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風の声はこういう時にしか聞けない。
僕は貴重なその一瞬一瞬を深く味わった。
チューブを握り、僕は今も飛翔を続ける。最も高位な消費者に属する、あのタカやワシになったかのように……。
自信が僕のグライドを続けている。
AGグライダーに乗って三十分ほど経ち、僕は今、山脈の上を飛び続けていた。
意志の強さは相変わらずである。そうでなければ、今頃墜落してしまっているだろう。友人の心配も杞憂であったということだ。
山脈には霧がかかっていた。薄さと濃さが混じった、何とも曖昧な霧だった。山の頂と僕との距離はそこまで離れていないため、その霧がたまに僕の視界にかかる。はっきり言って邪魔だ。何とかこの霧を払える方法はないものかと僕は思った。
顔にかかる風は意外にも涼しいと感じる程度のものだった。標高が高くなれば、徐々に気温は低くなるものだと思っていたが、どうやらそれは間違いらしい。それとも、夜中になれば僕が想像していたような氷結の寒さがやってくるのか。
下を覗くと、山脈の緑が肥えているのが確認できる。しかし大きく息を吸っても、樹木の生命力がとりこまれる様子はない。先ほどの霧が、いやらしく僕の鼻に住み着くだけだ。僕はもう余計なことを考えるのは止め、目指しているものに神経を集中させた。計画ではこの山脈地帯に女神はいる。これまでなぜかあまり考えてこなかったが、僕はなんだかんだでゴールの目前まで来てしまっているのだ。自信がなかったわけではないが、正直驚いてしまっている自分がいる。
機体のバランスが少しだけ不安定になった。僕の動揺を機体が感じ取ったらしい。僕の小さな心一つで、この大きな鉄塊は十分に崩れる理由となりうる、というのは改めて怖い気がした。そう思ったら、また機体がぐらぐらとなった。焦った僕は深呼吸をし、精神を落ち着かせようとした。しかし、冷静になろうと思えば思うほど、心は焦燥した暴れの炎と化していってしまう。そんな僕の意気に追い打ちをかけるように、さらに機体は揺れ、心臓は揺れ……。もう、どうしようもなくなってしまった。
頭にemergency(緊急事態)の文字が浮かぶ。ピッチの低いサイレンが脳の表面に叩きつけるように轟々と唸っていた。目に見えない透明な救急車が僕の前を通り過ぎて、激しい音を鳴らす。不快な音。やがてはドップラー効果で周波数が異なって聞こえてくるようになる。僕は頭を激しく左右に振って、その音をかき消した。
緑の大地が間近に迫り、僕は遠くの方を見据えるしかなくなった。風の声はもう聞こえない。暗い影を落としたヘドロのような塊が、僕の頬にへばりつくだけだ。それはきっと、自分の油断がもたらしたものなのだろう。それはそれで構わないと僕は思う。何が起ころうと僕は前を目指すだけだ。
変化が起こったのは、それからすぐのことだった。
霧が突然晴れ、視界が明瞭になった。僕は目を細め、眼前で起こっている変化に身を強張らせた。持っていたチューブがさらに冷たくなり、手が自動的にかじかみ始めた。拳を作らなくても、掌が固まっていくのが感じられる。
僕は一つの確信に行き着いていた。
山脈の上を飛んでいて、目指す先に現れるものと言えば一つしかないのだ。
僕は白い鉄棒をさらに強く握った。その確信が現実のこととなるように、願った。