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○○●○○ -Ⅱ-

 恍惚の乞食と化していた僕を救ってくれたのは、ガラスの破損音だった。

 ヘルメットが取れ、耳を劈くような轟きが僕の脳天を貫いて、僕は再び意識を失ってしまいそうになった。だが時はそんなことをしている余裕さえも与えてくれず、僕は滑るように道を駆け抜けていった。坂を転がる石のように、僕は凄まじい速さで、視界を変化させていった。

「熱い!」

 僕は悲鳴を上げた。摩擦による熱さが、今頃になって数秒遅れでやってきたのだ。加えて恐怖心も、僕の前で申しわけなさそうな顔をして挨拶してきた。なぜ、今になって…… 遅れて来るくらいなら最初から来なければ良かったのだ。

 辺りが一面白色だと気づいたのはそれからだった。純白の通路を、僕は身体をひきずらせながら移動していたのだ。そう、それはとても、とてもシュールな時間だった。もちろん、僕が好んでそこに入ったわけではない。だから僕はある意味被害者と言えるのかもしれない。まぁ、でも今はそんなことはどうでもいいのかもしれないが。

「あぁ……」

 僕はまた悲鳴を上げた。命令してもいないのに、瞳から雫が垂れてきた。AGグライダーに乗ってここまでやってきた挑戦者が、こんなところで泣くなんて恥ずかしいと思う。だが、それでも僕は涙を止めることが出来ないのだ。

 果てもなく続く痛みの通路は、僕が悲鳴を上げるごとに果てを生成しているような気がした。それが僕の願いだけでなく、どうか真実のものであってほしいと思う。手を合わせて祈るにも、熱くてそんなことは出来ないが、僕は涙ながらに祈祷した。大人になれない中学生のように、下品な祈りを繰り返した。

 ドアが見えたのは次の瞬間だった。見えたのは壁や床と同じ、白い扉。だが僕の動きが速すぎて、得られた情報はそれだけだった。扉の細かなデザインについては何も分からなかった。

 扉が自動で開き、再びの激突は免れた。僕は雫をこぼしながら、扉の向こうへ放り出された。

 生と死の狭間がそのとき見えたようだった。頭の中でリフレインした、あの歌をBGMにして。あふれる涙を雨のようにして。


【ひめやかに流るる……

 ゆるやかに過ぎゆく……

 わたしはあなたになりたくて……】


 白と黄が混じったような光。

 僕が最初に目にしたのはそれだった。最初、というのは僕が気絶をしてからの最初、という意味だ。僕は白い壁に身体を思いきり叩きつけ、気を失った。意識を失うのはこれで二度目。AGグライダーの成功者がゼロであることを思えば、僕がまだ挑戦者としていられることは奇跡といってもいいのかもしれない……。

 僕は目を開けた。目を覚ました時、耳の奥で鳴り響いていたあのメロディはすでに消えてしまっていた。僕は少し残念に思いながら、いまの僕の状況について情報を集めようと試みた。いろんなことが次々に起こって少し頭が混乱していたこともあり、情報収集に長い時間はかからなかった。もしかしたら僕は危険なところにいるのかもしれない。可能性のないことなんて無いのだ。

「おい、大丈夫か」

 突然、声が聞こえた。テノールくらいの男声だ。僕は自分の舌を思いきり噛んで、すぐに返事が出来るようにした。

「だ、大丈夫……です」

「良かった」

 男性(なのか?)はそれだけ言うと、どこかへ行ったようだった。状況が把握出来て、僕はちょっぴりほっとした。どうやら僕はベッドにずっと寝かされていたらしい。完全に意識が戻ったわけではないので確実なことは言えないが、少なくとも命の危険はないようだ。

 手袋やニーパッドを装着している感触はなかった。視界もそのうち戻ってきて、明瞭な意識が僕の味方についてくれた。見えた色はこれまた白。疲弊した身体を何とか起こして、部屋の中を見渡してみた。意外にも狭い。八畳ぐらいしかない。そして、僕の上にかかっている暖かい毛布もこれまた色は白だった。全てが白。変則的なものはない。

 山脈の空から見えた建物がここだということはほぼ間違いないだろう。恐らく僕は、あの歌に魅了されてしまったが故に意識を失ってしまい、そのままこの建物にグライダーごと突っ込んでしまったのだ。長い廊下を駆け抜け、止まれずに壁に激突し、先ほどの男性(女神の使いか?)によってこのベッドに寝かされることとなった…… と、ここまで考えて僕は急に冷や汗をかき始めた。ガラスを突き破ってここに来たということは、僕が乗ってきたAGグライダーは一体どこにいってしまったのだろうか。もしかしたらグライダーは大破して、山脈の渦へと飲み込まれてしまったのかもしれない。そうなってしまったのなら…… 僕は、一巻の終わりだ。

 下品にも吐き気が襲ってきた。毛布の暖かさなどお構いなしに悪寒もやってくる。奇跡など起こってはいなかった。まさに幸い中の不幸。推測が当たれば、僕は運命に見放された哀れな敗北者になる。

 敗北を阻止するためには、多くのことを確かめなければならない。グライダーの行方を探すことと、ここは本当に女神のいるゴールなのかということ。この二つだ。僕は深く息を吸うと、さっそく毛布から抜け出てあるはずの靴を探した。だが、木造のベッドの下に靴らしき物体はどこにもなかった。

 冷や汗がさらに噴き出た。一体、僕の靴はどこに……。やらなければならないことが多すぎて、頭がショートしそうになる。

 そのとき、前のドアからノック音がした。

 わざとらしく僕は瞬きをして、身体を硬直させた。ドアの向こうにいる誰かはノックをした次に言葉を発した。

「あったかいレモンティー、持ってきたぞ」

 先ほどの男性の声だった。目覚めた瞬間に聞いた、あの時のテノールとまったく同じだ。あまりに優しげな声なので、僕は少し警戒心を解こうかと思ってしまった。

 僕の返事を待たずにドアが開いた。

 その後、声を失うとは夢にも思わなかった。

 

 ロバの耳。突き出した顔。意外な筋肉。尾。

 現れたのは「カンガルー」だった。


 僕より先に脳が混乱した。いま流れている時間が夢なのか、現実なのか。脳が僕に疑問を呈していた。これが、もし海外のアニメーションだったら、僕や脳は何も驚くことはなく、むしろマンネリ化した映像として退屈そうにそれを見るだろう。しかし、目の前にいるカンガルーは紛れもなくリアルな時の中で動いていた。僕は自分の判断が信じられなくなった。

「もう、起きたのか。身体の方は大丈夫か」

 カンガルーはそう言うと、白いマグカップを僕に差し出した。今気づいたのだが、彼(彼?)は木製の丸型のお盆と、その上に置いた陶器のマグカップを持っていた。カップからは、湯気が……出ている。でも、今はマグカップのことなどどうでもよかった。ドアの向こうで聞こえたテノールは、確かにこのカンガルーのものだった。動物が人間の言葉を……?

「一体どうしたんだ。すまんが、早くカップを受け取ってくれないか。見ての通り、器が熱いんだ」カンガルーは愚痴を言った。

 誰かが遠くから話しているとしか思えないと僕は思った。カンガルーにスピーカーを付けて、さも動物が話しているように見せかけているのだ。もしくは、精巧に作られた着ぐるみか。中に人が入って、役を演じているのだ。僕は必死にそう思おうとした。

 一応、僕は世の中の不合理な現象は出来る限り信用しようというタイプの人間だ。怪奇現象や宇宙人、超能力など、いわゆるオカルトと呼ばれる類のものは概ね信じているし、世の中には科学では到底解決できないことが必ずあると思ってきた。勿論、今もその気持ちは変わらない。ガセやインチキは確かに混じっているかもしれないが、中には本物も絶対にあるはずなのだ。

 しかし、僕は今の状況を目の前にして激しく戸惑っている。若い頃に討論を繰り広げた、反オカルト勢に見られたら恥ずかしいくらいに。僕が遭遇した『人間の言葉を話すカンガルー』。これがオカルト雑誌のネタなら普通に没となりそうなインパクトの足りない話題だ。僕も読者の立場だったら、すぐに読み飛ばしていた内容だろう。しかし、僕は今日悟った。単なるインパクトで怪奇現象の度合いを測ることは出来ない、ということを。

「あなたは……何者なんですか?」

 僕は訊ねた。怖さがにじみ出たのか、声が奇妙に震えた。

 マグカップを持ったカンガルーは、僕の言葉に首をかしげた。

「何者って……。私は研究者だ。この場所でAGグライダーの研究をしている」

 AGグライダー、研究? 事態がさらに理解できなくなる。

「あなたはカンガルーなんですか」

 前置きの言葉も考えられずストレートに尋ねる。

「んー」カンガルーは深く唸った。「確かに、私はカンガルーだが……。しかし、そんなことは今どうだっていいだろう」

 どうだっていいわけがない。僕は合理的な話をしているんだ。

 カンガルーは続けた。

「何だね。君は、外見で人を判断するような器の小さい人間なのかね」

 人? 疑問が次々と出てきて、いちいち構ってなどいられなくなった。僕は無駄な疑問を捨てた。しかし間違って、「今訊かなければならない質問」もドラッグして「ごみ箱」に捨ててしまった。不覚の至り。でも、もうどうしようも出来ない。

「とりあえず、このマグカップだけは受け取ってくれないか。もう我慢ができない」カンガルーは陶器のそれを僕にもっと近づけた。

 僕は拒否しようと思ったが、両手が勝手に動いた。

 僕はレモンティーを受け取った。確かに、我慢すれば持てるが、十秒以上は持てないというレベルの熱さだった。湯気が顔に当たって、僕は思わず頬を綻ばせた。

「お盆を、貸してください。……熱いんで」

 カンガルーはお盆を僕に差し出してくれた。僕はマグカップをそこに置き、毛布の上であぐらをかいた。お盆を置きやすくするためだ。木目の濃い色とレモンティーの薄い木目のような色が、鮮やかな色の組み合わせを生み出しているように思えた。

 あれこれ尋ねる前に、まずは一口。……美味しい。

「美味しい」口にも出してしまった。

 それを聴いて彼(もう彼でいいだろう)は喜んだ。

「味が君に合ってよかったよ。飲み物を作るのは好きなんだ」

「温かいものが今一番欲しかったような気がします。身体にとって」

 彼は頷いた。「まぁ、そうだろう。あんなものでずっと空を飛んでいれば、否が応にもホットなものが欲しくなる」

 僕はカップから顔をあげた。「やはり、知っているんですか」

 彼は細長い顔を上下させた。

「当たり前だ。ここに来るような人間は『AGグライダー』の搭乗者でなければまずあり得ない」

 僕は唾を飲み込んだ。

「じゃあ、グライダーのことも知っているんですね」

 彼は三度頷いた。「グライダーは私の希望だよ。何を隠そう私が、あのグライダーを造ったのだから」

 僕はあんぐりと口を開けた。

 彼は口角を釣り上げた。「驚いたか。さっきも言っただろう。私はAGグライダーの研究をしていると」

「それだけじゃあ、発明家ということまでは分かりません」僕は目を大きくしたままで言った。「本当に、信じてもいいんですか」

 発明家のカンガルーは小さな手を口元に持っていった。「証拠。……というわけか」

「はいそうです」僕は答えた。「信じるに値するものが欲しいんです」

 彼は自分の左耳を撫でた。しばらく判断に迷っているようだった。

「いいだろう。こちらへ来なさい。君が求めている証拠にふさわしい材料なのかは分からないが」

 僕は無言で頷いた。心臓は好奇の岩になっていた。

 レモンティーから湯気がなくなり、だんだんと冷めていった。口の中に残った甘い味も、すぐに消えていってしまった。

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