目を背けたくて。
バサッという音がして、オジサンの顔が、一瞬、杏梨のジャージによって隠れた。
「おぁっ」
「ざっけんじゃねぇよ!」
必死にジャージを払いのけようとしているオジサンに向かって、杏梨はタックルする。
どっ、という音がして、オジサンが前のめりに倒れた。ハンマーはものの見事に、彩子と東風谷を繋ぐ鎖を切断していた。
「……オォ~。ナイスハンマー」
杏梨が呟くと、彩子と東風谷は脱力したかのように座り込んだ。
「あ、杏梨~」
東風谷が呟く。杏梨はひとたび、「何言ってんの、早く帰ろうよ」と笑いながら言う。
「早く帰んないと、皆心配してたよ? LINEで色んな話してたよ、皆」
杏梨が二人を帰宅に促すと同時に、彩子が「あっ」と叫ぶ。
「オジサン……起き上がってきてる……」
二人ともオジサンの方を見やる。
「……お前……俺の作戦を……邪魔しやがったな」
(何が邪魔しやがっただ、私の恋路を邪魔しやがって)
杏梨は心の中でそんなことを思いながら、「ざっけんなよ」と叫んだ。
「何が邪魔しやがっただよ、彩子さんは何にも関係ないし、ましてや東風谷なんか全然関係ないじゃない! たかが忍び込んだからって、何で殺すまで行くのよ!? 大体そんな計画書隠しておきながら、たかが中学一年生に入られるような家にするなんて、てめぇも随分間抜けだよ!」
杏梨がブチ切れをかましたのも、これで何回目だろうか。
東風谷と彩子が呆然としながら杏梨を見ていることを実感しながら、杏梨は続ける。
「お前も死ねなんて随分無理なことだよな。じゃあ何で彩子さんのお父さんの方を殺さないの? ねぇ知ってる? 彩子さんとお父さんは一緒に住んでないんだよ! お前もそれぐらい知ってっだろ! だったら父親の所に行けよ! もちろんそれは私達が阻止するけどな、そんなこと!」
杏梨はすたすたと歩き、ハンマーを持ち、それを担いだ。
「分かったら、もう二度とこんな真似するなよ、分かったな?」
オジサンは「……あ?」と何故か逆ギレしている様子だった。
「何で……お前なんかに説教されなきゃいけないんだよ」
「……そりゃ、私だって二人のこと、大切に思ってるからだよ」
(主に東風谷をな)
杏梨は心の中でそう付け足しながら、オジサンを睨みつける。
「好きな人のこと、大切に思わない人が、どこにいるって言うの!?」
杏梨は決め台詞としてそんな言葉を吐きながら、オジサンを殴った。
「いてっ」
オジサンは、殴られた後頭部を撫でながら、「ざけんなよ……」と呟く。
「はぁ? 何言ってんの? こっちの方がざけんななんですけど」
杏梨はまたオジサンを殴る。今度は鎖骨。
「ちょ、いてぇっつってんだろ!?」
「痛いのはこっちだわ! これ殴ってる手も痛いんだからね? 分かる? ねぇ分かる!?」
杏梨は何故かキレ気味にオジサンに食ってかかる。彩子と東風谷はただただ呆然としている。
「ふざけんなよ、マジでお前!」
杏梨はオジサンを突き飛ばし、オジサンが倒れたのを確認すると、そばに転がっていたハンマーをオジサンに向かって振り上げた。
(東風谷と東風谷の大切な人をぶっ殺そうとするなんて……)
「……お前なんて、いっぺん、地獄に落ちてしまえばいいんだ!」
ハンマーを振り下ろす、直前のことだった。
「……あ、杏梨ちゃん!」
彩子が、杏梨に向かって悲痛な表情をしながら叫ぶ。
「お願いだから、杏梨ちゃんが人殺しになんて、ならないで?」
「俺達、杏梨ともう遊べなくなっちゃうじゃねぇか……」
杏梨の暴行を必死に止める二人。
二人に、何より東風谷にそんな顔をさせてしまった自分が悔しくて、杏梨は、ハンマーを振り下ろす手をそっと下ろした。
「……へっ、ざまぁ見ろ」
「は?」
ふいに、そばに先ほどのハンマーと同じように転がっていたオジサンが、ニヤニヤと笑いだした。
「好きな人に、自分が正しいと思った行動止められる気持ちはどうだ? 悔しいだろう?」
(何でお前なんかに、そんなこと言われなきゃいけないんだよ。そっちの方が悔しいっての)
杏梨は舌打ちを堪えて、オジサンを睨みつけた。ハンマーはがっちりと手に掴んである。
(……あれ? ってか、東風谷と彩子さんは?)
いつの間にか、先ほど二人がいた場所に、人の姿はなかった。
「それに、お前にもう一つだけ悔しくなること教えてやると」
(は?)
杏梨は怪訝そうにオジサンを見つめる。
「……東風谷って子、未だに篠塚彩子を大切に思ってるって言ってたぞ」
「……っ!」
杏梨は、何も言えず、しばらくそこで固まっていた。
(……うん、確かに、確かにそうだよ。……私だって、東風谷は彩子さんのこと、まだ好きなんだなぁとか思ってはいたけどさ……)
それは、東風谷に直接聞いたわけではなかった。
東風谷が「篠塚彩子は俺の初恋の人だ」と呟いただけであり、東風谷が今現在彩子を好きであるのかとは、東風谷に質問したわけではないのだ。
告白してきた人の手前、「篠塚彩子は好きではない」と否定したのだろうが、それを告白してきた人の手前でしか言わないのなら、きっと篠塚彩子を大切に思っている、つまり好きだと考えても、何ら不思議なことはなかった。
彩子の命を狙っているオジサンの前でそんなことを言うぐらいなのだから、きっと彩子のことをそれほど大切に思っているに違いない。
(……そ、そんな)
彩子は、東風谷のこと、好きでも何でもないのに。
杏梨の方が、東風谷を大切に想っているのに。
(銀座行った時も、東風谷の両親に会った時も、私、いっつも東風谷を支えていたのに……。初恋の人に負けたのが、悔しいよ……)
もちろん、そんなことを今考えるべきではないと、杏梨も分かっているのだが、好きな人の好きな人は自分ではないという事実が告げられ、それなりにショックを受けていたのだ。
(何で私、こんなにも……こんなにも苦しいんだろう……)
恋愛というものは、杏梨にとっては至極難しいことであった。恋多き香帆が親友であったが、正直杏梨はそれほど恋愛に食い付くという方ではなかった。
(東風谷に出会って、私、初めて、こんな風に人を支えることがどれだけ幸せか、やっと分かったのに)
東風谷は、杏梨のことをただの友達としか見ていない。ただの「好きな友達」。東風谷の「好きな人」は、杏梨ではなく、篠塚彩子。そんなことは、誰が見ても、明らかなのに。
(そんなことに気付けない私って……一体、何の意味があるんだろう)
初めて東風谷と出会ったとき、いきなり画鋲をぶっ刺されて、第一印象は最悪の一言に尽きたことも事実。
恋愛にオクテで、香帆の話についていけなかったのも事実。
そんな事実が積み重なって、今の杏梨がここにいる。
(私、臆病だし人の気持ちも考えないのに、何東風谷が私のこと、ちゃんと見てくれるなんて期待していたんだろう)
期待なんて、杏梨はし過ぎていた。東風谷は自分を一人の友達としか見ていないという事実から、目を必死で背けていた。
(……現実のこと、ちゃんと見ていないくせに、彩子さんというライバルが現れたら、必死に彩子さんに嫉妬した。自分が彩子さんよりも東風谷をちゃんと見ているって言う、変な自信を持って)
他にも、友実のことだって、そうだったのに。
(友実ちゃんのことだって。……私、心のどこかで、友実ちゃんは東風谷に告白していないから、私の方が勝ってるなんて勝手に思っちゃってた。本当は全然そんなことなんてないのに。今考えたら、私と友実ちゃんだったら、友実ちゃんの方が、何倍も可愛くて、人気者なのに)
杏梨は、背中に鋭い痛みを感じる。きっと、自分の自己否定の意識が、背中に突き刺さっているのだろうと、解釈していた。
(そんなこと、考えていたなんて……)
手足がしびれて、杏梨は思わずしゃがみこむ。自己否定が流石に来すぎている。つまり、相当追いつめられていたということなのだろう。
(私……人として、最低だ……)
背中にまた強烈な痛みが走る。
(こんなに、私、自分で自分のこと追いつめちゃったんだな……)
杏梨は、ずきずきと痛む背中をさすろうと、手を伸ばす。
その瞬間のことだった。
「杏梨!」
東風谷の声が、公園に響いた。




