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●○○○○

 実践躬行出来たのはこれが初めてのことである。

 屋上にあがるまでに僕は様々なことを考えた。別に考えているからと言って大一番を前に逡巡しているわけではない。考えなしに動くことと、勇ましいことは違うことである。逆もまた然りで、冷静になることと、臆病になることは違うことである。僕はただ、冷静に物事を推し量っているだけなのだ。

 AGグライダー。どこの誰がそう呼んだのかは分からない。ただ一つ言えることは、この名称には二重の意味や、深い意味はないということである。まだ一度も搭乗したことがない自分が言うのも何なのだが、この名称はまさに見たまま、感じたままのことを言っていると思う。AGは日本語で前衛的。そう、AGグライダーはそのままに前衛的なグライダーなのである。

 グライダー、というとなんだかスポーツみたいだが、このAGグライダーに乗ることは別に競技や、種目の一つというわけではない。誰かが勝手に始め、それをみんなもするようになったというだけである。それでもルールというものは少なからず存在する。簡単に言えば、学校の屋上に設置されているハンググライダーに搭乗し、風に乗って、遥か先にあるゴール地点へと目指すというものである。ゴールには財宝と、それを守る女神がおり、財宝をいただいて戻ってくれば終わりである。説明だけをするとこんな簡単な話になってしまうが、このグライドが始まってから二年以上、未だ成功者はいない。気流の読みを間違えて墜落したり、途中で気力を失って退場したりと、結果は散々である。途中で気力を失って……というのはこのAGグライダーでしか起こりえない失敗のケースである。

 難儀なことも次々に起こるのがこの競技(この呼び方は厳密に言うと誤りだが、他に類する言葉も見つからなかったので)の特徴である。自分の腕と精神力が頼りになるが、それよりも関わってくるのはやはり運である。運と気力さえ味方につければ、まあ、どうということはない。

 階段を一段一段と上り進めていく。風の勢いが強くなってきたような気がした。重量のある空気が鉛の臭いとなって、僕の鼻に住み着く。空気が生きているという感触は微塵もなかったが、いつの間にか、自分もこの鉛の一部となってしまったのかもしれないと僕は危惧した。杞憂であることは分かっていたが、それでも僕は怖くてたまらなかった。

 囁き声が屋上から聞こえてくる。成功を人質にして、僕を脅している奴の姿を、僕ははっきりと思い浮かべることができた。進んでいく一秒一秒がもどかしく感じられて、もうどうしようもなくなった。僕はこのまま恐怖に打ち勝てることもなく終わってしまうのか……。ネガティブな気持ちも、徐々に価値を持ち始めていき、やがてはポジティブに勝利することとなる。そんなことは絶対にあってはならない。でも、僕は考えてしまう。失敗したときの自分の姿を。たどり着けなかった恥さらしの自分を。

 ハッと我に返って、僕は屋上から差しこむ光の方に目を向けた。光はこんな僕でも、優しく行く道を照らしてくれた。期待されている、と僕は咄嗟に思った。僕はあの光に期待されているのだと。僕のこの憶測が真実のものであってほしい。僕は光の期待に応えたいのだ。光が僕を導いて、僕が光を導いて……。また、歩き出すのだ。

 階段の硬い感触がシューズにも伝わってくる。何もしていないのに、疲労がどっと押し寄せた。これは肉体的な疲れではない。精神的な疲れによるものだ。精神というのは厄介なもので、完璧な対処法というものがない。自分の心に灯をともして何とか努力してみるしかないのである。僕はそういった厄介なものと悪戦苦闘しながら、光の方へと階段を上っていった。


 屋上には三つのハンググライダーがあるだけだった。

 人数は僕を入れても十人ほどしかいなかった。これでも普段よりは多い方である。さっきも言った通り、グライダーは三機しかないから、搭乗出来るのは三人が限界である。後の人々は応援か、挑戦者を茶化しに来た野次馬たちだろう。これほどの勝負なのに、挑戦者は愚とされてしまうのが、この競技の惜しいところである。聞いた話では野次馬たちにとってAGグライダーとは、『馬鹿による馬鹿のための競技』なんだそうだ。

 当然、僕はそんなことは微塵も思っちゃいない。戦う人間を嘲笑する奴は、戦わない人間に他ならないのである。しかし、残念なことに社会という構造では、そういう戦わない人間というのが大勢いる。この競技がどんなに馬鹿な行為かは知らないが、チャレンジャーには、チャレンジャーのプライドってもんがある。

「悔しかったら、飛んでみろよ」

 僕の背後から不意に言葉が飛んだ。誰が放ったのかは分からない。だが、これだけはいえる。このフレーズとこの意地悪な口調は間違いなく僕に対する野次である。ついに、僕にも飛んできたのだ。不得意な教科の時間で、先生に応用問題の解き方を指名されたときのような感じである。少し動揺してしまったが、自分以外に自分を傷つける者がいないと思っている僕にはこんな野次など効かない。所詮は、ただのからかいなのだ。

 僕はコンクリートの地面を歩くと、ハンググライダーの前に立った。グライダーには体重移動によって操縦を行うものや、レーダーなどの空気力学的操縦装置を用いたものがあるが、この『AGグライダー』はどの分類にも該当しない特殊な機体だ。なんと、自分の意志によって動くのである。先ほど述べた『途中で気力を失って退場』というのはこの意志による力が原因となって起こることなのだ。もちろん、全てが意志によって行われるのではなく、風の動きも少しは影響されるのだけれど。難しいことは僕にも分からないが、兎に角この競技は科学の常識を超えた何かが備わっていると考えていい。グライダーの常識にも左右されないからライセンスも必要ない。これも先ほど言ったことに繋がるが、本当にこのAGグライダーは自分の腕と精神力、そして運が頼りになる競技なのだ。

 ついでだから、出発する前に確認もしておこう。友人に話した通り、僕はこれからAGグライダーに乗って、女神のいるゴールを目指す。ゴールの位置は、山脈(ここからでも最初の山は見える)を越えたところにある。要は山を越えるだけなのだが、これがとても難しいらしい。事実、帰還者は一人もいない。

 準備運動をしてから、機体を一周したり、細かくチェックしたりして傷みがないか確認(組み立ててくれた人を疑うわけではないが、大事なことなので)した。次に、ハーネス。ラインが身体に絡まないように気をつけながら僕は装着した。

 机に置かれたヘルメット、手袋、加えてニーパッドも付け、服装の準備も完了である。

 風は冷たいが、そこまで強さはない。三角を形作る白いチューブを握り、テイクオフに向けての最終的な心の準備を始める。前段の支度よりも、こちらの方が重要である。精神力というのは、どんなに出来た人間を持ってしても、やがては減っていくものである。だからスタートの時点で、しっかり心に言い聞かせておかなければならないのだ。

「悔しかったら、飛んでみろよ」

 さっきの野次が再び僕の後頭部に飛んできた。僕はチューブを強く握り、その声を気にしないようにして、再度心の準備を始めた。しかし、僕はまだまだ未熟なようである。無駄に高いプライドが、意志と心を繋いでいた糸を切断しようと降りてきたのだ。野次に屈しないように思ってきたのに、心配と緊張がそれを断ち切ろうとするのだ。もう僕の体は傀儡の存在になってしまった。野次を投げたアイツに操られる……。心まで、支配されてしまう……。チューブを握る僕の手が徐々に弱まっていった。

 その刹那、何かが僕の顔面に衝突した。僕は突然の出来事に思わず顔をすくめた。一体、何が起こったのだ。顔面に衝突した物の正体を必死で探す。身体はあまり動かさず、視線だけを動かして。

 『それ』はすぐに見つかった。僕の意識を開かせてくれたものはすぐ近くにあった。シューズの上だった。シューズの上に宝石の欠片のようなものが落ちていたのだった。

 僕はチューブを掴むことをやめ、宝石の乗った右足を手の届く位置まで上げた。勝手に乗ってきたその宝石を右手で拾い上げ、それからしげしげと眺める。まるで作曲家が譜面を書きあげた後に目でその譜面の並びを楽しむように、僕はうっとりした気持ちでその宝を見ていた。ジュエルは蒼色をしていた。蒼のそれを視界に入れ、それを美しいものだと脳が認識した時、僕の中で新しい世界が構築されていくのが感じられた。無聊だと感じていた臓器も、その宝石の輝きに魅了され、刺激を取り戻していった。僕は途端に嬉しくなった。

 一体、どこからこの宝石はやってきたのだろう。疑問が宙に浮かんでヘルメットの上で巣をつくった。一体、どこからやってきたのだろう。少し考えてから僕は、こう思った。恐らくこれは女神のところからやってきたのではないだろうか、と。宝石がグライダーのように飛翔するとは思えないが、学校に宝石があるわけはないし、やはりそこぐらいしか宝石が屋上にやってくるということは考えられない。疑問に思うことはまだまだあるが、とりあえずこの宝石のおかげで、僕の弱い気持ちが拭い去れたことは事実である。僕はチューブを握り直し、緑の見える景色に視線を据えた。もう、飛び立たなければならない。

 横から風圧を感じた。隣にいた挑戦者がテイクオフしたらしい。野次や宝石に気を取られていたため気付いていなかったが、とっくに準備を終えていたらしい。

 僕も行かなければならない。僕には守らなければならない人がいる。その人のところへ真っ直ぐ向かわなければならないのだ。分かっているだけでは足りない、実行に移してこその勇気たるや、である。

「行きます!」

 コンクリートの地面を一気に走る。走る、走る、止まらず走る。機体が歓びを感じたように浮き上がりを見せ、僕の足が頼りを失っていく。徐々に地面から放れていく。

「悔しかったら……」

 三回目に発した僕の言葉は、屋上の地でへたりこんだ。僕は飛び立つ寸前に、もう一人の自分に勝つことができたのだ。

 笑い声が、校舎に響き渡った。

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