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カンガルーに案内され、僕は研究所の広間に足を踏み入れた。靴は彼が持っていた。
広間に来た瞬間、僕は思わず歓声を上げてしまったことを覚えている。彼がそれを見て意地悪そうに微笑んだことも。
「すごい…… 広いですね」僕は上を見あげながら呟いた。
「まあな」奇妙な発明家は歩きながら答えた。「この研究所は私の自慢なんだ」
「どれくらいかかったんですか」僕は訊ねた。
「費用は数十億円を超えると言われているらしい。建設には十四年を用したとか」
「どうしてそんなに曖昧な言い方をするんですか」僕はまだ天井を見ていた。
「父から聞いたんだ」彼の声だけが聞こえた。「父は投資家でね。あのロイス・チルドレンの筆頭株主をしていたんだ。しかも創業当時から」
「ロイス…… チルド……?」僕は首を下げた。
「知らないのか」彼は振り向き、僕の方を見た。少し怒っているようだった。「まあいい。歴史に強くなければ分からない話だしな」
馬鹿にされたようで、何だか腑に落ちない感じだったが、彼と喧嘩はしたくなかったのでこのことは避けておくことにした。
広間の向こうには大きなスクリーンがあって、僕はしばらくの間呆気にとられていた。スクリーンの大きさに驚いたのではなくて、この研究所の基本的な文明レベルというものに驚いたのだ。学校に行っているだけでは分からなかった世界が、僕の目に届くところに存在している。それはとてもすごいことだ。
僕はハリウッド映画の未来都市を見ているような気分になった。この研究所自体が、そのままセットにも思えてきた。目を凝らさなければ壁が見えない空間。僕を案内してくれる謎のカンガルー。しかも人間の言葉を話すというおまけつきだ。非現実的なこの場所を見渡していると、僕はなぜか身体から急激なアドレナリンが放出される感覚をおぼえるのだ。
「窺窬を狙っているのか?」彼が振り返らずに声だけをこちらに向けた。
「き、ゆ……? なんですか」
「隙を狙っているのかと訊いているんだ」彼は言った。「先ほどから私の広間の中を見渡して、何かを企んでいるのではないのか」
「別に、そんなことは考えてないですよ」
僕が前を見て言い返すと、彼の笑い声がした。
「そんなに怒ることはない。こんなことを言っても君の信念に揺らぎはないかもしれないが、本当に私は味方なんだ」
「信じてますよ、勿論」僕は悲しげに言った。「でも、最後の一歩がどうしても足りないんです」
五分ほど広間を歩き、自動ドアの前にたどり着いた。自動ドアはベッドルームに続く時のドアと同じ色をしていた。ちゃんと区別出来ているんですか、と僕が訊くと彼は、たまに間違える、と小さく呟いた。
ドアの向こうの通路はガラスで出来ていた。言うならば360度透明。アクアリウムの施設をそのままこちらへ持ってきたかのように、山脈や空を全て見わたすことが出来た。
僕は歓声こそは上げなかったものの、喉元から先ほどのアドレナリンがこみ上げてくるようだった。
「怖くないのか?」彼は横顔をこちらに向けた。「標高2000メートルはあるぞ」
「怖くないです」僕はあえて冷めた口調で言った。「むしろ、興味深い」
「興味深い、か……」彼は前方を向いた。「若いのに年寄りみたいなことを言うんだな」
「すいません」僕は起伏を込めずに言った。しかし、次にいう言葉にはちゃんと気持ちを込めた。
「すごく…… 楽しいです」
チューブの中をしばらく歩き、自動ドアの前まで来た。自動ドアはもう言わずもがな白色だった。扉が開く瞬間、彼の尻尾が微妙に揺れるのを僕は目撃した。
「開けるぞ」彼は言った。語尾の部分に少しだけ感情の高揚が見られた。僕は様々な思いから少し微笑んでしまい、それが彼にもばれた。
「なんだ。何がおかしいんだ」
「いや、何でもない、です」僕は失笑をこらえた。
中は意外にも広かった。ベッドルームの狭さから、通路の先にある部屋は必ず狭い、ということを僕は勝手に決めつけていたのだが、この部屋を見る限りそういうことではなさそうだった。
ここもやはり壁面は白だった。広間と同じで白が延々と続いている。僕はとうとう我慢できなくなって、
「どうして、みんな白なんですか」
と訊いてしまった。するとカンガルーは、
「白は無を意味する。あとは清潔さやイノセント、そして立派さ。西洋や東洋でも好印象を持たれている色は白くらいなんだ。それに、白は奇妙さや非現実感も表している。これは私が個人的に思っていることなのだが。
私は趣味で小説を書いているが、奇妙な世界観を作りたいときに白を選んだりする。赤だと不気味すぎてしまうし、黒だと強すぎてしまう。絶妙なシュールを作りだすのには、やはり白が一番いいんだ」
「はぁ」僕は興味がなさそうに息を吐いた。小説なんて小学校の読書感想文のとき以来から読んでいない。
さらに僕らは進んだ。壁や天井が時折見えたり見えなくなったりしている。先ほどの広間とは構造が違うらしい。もっと進むと今度は前方に扉と建物があるのが見えた。彼と距離を置いて、建物の奥の方を覗いてみると、どうやらそれは縦に伸びた長方形の建物であるようだった。急遽それを造ったのかと思うほど、仮設的な雰囲気を思わせた。工事現場にある簡易トイレを僕は咄嗟に思い浮かべた。
「これは、一体?」彼に近づいてから僕は質問した。
「工房だ」歩きながら彼は言った。「この中にAGグライダーが置いてある。とても重要なところで、他人を入れるのは君が初めてだ」
えっ、と僕は驚いた。苦笑が思わずこぼれる。
「なんか…… ありがとうございます」
礼を述べると彼は突然立ち止まりこちらの方を向いた。眼は優しげなものになっていた。
「君は、ここへ来るのに一番相応しい人間なんだ」
彼はそう言うと、再び扉の方へすたすたと歩いていった。
暗証番号を解除し、僕らは長方形の中へと入った。
中は…… 白ではなかった。フェンスの地面に、鉄筋で出来た低い天井。横には重厚そうなパイプが左右の壁に通っていた。幅がとても狭く、僕の足で六歩分ぐらいしかない。狭い場所と広い場所が目まぐるしく変わっていくので、僕は頭の整理が一瞬追いつかなくなってしまった。非現実的なことが次々に起こると、いやでも普通が分からなくなってしまう。
「ここでは万が一のことが起きても大丈夫なように、工房中を霧に守らせている」カンガルーの背中がそっと言った。
「あぁ、ということは……」
「そう。先ほどの物体が見えたり見えなかったりするのは霧がそこにあるということなんだ」
「霧にどういう力があるんですか?」僕は訊いた。
彼は歩きながら言った。「毒があるんだ。私に許可なく入ったものは霧が毒性を持つように出来ている」
「そんなことが出来るんですか」
「ああ、出来る。といっても私が作ったわけではないがな。父が作ったんだ」
「あの、ロス・チャイルドの……」
「ロイス・チルドレンだ」彼は言った。
しばらく歩くと扉が目の前に見えてきた。ここまで部屋、扉、通路と、一連のパターンで進められていることに僕はようやく気付いた。ここまで広い住居を持っているのに、なぜそこまでシンプルな造りにするのかが気になった。やはり彼が研究者だからだろうか。研究者はそういうやり方を好むのだろうか。
扉に取り付けられたパネルに指を置き、彼は暗証番号を打ち込み始めた。単調な音が字数を数える、六文字。打ち込んだあとに、彼は僕の方を振り向き言った。
「この先にAGグライダーがある。私の造ったプロトタイプ一号だ。君が乗ってきたのとはデザインが少し違うが、性能は同じだと考えていい。君はそれに乗って、また女神がいる場所へと目指してもらう」
僕は彼の目を見た。「つまり、僕が乗ってきたグライダーはやはり……」
彼は頷いた。「ああ。研究所の壁にぶつかって大破した」
僕はしばらく間を置いた。
「じゃあ、僕は騙されたということですか。僕はてっきりここに女神がいるものだと思っていて…… それであなたの研究所を目指したんです。でも、それは間違っていたということですか」
「間違ってはいない」彼は左から二本目の指を立てた。「君がここにくることは予め決められていたことなのだ」
「どういう……意味ですか?」僕は目を細めた。
彼はすぐには答えず、黙ってまた扉の方に身体を向けた。何秒かしてボタンを押す音が聞こえた。恐らく確認ボタンを押したのだろう。高音のSEが聞こえて、扉は重い腰を上げた。
突風が僕の顔に当たって飛散した。奥には彼の言った通り僕の知っているそれがあった。
彼が何かを呟き、スローモーションのように歩いていく。僕も黙って彼についていった。
彼はゆっくりとAGグライダーへと近づき、右手の平をそっと乗せた。甲に生えた茶色の毛は微風でわずかに震えていた。
「私は君のような優秀な搭乗者を手助けするために、この地に生まれた」
彼はそっと、言葉を風に乗せるように話し始めた。
「物心ついたときから、私は父から研究者となるための英才教育を受けていた。生まれも育ちも何もかもをここで過ごしたんだ。だから外の世界のことは父から聞いたことぐらいしか知らない。私にとって『外』というのは、この研究所から見える山脈と空、それだけだった」
いまの彼の口調は誰かのそれに似ていた。
「全てはAGグライダーを造るためだった。AGグライダーは父の夢、そして私の夢でもあったんだ。女神の心を癒すことが私たちカンガルー族の使命だったから、私は制御のきかないロボットのように開発を続けた。それはまるで、『狂い』と呼べるようなものだった。私はいつしか、生き物としての視覚を失っていた。物事のあらゆる視点がグライダーの方へ向けられているようだった」
僕は彼の口調を思い出そうとした。とても懐かしい感じがした。
「そして私はついに、AGグライダーを完成させた。残念なことに完成させた月日は分からないが、とても長い時間がかかったというのは記憶している。意志の力で動く世界初の機械を造りあげたときには、私はもうひどく疲れ果てていた。きっとAGグライダーを完成させた瞬間から、私の生き物としての部分が蘇生を始めたのだろう。私は完成したグライダーの前で意識を失った」
彼は僕の居ることなど忘れてしまったかのようだった。AGグライダーを見ながら、一人事のように喋っていた。
「気がついたときには、私はもう第二の自分となっていた。それまで冷凍保存で長い間肉体を放置されていたようなそんな気分だった。私が起きたとき、目の前には純白の世界が広がっていた。同時に女神の囁く声も聞こえた。彼女の声はとても美しく、私はそのままもう一度意識を失ってしまいそうになった。私が彼女のことを愛するようになったのは、その時からだった……」
彼が言葉を止め、僕の方を向いた。彼がこちらを向いたときには、僕はもう彼の口調が誰に似ているのかを思い出していた。
彼はもう、二度と話さないと決めたようだった。深く俯き、そのまま死んだように動かない。
僕は彼の肩にそっと手を置いた。
「ありがとう。そして、お疲れ様。部屋の彩色を考える余裕もないくらい大変な苦労をしたんだね」
彼は声をかけても動かなかった。
僕はグライダーの先端が差しているゲートの方まで歩くと、横にあるスイッチを押した。ゲートが瞬息で開き、すぐさま豪風が僕の体に近づいてきた。
「外だよ…… 博士。あなたが目指していた空に、僕は行きます」
僕はグライダーに乗りこんだ。ヘルメットもニーパッドも付けないで、僕はグライダーに乗り込もうとしていた。
「ありがとう…… ございました……」
こうして僕の第二の飛翔が始まった。