恋の交差点物語。
新宿のスクランブル交差点の向こうに彼女は立っている。
プラスチックの赤いフチをした眼鏡を誰よりも上品に身に着けて、信号が青になるのをじっと待っている。
僕は信号のこちら側で、やはり信号が青になるのを待っている。
たくさんの人が交差点の向こう側で信号が変わるのを待っているのに、まるでそこには彼女しか存在していないように僕には見える。
それはまるでモノクロの風景写真の中に、彼女だけが色を与えられたように存在している。
僕は彼女を知っている。
僕は彼女を知っている気がする。
歯医者の受付の子だろうか?
コンビニエンスストアで見かけた店員さんだろうか?
いろいろと思い浮かべては見るものの、誰も彼女と一致する人物は登場しない。
「彼女と出会ったことがあるのなら、僕は彼女のことを忘れているはずがない」と僕は思った。
−−事実、僕は彼女のあの笑顔を今になっても鮮明に思い出すことができる−−
彼女を知っているのは今の僕ではなく、前世かまたはもっと昔の僕かもしれない。
馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、そう思うくらいに彼女は僕にとって魅力的に映った。
信号が変わるまでの僅かな間、僕は確実に彼女の虜になっていた。
ただひたすら彼女から目を離すことができなかった。
彼女もまた僕に視線を向けた。
軽く目線を下げて、そして軽く微笑んだ。
それは春の日差しを浴びながら、縁側でのんびりとくつろぐ子猫よりもずっと素敵な笑みだった。
そしてまた、春の日差しと同じくらいに暖かな視線であった。
僕は間違いなく、彼女と心が通じたことを感じていた。
そういったことは不思議とわかるものなのだ。
好むと好まざるにかかわらずである。
もうすぐ信号が変わる。
信号が変われば僕は向こう側へと渡り、彼女はこちら側へと渡ってくる。
ほんの一時、僕と彼女はスクランブル交差点のグラフの上で点を描くようにして交わり、そしてそれぞれ雑踏の中へと溶け込んで、やがて街の風景の一部と変わってゆく。
信号は青へと変わる。
モノクロの人の流れが、色を持った彼女とともにこちらへいっせいに流れてくる。
僕もやはり、大きな流れにのって向こう側へと向かっていく。
何か声をかけなければ。
そう思って足を止めてみたが、僕にはかけるべき言葉が見つからなかった。
彼女は少しこちらを意識しながらも、節目がちにして僕の横まで来て、そしてさっきまで僕がいた向こう側へと消えていった。
こんなとき僕にどんな言葉があっただろうか。
あのときの彼女のはにかんだ笑顔と、少し照れたような視線の前ではどんな言葉も意味を持たない。
彼女が通り過ぎた後に、僕は一度後ろを振り返ってみたが、そこにはすでに彼女の姿はなかった。
結局、僕らは信号を待つ僅かの間に心を通わせ、信号が変わると同時に大きなモノクロの人の流れの中で離れていく運命だったのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
ただ「それだけ」だったのだ。
〜エピローグ〜
さっきまで青だった歩行者用の信号は点灯を初め、皆が足を速めて向こう側とこちら側へ渡っていく。
僕もそれに合わせて足を速めようとしたところで、横から軽く肩を叩かれたことに気がつく。
心臓は一瞬にして鼓動を高め、信号が変わりそうだという事も忘れて僕は振り向く。
「にぃちゃん、チャック開いてんで。」
少し強面のおじさんが、そう一言残して向こう側へと走っていく。
僕は慌てて視線を落とし、そしてただ呆然と彼女の視線と笑顔を思い出す。
恥かしそうな視線とはにかんだその笑顔が頭の中を駆け巡る。
僕の心の中には、声にならない叫び声が響き渡っていた。
そして新宿のスクランブル交差点には、いつまでも車のクラクションが鳴り響いていた。