ。迷ってたんでしょ、きっと」
そう言って、私の手を無理矢理引いて、出口まで向かった。
それからだ。
東風谷を意識するようになったのは。
あれから、会う度に東風谷は会釈をしてくれるようになって。
それから、いつの間にか好きになっていったのに。
仲良くなって、軽口を叩き合う仲になって。
それなのに、それなのに。
杏梨が、私から淡い初恋を奪っていった。
私の方が、私の方がずっと長く片想いしていたのに。
あの五年生の冬の事件があっても、私はしばらく安心していた。
東風谷は、杏梨に酷いことをした。だから、最低だと思って、杏梨は東風谷のことを好きにはなるまいと。
そう思っていたのに、事態はあまり良い方向に進まないらしかった。
二人が両想いなのは確実だって。
私も、そう思っていた。
前に東風谷の初恋の人であり、今も大切にしているであろう彩子さんが現れた時、強力なライバルが登場したかと思ったが、実に彩子さんは東風谷のことを好きでもないみたいだし、東風谷もとうの昔の話として流しているらしかったから、そんなに問い詰めたりしなかった。
でも、東風谷のそばには、杏梨という強力な騎士みたいな存在がいるから。
近付いてカップルになるのは、難しい以外の何物でもなかった。
杏梨なんて、いなければ、死ねばよかったのに。
そう思うようになってしまったのだ。




