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そこはエコール・ド・パリ

今よりも少しだけ若かった頃、僕の隣にはシャーリーとは別の女性がいた。彼女の名前は山村千代子といい、僕と同い年で、背は僕より少しだけ低かった。高校を卒業したあと、偶然喫茶店で隣の席に座ったのをきっかけに、よく会うようになった。それから大学卒業後の少し後までの期間を一緒に過ごした。


千代子と再会した喫茶店の名前はエコール・ド・パリと言った。東池袋にある、半地下の喫茶店で、夜はバーとして営業していた。店内にはいつでもThe Whoの曲が流れていた。千代子は店長と仲が良く、休日になると昼から営業体制など御構い無しにアルコールを注文した。彼女が好きだったのは、セックス・オン・ザ・ビーチというカクテルだった。僕も少し飲ませてもらったことがあるが、甘く、酸っぱく、そして何よりアルコール度数が高かった。


カウンター席に座りながら、僕と千代子は将来に関する不安についてよく話をした。大学の卒業は目の前に見えているのに、僕らにはやりたいことが見つかっていなかった。大学に通えば自然と自分のやりたいことが見つかるのだ。高校生の頃はそんな風に思っていた。夢もなく毎日を生きていると、あっという間に卒業が見えてきて、僕らは自分たちの時間の過ごし方を反省しながら、周囲の人間に流されるようにリクルートスーツを着ては就活イベントをはしごするのだった。


「大学で学んだことなんて就職したら何にも使えないのかもしれないな」と千代子は口癖のように言った。「そこそこの容姿、そこそこの知能。とりえもなく平凡な人間だから、なかなか面接を通らないのかな」


「そう自分を卑下するなって」僕は慰めるように言うのだ。


「そうだ」と思い出したように千代子は言った。「私、セミナーに通うことにしたんだ」


「へえ、それはセカンドスクールか何かかな。怪しいやつじゃないよね」


千代子はポーチから折りたたまれた4Aのコピー紙を取り出して、カウンターの上に広げた。そこには、『超記憶術セミナー』と記載されていた。


「それ、超怪しいね」と僕が言うと、千代子も大きく頷いて同意した。


「まあ、実際にやってみた方が早いでしょう」そう言って、今度はメニュー表をカウンターの上に広げた。「ではこのページの内容を暗記してみせましょう」


そのページには、ウォッカベース、ジンベースのカクテルの名前が40以上記載されていた。


「では、私とあなたで一緒に暗記を始めて、1分後にお互い1つずつカクテルの名前を言いあいましょう」


その勝負は、千代子の圧勝だった。僕が10程度しか覚えていなかったのに対して、驚くべきことに彼女は全てのカクテルの名前を暗唱することできたのだ。


「でもさ」と僕は言う。「そんなに完璧に何かを思い出す必要性って本当にあるのかな」


「まあね」と千代子は前置をしてから話し始めた。「少なくとも、思い出したいのに思い出せないだなんて歯痒い経験からは解放されるはず。そういうことって、よくあるでしょ。少なくとも、君は今日この店に入ってから3回はそういう状態になったと思うよ。ーー何だっけ、って言うのが君の癖だね」


「そんなことまで覚えていられるんだ。でも、あんまり正確に覚えていたら、思い出が美化されることもないんじゃないかな。それはそれで少し物足りないような気がする」


「それはあるかもしれないな。でも忘れてしまうよりずっと良い。例えば、私からあなたに最初にあげたプレゼントのことを憶えている?」


「小さな星の柄が入ったグレーのハンカチだろ」


千代子から初めて貰った誕生日プレゼントだったから、僕はそれを今でも大切に保管している。もちろんシャーリーには決しては見つけられない場所に。僕は自分の答えに自信を持っていた。間違えなく覚えていることを千代子に伝えたかったのだ。喜んで欲しかった。


しかし、自信満々に答えた僕から視線を逸らし、千代子は手にしたカクテルグラスを寂しげに見つめていた。


「残念でした。それは二つ目のプレゼントです。正解は、お台場の公園で見つけた四葉のクローバー。ほら、お互いに渡しあったじゃない。嬉しかったんだよ。でも、君は憶えていないんだね」


言われてから、その日のことを思い出した。確かに、彼女のいう通りだった。「これが最初のプレゼントだね」と自分で言ったのをその瞬間まで綺麗に忘れていたのだ。


「超記憶術を習得すれば、そういう些細な思い出でも忘れないで済むのに」


セミナーに参加してみようという意思が芽生えたのは、その瞬間だった。忘れたくない思い出のはずが、僕のこの小さな頭からは簡単に抜け落ちていく。そのことに僕は気づいてしまったのだ。

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