がーるずぱーりない
〈がーるずぱーりない〉
「「カンパーイ!」」
音頭とともに、四つのコップが中空でチン、と軽快な音を響かせた。
ストーブの熱気が籠もる狭苦しい部屋、そこに押し込まれるようにこたつと、それを囲む女四人組。
台所側――あたしの右隣に座ったひとりが、コップになみなみと注がれた黄金色の液体を煽った。
「っはー! みんな今日も仕事お疲れさま!」
その女性――鈴香は心根から美味しそうに息を吐き出し、残る三人にそう呼びかけた。
「んーやっぱりこの一杯のために生きてるね」
さらに隣では唯が薄桃色のチューハイを傾けている。彼女は酒酔いに弱いので、既に顔が上気している。まずい、これは“泥酔→爆睡”の最強コンボの前兆だ。
呆れたあたしが、唯の向かいから手を伸ばして彼女の額をはたいた。
「ちょっと、真っ先に酔い潰れないでよ。この間もそうやって唯が布団占領してたでしょ」
「まあまあ京子ちゃん、そう怒らないで」
あたしの名前を呼びながら袖を引いてきたのは睦美。小柄で童顔な容姿、飲酒の真っ最中だというのに、彼女だけはとても成人に見えない。
「せっかく今夜は女子会なんだから」
「でもね睦美。後で困るのはあたしたちなんだよ? 冷たい床で雑魚寝することになるよ?」
「そ、それはちょっと嫌かな……」
迫真の容貌で諭そうとするあたしに睦美は苦笑い。この子は優しすぎるのだ。
女子会――、そう称してはいるものの、実態は二十五歳のOL四人が集まって安酒を酌み交わしドンチャン騒ぎするだけの、単なる宴会モドキだ。元々は鈴香が言い出したもので、あたしは年齢的に無理があると主張したのだが、「いやまだイケる! ちょっと痩せれば高校時代の制服も着られる! ……はず!」と押し切られたのだ。涙ちょちょぎれる。
……とにかく、女子会の定義はこの際どうでもいいとして。
無意味な自虐をやめて現実に意識を引き戻して向き直ると、
「まあ京子の言う通りだわな。ほれ、そろそろ自制しろ。アンタは二・三杯で潰れるんだから」
「あっ」
鈴香がそう言って唯の手からコップを奪取する。中身はまだ半分ほどが残っていた。
相変わらず、鈴香は状況判断が適切だ。だから四人の間でも頼れるリーダー的存在と扱われ、公私問わず仕切り上手なんだろう。
「うーあたぁしの酒ー」
微妙に呂律の回っていない調子で鈴香からコップを取り返そうとする唯を見ていると、つい笑みがこぼれてしまった。まるで腕白盛りの娘を見守る親のような気持ちである。
「まったくもう……、あたしたちは平和に呑もっか」
「そうだね」
同じくふたりの奮闘ぶりを眺めていた睦美に笑いかけ、あたしは二杯めの缶を開けた。
以降はしばらく他愛ない雑談が続いた。仕事の愚痴に始まり、服の話に共通の趣味であるゲームや漫画の話(体重に関しては誰もがあえて触れなかった)……いつも通りの会話。進化も退化もしない日常。
それにしても女子会の雰囲気なんて微塵も存在しない話題群である。色気のない生活を送っている自分たちに軽く自己嫌悪だ。
どっこい、今夜はそれだけで終わらなかった。
発端は、鈴香の放ったとあるひと言だった。
「ぶっちゃけさ、みんなは好きな人いるの?」
一瞬、その場の空気が凍った。
無理もない、積み重なる仕事に忙殺され、女だけで安酒を煽って気分を紛らすような普段の毎日からは、“好きな人”なんてどうにも縁遠い言葉だったから。
驚いて鈴香を見ると、彼女の瞳は真剣そのもの――虎視眈々と酒の肴になる話題を狙っている。その迫力に、あたしは思わずたじろいでしまう。
「あたしはねぇ、鈴香も京子も睦美も、みんなが大好きだよ」
「うん、あたしもだよ。愛してる。いや、そんなことは聞いてないけど」
泥酔して妙なことを口走る唯を適当にあしらいながら、鈴香が続ける。
「割と真面目な話、もうあたしたちも二十五になるわけじゃない? 色恋沙汰のひとつやふたつなくちゃ、潤い不足で干からびるよ! 心身ともに」
「うっ」
辛辣な台詞が胸に突き刺さる。
鈴香の主張はごもっともだ。他の同僚は有給休暇を使ってデートするだの合コンするだのと、人目も憚らず大声で騒ぎまくっている。女子力に満ち溢れている。
それに、学生時代の同級生の中には、もう結婚している者すらいるのだ。あたしたちが“行き遅れ”と世間から後ろ指差されるのも、そう遠くない将来なのではないか。恐ろしい未来だ。
「だから、たとえばさぁ……社内! そう、社内に気になる男性とかいないの?」
「しがない会社員の男になんて興味ないよ」
「身も蓋もないこと言うな!」
さすが、酔っぱらいの発言は自由である。
「やっぱり唯はアテにならん! 睦美、アンタはそういう男いないの?」
「え、あたし? んー、そうだなー……」
次の標的は睦美だ。意図せず安堵の息が漏れる。今のうちにあたしは――無駄な足掻きと知りながら――脳内で当たり障りのない返答を探っていた。
「わたしは、風早くんみたいな男の子が好きだな」
唐突に具体的な名前を出され、鈴香もあたしも目を剥いた。他三人を差し置いて睦美が恋愛――なんて、想像もつかなかったからだ。
が、考えてみれば、弊社に風早なんて名前の男性社員は勤務していない。
ちょうどこちらを向いた鈴香と視線が合う。互いに頷き合い、納得と拍子抜けに肩を落とした。
睦美は、いわゆるオタクなのだ。大方その風早くんとやらも漫画かアニメの登場人物なんだろう。確かに、名前だけなら聞いたことがあるような気もする。
「格好いいんだよー……」
あたしは、瞳を輝かせてどこか遠くを見つめる睦美に苦笑した。そうだ、睦美に限って現実の男性と恋愛関係になるなんて有り得なかった。
鈴香も――尋ねておいて失礼だが――最初から期待などしていなかったようだ。ちょいちょいと睦美の肩を叩き、悪戯っ子のような含み笑いをして話しかけている。
「ねえ睦美」
「ん? なに?」
「アンタ、土方歳三が好きなんじゃなかった? まさか浮気とか?」
途端、睦美が顔を真っ赤にして反論した。
「ち、違うよ! 浮気とかじゃなくって、両方とも愛してるんだよ!」
あたしはもう、話題についていけなかった。歴史上の人物を愛するってどういうことだ。
結局息巻いた睦美を宥め鎮圧させるのに五分ほどの時間を要した。恋する乙女とは、こうも厄介なものだったのか。
そして、遂に鈴香の獣の眼差しがあたしに据えられる。
「じゃあ次は真打ち、京子!」
「な、なんであたしが真打ちなのよ!」
「いや正直言うと、京子以外にはたいして期待してなかったし……」
「ああ……」
残りふたりを横目に見ると、唯は酔いと眠気で限界なのか、全身で舟を漕いでおり、睦美は両手を組み合わせて遠い世界に想いを馳せていた。……ごめん、納得した。
好みの男性――か。心当たりがないわけではない。
むしろあたしは健気にも、とある男性社員に密かな恋心を寄せていた。
だが、とても鈴香に教える気分にはなれない。というか、三人中ふたりが話を聞いてないのに自分語りをするなんて、いったいどんな羞恥プレイだ。
誤魔化すように笑ってみせる。
「あたしも唯たちと同じだよ。なにせ出勤地獄で出会いなんてないんだから」
「職場にだって男はいるじゃん。てか、本当にいないの? 怪しいなぁ」
やけにしつこく食らいつく鈴香。そんなに他人のコイバナが聞きたいのか。意外と女子力が高いんじゃなかろうか。
とはいえ、素直にすべて打ち明けるのもご免だ。
話題逸らしの意味も含めて、ちょっと反撃することにした。
「そういう鈴香はどうなのよ?」
「えっ」
要領のいい鈴香のことだ、どうせ適当なことを言ってはぐらかすのだろう。そして再び自分が餌食になるのだろう。
そんな八方塞がり極まりない推測をしていたのだが、
「いや、その、あ、あたしは……そ、そんなのいないし……!」
予想外に鈴香はすこぶる狼狽した。
その見事な慌てっぷりはあたしの嗜虐心を刺激し、意図せず背筋がゾクゾクっと……いや、なんでもない。あたしはつい火照った自分の頬を両手で叩いた。
嫌でも予想がつく、鈴香は会社に意中の男性がいるんだろう。
そして、仕事場の光景を想起すれば、その相手が誰なのかも、大体読めてしまう。
だけど……
「そっか、いないんだ。残念」
あたしは、鈴香に話を合わせることにした。
無理に詮索する必要なんてない。これを境に鈴香との仲に亀裂が生まれても困るから。
代わりに、自虐するように笑った。
「ダメダメだね、あたしたち」
「そ、そうだな! やっぱり恋愛とか向いてないわ!」
ふたりで、駄目だ駄目だと言い合う。
後は、酒の勢いで馬鹿笑いすることができた。会話の一部始終を、なかったことにできた。
なのに、あたしの胸中には正体不明の一抹の不安が、重く沈殿していた……
「ふぅ……」
女子会がひと段落ついたのは、あたしを除いた全員が夢の世界へと旅立ってからのことだった。なまじ酒に強いと、自然と後始末の担当になるのが辛いところだ。
酔い潰れてこたつに突っ伏した三人を、敷いた布団に一列に並べ、適当に寝かしつける。そこまでしてようやくあたしにも安眠が訪れるのだ。……毎度のことながら唯のイビキがうるさいのは、もう無視しよう。
壁際から順番に唯、鈴香、睦美、そしてあたしでこの部屋はすし詰め状態。この配列の理由は、危険だと判断した順にあたしから遠ざけたからだ。
「……よし」
三人の世話を終え、あたしは満足げに呟いて睦美の脇に寝転がった。暖房をつけてもまだ寒いので、毛布を引っかぶる。これも上戸の弊害だ。いくら酒を呑んでも、身体がなかなか暖まらない。
瞼を下ろすと、耳元で睦美の寝言が聞こえた。
「むにゃ……ツナくん……」
……あ、三股してる。
そのキャラはさすがにわかる。有名な某少年漫画の主人公だ。土方歳三とツナ……彼女の趣味がよくわからない。
その後もなぜか寝つけず、脳内で必死こいて土方とツナの共通点を探していると、照明の落とされた暗い部屋で、不意にまた声が響いた。今度は寝言なんかじゃない、はっきりとした、意志を持った声。
「ねえ、京子、起きてる……?」
鈴香だった。遠くの波のさざめきみたいな小さな声音も、しかし深夜の室内では一際強く響いて、あたしの鼓膜に届いた。
「起きてるけど、どうしたの?」
もう夜目に慣れているので枕元の時計を確かめると、時刻はおよそ午前三時半。まだ酔いが醒めたわけではないようだけど。
しかし、鈴香はあたしの問いを無視して呟いた。
「本当はね、あたし、京子の好きな人、知ってるんだ」
「――っ⁉」
刹那、後頭部を殴られたような衝撃を受ける。もちろん、頭上にトンカチを振りかぶっているような不審者はいない。精神的な衝撃だ。
心臓が跳ねる。閉じかけたまぶたが見開かれる。
鈴香には――鈴香にだけは、知られてはいけなかったのに――
背中に浮かんだ冷や汗は、今にも凍りつきそうだった。
「倉橋くんでしょ? 同僚の」
無言はすなわち肯定だ。そう思って言葉をかき集めるが、結局声にはならず、ほんの僅かな沈黙が訪れる。
再び口を開いたのは、やはり鈴香だった。声が震えていた。まるで笑っているようだった。
「簡単にわかるよ。職場でもよく話してるし、京子ってば倉橋くんの前だと態度が全然違うんだもん」
訥々と語られる台詞に、あたしは耳を塞いでしまいたくなった。
けれど、続けられた言葉は、確かにあたしの耳朶を震わせ、そして当惑させた。
「――お似合いだと思うよ」
「……え?」
思わず跳ね起き、鈴香の方を見遣る。
鈴香もまた上体を起こしていて、俯き気味になりながらも、前髪に隠れた双眸はしっかりとあたしを見据えていた。
その頬に伝っているのは、涙。
「違う! ……おかしいよ、それって」
気づけば叫んでいた。近隣への迷惑にも、唯や睦美を起こしてしまうことにすら、気を回している余裕がなかった。
だって……
「倉橋さんが好きなのは、鈴香でしょ?」
今度は手で口元を押さえ、小声で語りかける。鈴香はそれを聞いてぱっと面を上げた。
「どうして……」
「こっちだって、見てればすぐわかるよ」
鈴香の言う通り、あたしは倉橋さんが好きだ。けれど、鈴香だってそれは同じ。
だから、あたしは倉橋さんを諦めようと思っていたのに……
「う、嘘でしょ? そんなわけ――」
「嘘なわけないじゃん!」
また我知らず大声を上げてしまった。でも、もう止められない。
「泣きたいのは、こっちなんだから……」
あたしの瞳からも、ボロボロと涙がこぼれた。子供みたいに、みっともなく。
友達と同じ相手を好きになる……、それがこんなに辛くて苦しいことだったなんて、想像もできなかった。しかも鈴香みたいに、自分よりもよっぽど優れた友達が。
鈴香は倉橋さんととっくに両想いなんじゃないか……心の片隅では、そんなことも考えていた。ふたりは、嫉妬するくらいに距離が近い気がしたから。
――なのに、鈴香は変なことを言う。
「あたしと倉橋さんがお似合いなんて……どの口が言うのよ……」
涙に滲んだ視界で、どうにか鈴香を捉える。
彼女は呆然とあたしの泣き顔を見つめていた。そして、ゆっくりと呟く。
「じゃあ、違うの……? 京子と倉橋くんが好きあってるって……」
「違うよ。確かにあたしは倉橋さんが好き。だけど、彼は鈴香と両想いだと思ってたから……」
「それこそ違う! だって京子は――」
負けじと声を張り上げ、しかし鈴香は息を呑んだ。ようやく、あたしたちは気づいた。会話がどうにも噛み合わない理由。
「もしかして、ふたり揃ってお互いを誤解してたのかな……?」
「たぶん……」
そうだ。
あたしも鈴香も倉橋さんが好きで、実際はわからない倉橋さんの心がお互い相手に傾いていると勘違いして、遠慮して彼を譲り合っていた……
滑稽な話だ。でも――、
――じゃあ、どうすればいいんだろう。
互いの本心を知ったあたしたちは、譲り合うばかりじゃ堂々巡りだと、気づいてしまった。危惧していた事態が、眼前に迫る。脳髄を揺らす。
鈴香との関係の亀裂。
倉橋さんへの好意が胸にある以上、あたしたちの間には暗く黒いわだかまりが残る。どっちが倉橋さんを諦めようと、きっと今のままではいられない。
ずっと、変わらないでいたかったのに……
ずっと、四人で女子会紛いのことをして、馬鹿騒ぎしていたかったのに……
同一の想い人への好意が、ふたりの関係を壊すんだ。
縋るように、鈴香を見つめる。
そしてあたしは、驚愕した。彼女のその面持ちに。言葉も思考も失った。
「じゃあ、諦めよっか」
その口調は、心が切羽詰まった現状とはやけに不似合いな穏やかさを携えていて。
「――え?」
鈴香の真意が理解できず、あたしはただ疑問符を浮かべるばかりだった。
既に涙を拭っていた鈴香は、まだ瞳に後悔の色を残していて……、けれど開花を直前に控えた蕾のような笑顔を浮かべていた。
こんな状況でも微笑むことができるのは、鈴香の強さだと、漠然と感じる。
屈託のない笑顔のまま、鈴香は語った。
「京子と倉橋くんを天秤にかけたら、たぶんあたしの中じゃ、京子の方が重かったんだ。京子と唯と睦美とあたし、四人で遊ぶこんな毎日が、いちばん大事だったんだ、きっと」
そして気づいた。後悔は、決断した後に生まれるものだ。
つまり鈴香は、もう、決めたんだ。
「だから、京子がそれでいいなら……後腐れないように、ふたりとも倉橋くんのことなんて忘れよう」
相好を崩した鈴香の容貌に、その涙の跡に、あたしの秤も動かされた。
「うん……」
深く考えてみれば本当に、鈴香たちとの友情は、倉橋さんとの関係よりも、よっぽど大切なものだ。
それは刹那的な意志なのかもしれない。将来のことなんて想定できていない、間違った選択肢なのかもしれない。
けれど、すべて承知で、あたしは頷いた。
「そうだ……。そうだよね。全部忘れよう。あたしも、鈴香たちが大切だから」
「でしょ? やっぱり女の理解者は女だけだよ」
鈴香がふざけるように、白い歯をこぼして笑む。
あたしはとっくに酔いが醒めていたけれど、自然に笑うことができた。不安はもう、胸になかった。
「みんな、大好き……」
不意に、夢見心地な寝顔の睦美が呟いた。
風早くんたちのことを言っているのか、それとも――
――だったら、嬉しいな。
★
「ヤバい! 遅刻するって!」
歯ブラシを口にくわえて洗面台の鏡で寝癖を整えながら、鈴香が嘆いた。
その隣では、あたしも同様にすこぶる焦りながら、目の下に浮いたゾンビのようなクマを、ファンデーションで必死に迷彩塗装している。
「まったく、夜更かしなんてするからだよ、はっはっは」
「真っ先に酔い潰れてあたしたちに介抱されてたアンタに言われると超腹立つな!」
朝の我が家は修羅場だった。
原因はもちろん、あたしと鈴香の寝坊。
至極当然だ。昨晩、無事に鈴香と和解したときには既に明け方近かった。しかも鈴香は体内にアルコールの影響もあっただろうから、現在午前七時半に起きられたことだけでも奇跡だ。
とはいえ、そんな言いわけが会社に通用するはずもなく……
「これで遅刻したら連帯責任だ! 今夜は全員で残業コースだ!」
「ひどいっ!」
悲壮感と狂気が入り混じった呪詛の声に、唯が悲鳴を上げる。もう遅い、あたしたちの起床を律儀に待った時点で同罪なのだから。
「京子ちゃん、なにか適当に朝ご飯食べていく?」
「いや、もうそんな時間もない!」
こんな阿鼻叫喚の地獄の中でも優しい容貌と態度を崩さない睦美だが、彼女は三股をする(二次元相手だが)ような悪女――いや、魔女なのだ。これだから人間は、外見や表面上の性格だけではわからない。
女子会のときにも負けない、てんやわんやの大騒ぎ――そろそろ本気でご近所からの苦情を覚悟した方がいいかもしれない。きっと人身御供となるのは家主であるあたしだろうし。
それにしても――。あたしは超特急で着替えを済ます鈴香を横目に眺める。
昨晩の二人の会話はやけに現実離れしていて、こうして賑やかしくも平凡な日常に身を委ねていると、本当に夢だったんじゃないか、という疑念さえ湧いてくる。鈴香はあたしの密かな好意に気づいていなくて、知らぬ間に倉橋さんとの仲を進展させていくんじゃないか……
――それならそれでいいさ。
と、今のあたしは思えた。
たとえ昨晩見た彼女の涙が夢幻だったとしても、もうあたしの中に倉橋さんへの未練はない。
もっと大事な存在を見つけた――いや、大事な存在がすぐ近くにあったのだと、気づくことができたから。
鈴香と交わした約束が、もし現実にあったことだとしたら、きっと彼女もあたしと同じように考えているのかもしれない。
「よし、じゃあいくか!」
玄関に出て、爪先にパンプスをひっかけた鈴香が出発を促す。口にはちゃっかり食パンをくわえていた。
「もー、走るのめんどいー」
「まあまあ、頑張ろっ」
唯と睦美が続々とそれに倣う。陽光が差し込む家の扉をすり抜けていく。
彼女たちの背中を見て、あたしは空想する。
――こんな毎日が、たぶん永遠に続いていくんだ。
適度に楽しく騒がしく、ちょっと嫌なこともあるような、世界中に有り触れたしがないOLの日常。いいことも悪いことも、どうせそれなりにしか訪れない、代わり映えのない生活。
けれど、それを選択したのは、自分自身だ。
あたしは鈴香と一緒に、新しい出会いや関係を捨てて、みんなと平坦な道程を歩いていくことを決意したのだ。唯と睦美はどうしたいのか、それはわからない。けれど、彼女たちが変化を望まない限りは、この四人を結ぶ極太の縄は、どうしたって千切れないだろう。
……大袈裟な表現をしているけど、実際はたいしたことじゃない。
でも、だからこそ平凡な女のあたしたちには丁度いい、身の丈にあった決意だったはずだ。
この起伏のない緩やかな進路を、楽しくてつまらない毎日を選んだことは。
「おーい京子、置いてくぞー」
庭先から三人が手を振っている。
太陽を背負った眩しい笑顔が三つ、並んでいる。
つられてあたしも、口元が綻びた。
「待ってよ、今いくから!」
適度に擦り減ってくたびれた靴を履く。今年で三年目のつきあいのバッグを肩に提げる。
いつも通りの一歩を踏み出す。
そしてあたしたちは、会社に向かった。
読んでいただきありがとうございます!
私は、女子の基準は年齢ではなく容姿と性格だと思っております。
少なくとも明け透けと下ネタを語る女は何歳であれ女子とは認めん! 女の子は下品な話を耳にしたら、すべからく赤面するべき! ビバ・恥じらい!
――なんて幻想は、とっくのとうにメディアの手によってぶち壊されました。はい。