お稲荷さんと夏祭り
「呪われてしまえ! ってか祟られろ!」
私はそう叫びながら目の前にぶらさがる大きな縄を力いっぱい振り回す。縄の上につけられた鈴はガランガランと大きな音を鳴らした。
そして私はあの男に9(苦)10(渋)の時が訪れますようにという願いを込めて、賽銭箱にまず9円、そして次に10円を叩き込む。適当に十回ほど手を叩いてから、これだけ拍手したのだから大丈夫だろうと判断し、「エロイムエッサイムエロイムエッサイム……」と呪文を唱えた。
「神様でも仏さまでも悪魔ちゃんでも構いません。どうかあの男に裁きを。愚かな凡夫に怒りの鉄槌をお下しください!」
彼に下されるべき呪いはすでに考えてある。
『急いでる日に限ってタンスの角に小指ぶつける呪い』
『ふと夜中にテレビをつけたら必ず不細工な女芸人の顔がドアップで映ってる呪い』
『自販機でジュース買ったらお釣りが全部10円玉で出てくる呪い』
『アイス食べ過ぎておなかを壊す呪い』
私がぶつぶつと「こんな呪いでお願いします」と考えに考えた地味な呪いを彼にかけてくれるよう、神様に祈っていると
「うるせえんじゃ! またお前か!」
賽銭箱の向こう。本堂の中から、神主のおじいさんが怒り狂った形相で飛び出してきて、私に向かって怒鳴り散らす。
「なんですか? 今私は大事な用があるんです。これはやらなくちゃいけないことなんです」
「その馬鹿みたいに鈴を鳴らして大声で叫ぶ行動がか!?」
この神主の言葉には、さすがの私もカチンと来た。
「バカみたいとはなんですか! これは私に必要なことなんです! これまでさんざん思わせぶりなこと言っておいて、私が勇気を出して告白したらあっさりフったあの男は、祟りに遭うべきなんです!」
「どうせ逆恨みじゃろ! 帰れ! 縁日が台無しじゃ!」
「ひどい! 熱心な信徒が拝みに来てるのに帰れだなんて!」
「信徒なら作法くらいちゃんと覚えてこい!」
何を言っているのだ。大事なのは作法ではない。敬う気持ちだ。
「ここはそういう神社じゃない。他をあたっとくれ」
「わかりましたよ。じゃあ私が賽銭箱に入れた9、10円返してください」
あわよくばこの紛らわしい言い方で90円手に入れる算段だったが、なんとこの神主は非常識なことにビタ一文返さないと宣言してきた。しかもあろうことか偽計業務妨害で警察に通報するという。
さすがに警察を呼ばれると面倒なので、「そこは偽計業務妨害じゃなくて威力業務妨害ですよバーカ!」とせめてもの捨て台詞を残して 通学鞄を即座に掴んだ私は本堂の屋根の下から、熱く照り付ける太陽に下へと体を晒した。
セミの鳴く声と雲一つない晴れ空。あまりにも眩しすぎる陽の光に照らされ、むわりとした熱気に思わずくらりとしそうになる。
私は境内を囲む森の入り口にある木陰のベンチに腰を下ろす。どうやらここには先客がいたらしい。
「内藤さん。こんにちは」
私がベンチの上で伸びている内藤さんに声をかけると、彼は目を開いて少しだけ私のほうに視線を向け「にゃおうん」とつぶやいた。
内藤さんとは神社に住み着くこの野良黒猫の名前だ。どうして内藤さんと呼ばれているのかは知らない。私が物心ついたころにはここにいたから、もう15歳くらいのおじいちゃんかもしれない。
木漏れ日を浴びてベンチにあおむけで寝転がっている内藤さんを見ると、気持ちよさそうだなあとうらやましく感じる。いっそ私も思い切り寝転がってしまいたいが、それはできない。私は恥も外聞も捨てていない人間なのだ。しかも今の服装は高校の制服だからスカートだし。
「ねえ内藤さん聞いて。いつも話してる奥田くんって覚えてるでしょ?」
私は内藤さんのおなかをなでながら言う。いつも人に言えないようなことは、人ではない内藤さんに聞いてもらっているのだ。
「今日、私奥田くんに告白したの。そしたら……、振られちゃった」
文章にしてしまえばわずか数十文字。何秒かで言い終わってしまえる内容だ。
けれど私のこの怒りにも悲しみにも似た感情は、私自身ですらその形を与えられないほど複雑なものだった。
奥田くんは、同じクラスになったことはないけど、同じ部活で2年半の間一緒に頑張ってきた男の子だ。
人数の少ない文芸部における、唯一の同学年の男子。
何かと二人きりで作業したりする機会も多く、親密な仲になっていた。
恋心をはっきりと自覚したのは、後輩に私と同じ苗字の後輩が入ってきたことで、奥田君が私のことを「美由紀」と下の名前で呼ぶようになったあたりだろうか。端的にいうと、こう、ずきんと来たのだ。
伊藤さんという今もOGとして時折部活に顔を出す1学年上の先輩に「やっぱり奥田君のこと意識しちゃってる感じ?」と問われたときは、「そ、そんなことないですよ!」と返したけど、もちろん嘘だ。
そして奥田君も私のことを好いていてくれているという確信は、それなりにあった。私と会うとすっごくうれしそうにしてくれるし、ぐいと近づくと顔を赤くして緊張する様子を見せる。
それがあれですよ。今日勇気を出して告白した私には「ごめん。美由紀のことそういう恋愛対象的な目で見れない」ときたもんだ。
もうね。あれだけ思わせぶりな態度をして、いうことはそれかと。
「あーなんかまた腹立ってきた! もう一回神様にお願いしてくる!」
私は地面を踏み鳴らしながら、再び本堂に向けて歩く。しかし今度は私が近づくや否や神主がスマホでどこかに連絡し始めたので、慌てて内藤さんのところにもどる。
「何あれあのハゲ。なんなのあのハゲ。私が近づいただけで警察呼ぼうだなんて失礼にもほどがあるんじゃないの!? 今回は静かにお参りする気も全くないわけじゃなかったのに!」
内藤さんは目を半分開いて、いかにもうっとうしそうな表情とともに、「うっせえなあ」とでも言いたげな様子で低い鳴き声を出した。
内藤さんにすら相手されない私は、ふとベンチの隣にある台座に乗った狐の石像を見上げる。この神社はお稲荷さんを祀っているらしい。この神社の信仰なんかにはまったく興味ないけど。
そのとき、稲荷像が光を放ち始めた。
比喩表現じゃない。私の目線の先にあるお稲荷さん像が光輝きめていた。内藤さんも「みゃ!?」と驚きの声を上げてものすごいスピードで森に向かって逃げていく。
まばゆい光が収まったかと思うと、さっきまで狐の像があった場所に、なにやら人がうずくまっていた。いきなりのそりと動き出して、台座の上に立ち上がる。
それは、白い浴衣を着た、びっくりするほどの美少年だった。
男の子にしてはやや長く艶やかな髪と白い決め細やかな肌。目鼻立ちは驚くほど整っていて、頭には狐の耳のようなものが生えていた。
その少年は、あたりをゆっくりと見回して、私と目が合う。そして台座から飛び降りて
「やあ」
凛とした声でそう言った。なにが「やあ」なのかわからない。
「はじめまして、かな。白川美由紀」
「なんで、私の名前を……」
「わかるよ。だって、生まれたときも、七五三のときも、君はこの神社にお参りしたでしょ?」
いや、確かにこの神社はこの地域の氏社ポジションで、何かお参りするときは大体ここに来るけど。どうしてそれが私の名前を知っている理由になるのだろうか。
もしかして個人情報漏洩? こんな怪しい奴に顧客情報を漏らしたあの偉そうなツルッパゲジジイを訴えればいいの?
「僕はこの神社の神様です。よろしくね」
そういってにっこりと笑う。
ごめん。話についていけない。
「君たちには、お稲荷さんって言ったほうがわかりやすいかな」
「お稲荷、さん……?」
あまりに馬鹿げた突拍子もない話だ。
だけど、さっきの狐像が突然輝いて忽然と消えた後に、この子が現れたのを目の当たりにすると、少しだけ信じてしまいそうになる。
って、もしそうだとしたらやばくない?
さっきの私、鐘を思いっきり鳴らして大声で叫んでたし、怒った神様が天罰を下しに来たの?
「ごめんなさい!」
私は思い切り頭を下げる。
「さっきはほんとに申し訳ありませんでしたぁ! だから、どうか、どうか祟るのはやめてください!」
そのまま私は土下座の体勢になる。額を地面にこすりつけんばかりの勢いで。
さっきやったことを心の底から悪いことだと思ってるわけじゃないけど、ここは謝っておいたほうが得そうだ。私は損得勘定のできる人間だから。
「いや、あの……」
「お賽銭ならもう少し出します! 60円くらいで許してください!」
私は額に泥をつけながら叫んだ。
「べ、別に君を祟ろうと思って出てきたわけじゃないんだけど」
「なんだ! それなら早く言ってよね!」
私は立ち上がって男の子の方をぽんぽん叩きながら言う。土下座なんて損した。
「僕はただ君に、一緒に縁日に行ってほしいだけなんだ」
「へ……? 今なんと?」
額についた泥を襟で拭いていた私は、そのあまりに突拍子ない言葉に、思わず聞き返す。
「今夜、うちの神社がお祭りをやるのは知ってるでしょ?」
「それは……、まあ」
今本堂の辺りは私たちしかいないけど、石段の下では屋台の準備をしていた人たちがたくさんいたのを思い出す。そういえばさっきのハゲ坊主も縁日がどうとか言ってたっけ。
「私と一緒に縁日に、って? 私と出店を周るってこと?」
男の子はうなずく。
いったいなんだこの状況は。
稲荷像が男の子に変わったかと思ったら、それがこの神社の神様を名乗りだして、しかも一緒に祭りに池と言い出した。自分でも何言ってるのかわからなくなってきた。
「嫌、かな?」
「別に嫌だってわけじゃないけど」
ただ常識から外れすぎた現象に戸惑ってるだけで。こんな美少年とお祭りにいけるのは当然嬉しい状況である。
「じゃあ、行こうよ」
この男、弱弱しい見た目や声に反してなかなか強引で油断ならない。さすが自称お稲荷様。
結局、私は断りきることができず、このお稲荷様を名乗る男の子と一緒に祭りにいくことになった。まあいいか。どうせフられた身だし。
「君のことは、どう呼べばいいの?」
「なんでもいいよ。稲荷でもなんでも」
「そういうわけにはいかないでしょ。人前でそんな名前で呼ぶなんて」
「じゃあ、『けつ』でどうかな」
「それはだめ」
余計に人前でいえない名前になってる。こんな美少年をケツと呼ぶのは犯罪臭しかしない。妄想が滾ってしまう。
「うーん。ほかには『ダキニ天』『わかうかめ』『グジ』『みょうぶ』なんかがあるけど」
「どれも微妙な名前だね」
男の子は「びみょっ……う……!?」とショックを受けた様子を見せていたが、気にしない。
なんか他の名前の候補を聞いたあとだと、もう「稲荷」が一番マシな気がしてきた。
「じゃあ、稲荷。今日はよろしく」
「うん。よろしくね。美由紀さん」
稲荷は目を細めてにっこりと笑った。私より長い睫毛が目に付く。
「なにっ!? お稲荷様像がない!?」
その瞬間、本堂のほうから男の声が聞こえる。見ると、さっきのハゲが血相を変えてこちらに駆け寄ってきた。そのまま先ほどまで稲荷がいた台座の前で、絶望しきった表情でひざをつく。
「た、大変じゃ……。おい! さっきの小娘! お前がどこかへやったのか!」
「そんなわけないじゃないですか。冗談は顔だけにしてください」
「祟りじゃ! 祟りがおきるぞ!」
爺さんが叫びだしたので、私と稲荷はそそくさとその場を去った。まったく。神社の境内で大声を出すなんて、どういう神経をしてるんだろう。
「大丈夫だよ。僕が僕の意思で動いてるんだから、祟りなんておきるわけない」
石段を降りながら稲荷がそう解説してくれる。
「じゃあ、なんで教えてあげなかったの?」
「僕、あの人嫌いなんだよね。どうせもうすぐ左遷だから、ここでちょっとくらい意地悪したっていいかなって」
あのハゲは神様にすら嫌われていたのだ。ざまあ見ろと言ってやりたい。
「左遷って?」
「僕、もうすぐ遠い他所の神社の担当になることが決まったんだ。それはいいんだけど、お引越し前に、一つだけ、どうしてもやりたいことができた」
「それって、もしかして……」
「うん。そうだよ」
私より下の段にたって見上げてくる稲荷。その目はとてもとても澄んでいて、綺麗だった。
「君と会いたい。君と話がしたい。君と、夏祭りに行きたい。本来は神様が人間と会うなんてご法度なんだけど、長年勤めてきた神社を移される直前、ほんの短い時間なら許されるんだ」
稲荷はそう言った。
どうして。どうしてお稲荷さんが私をそこまで気に入ったのだろう。
そりゃ私は地元の人間だし、昔からこの神社にはよく来て遊んだりしてきた。だけど、そこまで自分に神様から気に入られる要素があるとは思えない。
「美由紀さん。そっちは出店のあるほうじゃないよ」
「家に帰るの。浴衣に着替えてくる」
「別にいいのに」
神様がそんなに私とお祭りに行きたいといってくれてるのに、制服のままでいるのは気が引けた。稲荷が制服フェチである可能性は考慮しない。
私は一人で家に帰り、屋根裏から浴衣を引っ張り出してきた。去年より体重は増えてるけど問題なく着れる。お母さんに「美由紀どうしたの? もしかして男とデート?」と言われ、そうだとも違うとも言いがたい私はそれを無視して家を飛び出してきた。
神社に戻ったときには、すでに夕日は沈みかけていた。祭囃子が聞こえてきて、提灯が暖かい光を放っている。
「お待たせ」
石段下のベンチで稲荷は私を待っていた。稲荷は私の姿を見て「かわいい……」といいながら目を丸くする。
「じゃあ」と稲荷は立ち上がり、私に向かって手を伸ばす。
「行こうか」
私たちは、最初に通りかかった綿菓子の屋台で、まず最初の食べ物を買うことにした。
「へい! らっしゃい!」
屋台のおっちゃんが私たちに元気よく挨拶してきた。
「綿菓子二つね」
おっちゃんは「あいよ!」といいながらおなじみのなんか綿がぐるぐる回ってる機会に棒を突っ込む。みるみると膨らんで、私の顔くらいの大きさになったそれを、おっちゃんは私に手渡す。
「1つで250万円ね」
「はい、250円」
「ちょうどいただきました、と。そっちの兄ちゃんの分は今から作るから待っててくれ」
おっちゃんが二つ目の綿菓子を作ってる間、稲荷は「えっと、にひゃくごじゅうえん……」とつぶやきながら、きんちゃく袋から大量の五円玉や十円玉、他には外国のものらしき硬貨を取り出して並べていった。
「あー。いい。私が出す!」
こんな人込みの中で小さな硬貨を並べてる変な男の連れだと思われたくはない。私はおっちゃんに稲荷の分のお金も払って、代わりに受けとった綿菓子を稲荷に手渡す。
「いいの?」
「いいの! どうせ私二つも食べられないし」
お金を仕舞い終わった稲荷は「ありがとう」と言いながら綿菓子を一つ受け取った。
なぜ稲荷が五円玉や十円玉しか持っていないのか。それを考えるとお金の出所にも察しがついたけど、確認するのはやめておくことにした。どうせ稲荷にお供えされたお金なんだし。
ちなみにここの神社のお賽銭は電子マネーにも対応しているらしい。確かお賽銭ってあの音が大事なんじゃなかったっけ。
私は自分の顔よりも大きな綿菓子に思いっきりかみつく。
白いふわふわとしたそれは、私の口の中に入った瞬間じゅわりととろける。しつこいけれども癖になるべっとりとした甘さが広がった。
「おいしい……」
稲荷がぼそりとつぶやいた。私が一口食べてる間に、稲荷の分はもう半分くらいなくなってる。
綿菓子を食べ終えた私たちは、次に近くの「金魚救い」と書かれた屋台へと向かった。
「売れ残った金魚は廃棄されます! みなさん金魚たちを救ってください!」という張り紙を見てなんとも言えない気分になったけど、夏祭りに来て金魚すくいをしない手はない。
稲荷が「五百円玉あった」と言いながら屋台のおばちゃんにお金を渡す。
「僕はよしておくよ。美由紀さんがやって」
「え。けどお金……」
「これはみんなが僕にくれたものだから」
神様としてそれでいいのかと思ったけど、まあさっき綿菓子奢ってやったしということで、私は稲荷の好意をありがたく受け取ることにした。
おばちゃんからポイを受け取って、かがんで水の中に斜めにほんの少しだけポイを入れる。一度水につけてから取り出すと破れやすくなるので、一気に浸さず少しずつ水につけて使っていくのは基本的なテクニックだ。
鮮やかな朱色の金魚たち。そのうち小さめの一匹が私のポイに近づいてきた。
「よっ……と! あ!」
そーっと掬い上げようとしたところで、狙いの金魚は急に素早く動き始めて、私のポイを破っていった。
なにこいつ。たかが小さな金魚のクセしてムカつく!
こうコケにされて黙っている私ではない。しつこくさっきの金魚を追い回し、なんどもチャレンジしたけど、そのたびにこの食用にすらならない小魚は私のポイを少しずつ破っていった。
「まいど。また来てね」
おばちゃんがポイが破れ切った私に笑顔で言ってくる。煽ってるのかクソババア。
「残念だったね」
「ま、まあ。どうせうちじゃ飼えないし」
私は精いっぱいの負け惜しみを口にした。
その後も、私と稲荷はたくさんの出店を回った。
リンゴ飴を食べて、フランクフルトの肉汁に口の中をやけどしそうになり、同じ失敗はするものかとたこ焼きを一生懸命冷ましていたら今度は地面に落としてしまった。
「ふー。疲れた」
休憩所のベンチに座って私は一息つく。浴衣姿でかなり歩き回ったし、さすがに足に疲れが来てる。
私の手には泥水のような色のシロップがかかったかき氷。シロップかけ放題だからって調子に乗っていろんなものをかけていたらこんな食欲を減退させる色になってしまった。
「美由紀さん。楽しんでくれてる?」
鮮やかなピンク色のシロップがかかったかき氷を持った稲荷が私の隣に座る。
「まあ、楽しいかな」
狐の耳を付けた神様を名乗る変な男と一緒だけど、悪くはない。
稲荷は「よかった」と言いながらかき氷を頬張る。美しいとしか表現しようがない姿だ。私よりまつげが長いのが憎らしい。
さっきまで落ち込んでいた私にとっては、こんな変な奴と一緒に祭りに行くのは、結果的に気分転換になった。
そのとき、それなりに気分が上向いていた私は、休憩所の外・屋台の間の人込みを歩いている。
「それ」を視界に入れてしまった。
奥田君。
私が今日告白してフられた相手。
隣には、去年卒業した元美術部の伊藤さんという先輩。
しかもあろうことか、仲睦まじそうに恋人つなぎで手を握って。
「美由紀さん。どうしたの?」
突然黙ってしまった私に、稲荷がそうたずねてくる。稲荷は屋台のほうを見て、はっとした表情を見せた。
「美由紀さん。こっち来て」
私は稲荷に連れられて歩き出す。頭の中はあの二人が付き合ってた、という事実でいっぱいだった。祭りの喧騒すら耳に入らない。
稲荷に連れてこられたのは、石段の上、本堂のある辺り。今は祭りの途中だからか、ほとんど人はいない。提灯もたかれておらず、本堂から漏れてくる光と月明りだけが私たちを照らす。
「ごめんなさい!」
私たち以外に誰もいないこの場所で、稲荷は私に大きく頭を下げてきた。
「僕が祭りに行こうなんて言わなければ。彼の所在に気をとがらせていれば……っ!」
「いいよ。別に稲荷のせいじゃないし」
私の言葉を聞いても、稲荷は納得せずに「本当に申し訳なかった」と謝ってくる。
「あれ……?」
私はその時、少しの違和感を感じる。
今の口ぶりからすると稲荷は、私が奥田君にフられて落ち込んでいたことを知っていた。
じゃあ、なんで稲荷は私を祭りに誘ったの?
私の頭の中に、突拍子もない一つの仮説が浮かんだ。それを確かめるべく、私は稲荷に問う。
「ひょっとして、稲荷は私を元気づけたくて、祭りに誘ったの?」
稲荷は目を見開いて「どうして……。いつ気づいちゃったの?」と漏らす。どうやら当たりだったらしい。
「そうだよ。君がとっても悲しそうにしてたから、だから、少しでも元気になってほしくって。美由紀さんは確かお祭りが好きだから、ちょうど今日やってるお祭りに行けば、元気になってくれるかなって」
そうだったのだ。稲荷は、私を慰めたくて、一緒に祭りに行こうだなんて言い出したのだ。
「夕方の私って傍から見ると、どちらかといえば怒ってなかった?」
それであの神主さんにも追い出されたんだし。
「僕にはわかるよ。君がすっごくすっごく悲しんでたって。それを誤魔化すために怒ったふりをしていたんだって」
私は額に手を当てて、綺麗な星が輝く空を見上げる。
神様にはなにもかもお見通しだったのだ。
そうだ。私は悲しかった。
奥田君にフられたことがとても悲しくて辛くて切なかった。その気持ちを誤魔化すために、私は半ば自分すら騙して怒ったふりをしていたのだ。
そう認めた瞬間、私の頬を冷たい涙が伝う。私は泣いているのだと気づいたのは、それから少し遅れてからのことだった。
涙が一気にあふれ始める。止まらない。止まらない。
「私、奥田君のことがほんとに好きだった。けど、その奥田君は私のことをなんとも思ってなかったのがつらくて。そんなの自分で受け止めきれないから誤魔化してた……っ!」
ずっと一番に思い続けていた相手が自分のことを歯牙にもかけていなかった。その事実はあまりに重くて、まともに悲しんでいたら心が折れてしまう。だから私はああするしかなかった。
稲荷は何やら白い布を渡してくる。私はそれを使って思いっきりごしごしと顔を拭った。鏡がないからわからないが、きっと今の私の顔は真っ赤だろう。
「ほんとに、ごめんね。僕がもっとうまくやれていたら。君を元気づけてあげていれば」
「ううん。そんなことない」
稲荷の親切はうれしかった。稲荷と一緒に祭りを楽しんでいる間は、悲しい記憶を頭の隅に追いやっていられたのだ。
「どうする? さっき美由紀さんが鈴を鳴らして言ってた程度の小さな小さな祟りなら、起こしてあげられるけど。それで美由紀さんの気が少しでも晴れるなら」
稲荷がそう提案してくる。私はゆっくり首を振った。
「そんなことしなくていい。その代わり今から言うことに協力して」
こうしてしっかりと自分の悲しみを認めてしまえば、それを解決する手段もおのずと浮かんできた。
私は、ただ奥田君にこの悲しさを知ってほしかっただけなんだ。
だから、それを伝えればいい。私らしいやり方で。
私がこの恋に完全に見切りをつけるためのある作戦を提案すると、稲荷は「えー……」とドン引きする様子を見せたけど、結局協力してくれることになった。
石段を下りて祭りの会場へと戻る。稲荷の「彼はこっちだよ」という指示に従い、奥田君を見つけるべく祭りの会場を歩く。
そして、見つけた。
あの後姿は奥田君だ。間違いない。今もまだ先輩と一緒に手をつないで歩いてる。
彼との距離は十メートル。周りに人が少ない一本道。今から私がやろうとしていることにはうってつけの環境だ。
「くれぐれもあんまり騒ぎを大きくしないでよ。僕が始末書書かされるんだから」
「わかってるって。大丈夫」
神様の書く始末書というのも気になるけど、今はそれより大事なことがある。
私はクラウチングスタートの体勢になり、思いっきり地面を蹴って走り出す。
ぐんぐん迫る奥田君の背中。私はその数歩前で足を突き出しながら飛び上がった。
「てえええええええい!!」
私の放ったドロップキックは、そのまま奥田君の背中にクリーンヒットする。
奥田君は「ぐへぇ」と情けない声をあげて前に倒れる。ちゃんと手をつけているのでケガをした心配はなさそうだ。
「み、美由紀……?」
「白川さん……?」
伊藤さんと奥田君は、なにが起こったかわからない様子で(そりゃそうだ)私の顔を見る。
「よくも私のことフりやがって! バカヤロー!」
私は思いっきり下瞼を引っ張って舌を出す。あっかんべのポーズをとって
「お前なんかいなくたって、私は幸せになってやるんだからな! そのときになって、やっぱり好きだなんていっても知らないから!」
私はそれだけ一方的に叫んで稲荷のもとへと戻る。「ここまでやらかすとは思ってなかったよ。あの二人だけじゃなくてみんな僕らのこと見てるじゃん……」とかなんだとか言ってるけど、気にしない。私は奥田君に見せつけるようにして、稲荷と腕を組んで振り返らずに歩き出す。
これですっきりした。今度からはまた新しい恋に向かおうじゃないか。
あれからも稲荷と二人で出店を回って楽しんだのち、私は稲荷に神社の入り口のところまで見送ってもらった。
もうこの時間にもなると出店もどんどん閉まってて、あれだけ人が大勢いた通路も今はまばらになっている。
「今日は僕とお祭りに行ってくれて、ほんとにありがとう」
「こちらこそ。稲荷のおかげで、立ち直れた」
稲荷は「それができたのは君の力だよ」とほほ笑む。
そんなことない。私は稲荷がいたからその勇気を持てたんだ。
この狐の神様はとっても不器用だけど、それでも確かに私のことを心配し、力になってくれた。
私もまた不器用だった。だからこそ稲荷とは案外相性がよかったのかもしれない。
「また、会えるかな」
「厳しいね。次はどこの神社に左遷されるかわからないし、こんな風に自由行動できるのが何十年後になるやら」
私は「そっか」と呟く。さみしいけれど仕方ない。
「うまくいえないけど、人間の姿になっていないときは時間がたつのがあっという間だから、僕にとっては人間の姿でいるときが、とても長く感じるんだ。その時を、君みたいな面白い人と過ごせて、ほんとによかった」
「面白い人ってなに!? ちょっと失礼じゃない!?」
「もちろん悪い意味じゃないよ」
私と稲荷は目を合わせ、二人で大きな声をあげて笑う。
星の一生は長い。
人の一生は短い。
だけど、星は長生きなのかと言われると、それは違うのかもしれない。人の感覚だと百年は長くても、星の感覚だとあっという間かもしれないから。
同じように、成虫になってから数日しか生きられないカゲロウやセミは、案外当人たちには永遠にも近い時間を過ごしているように感じられるのかもしれない。
稲荷にとってとても長いこの数時間を一緒に過ごすのが私なんかでいいのかと思ったけど、本人が満足しているようでなによりだ。
稲荷は「じゃあ、もう行くね」と言いながら、本堂へと続く石段に向かって歩いて行った。
「ありがとう。短い間だったけど、稲荷にあえてほんとによかった!」
私はその姿が見えなくなるまで、ずっとぶんぶんと手を振り続ける。
こうして、私とお稲荷さんの少し不思議な夏祭りは、終わりを迎えた。