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BLACK NOTE  作者: 綾瀬 綾
第二章
8/15



 雨と共に現れた奇妙な旅の二人連れを、草原の真ん中の小さな村は、いかにも胡散臭そうに出迎えた。

 雨宿りのために一晩だけ、心付けを差し出しつつ交渉してなんとか村長らしき人物から小屋を借りることが出来たが、歓迎されていないことは村全体の雰囲気から感じ取れる。

 勿論夕暮れ過ぎの雨の中を出歩く者が無いのは当たり前だが、粗末な木造の家屋から扉や窓を小さく開けて息を殺すようにしながらこちらを窺っている様子は、丸わかりなだけ非常に居心地が悪い。

「すまんね軍人さん。うちの連中はよそ者が嫌いなんだよ」

 小屋への案内をする途中村長にまでそうはっきりと言われてしまっては、二人は顔を見合わせるしかなかった。

「……というよりも、軍人嫌いの方じゃないですか?」

 その村長が去ると、指先に燈した火を床に転がっていた古いランプに入れながらクライヴが肩を竦める。

「か? やっぱり。おかしいな、旅汚れたローブで訪ねるよりかはよっぽど招き入れやすいと思うんだが」

 イザークが応酬するとクライヴは誰のことだとでも言うように首を傾げて見せた。

 確かに、軍人の中にはこういう村に来ると権力を傘に着て粗暴に振舞う者もおり、それを経験している村人なら軍服を見ると嫌な顔をしても無理は無い。

 しかし、この盗賊騒ぎの多い時勢となると、全く素性のわからない旅人よりは身分の知れている(しかも万が一来襲されたとき守ってくれる可能性がある)軍人の方が安心して迎えられるものではないだろうか。

「まぁ、何を期待してもしょうがない。屋根があるだけ有難いだろ」

 イザークはやれやれと床板に腰を下ろす。

 あてがわれた石造りの小屋の中はがらんとしていてほとんど人が生活していたような形跡は無い。元々あった古小屋を倉庫用に造り替えでもしたのか、石壁は所々朽ちていたり板が貼り付けられたりと補修の様子が窺えた。

 濡れた外套を外し広げて乾かそうとしていると、何処からか入り込んだ隙間風に橙色の灯がちらりと揺らめく。

「強くなってきましたねえ」

 荷物から焼き菓子を取り出し、蜂蜜をたっぷりと絡めて火で軽く炙りながらクライヴが呟いた。

「これは、野宿どころじゃなかったな。運が良かったよ」

 濃厚すぎる甘ったるい香りを漂わせた菓子のことは見なかったことにして、イザークは肩を竦める。窓がないので実際の様子は見えないが、確かに雨足は強まっているようだ。雨粒が木屋根を叩く音が先程までより耳障りになっていた。

 明日までには晴れるといいが、こんなところで足止めを食うのは御免だ。

「早く帰りたいですか?」

 ふとクライヴが焼き菓子を齧りながらイザークに尋ねた。

「ん? ああ……いや、いっそ帰りたくないかもな。今頃ユウ……副隊長が俺の机に書類を山のように積んでる最中に違いない」

 冗談めかして言うイザークにクライヴはご愁傷様、他人事らしくけらけら笑う。

「まぁ、騎兵隊といっても平時ではそんなものか」

「普段はそうでもないがな、今月と来月は別だ」

「ああ、神皇祭?」

 思い出したようにクライヴが言うと、イザークは面倒そうに頷く。

 神皇祭とは来るカナン二十七日に催されるグライアス神皇国の建国を祝う祭りのことだ。

 本当は『百獣を統べる獣神ソルレオンがグライアスの大地に遣わした統一皇マルドークの偉業を讃える祭事』という長い長い名前があるのだが、建国当時は皇王を名乗っていた君主が国教である獣神教の教皇も兼ねるようになり、祭事をも取り仕切るようになってからそのように呼ばれている。

 神皇国最大の祭りであり、例年信心深い獣神教徒や外国からの観光客で皇都が溢れそうになるのだが、神皇本人もその大勢の人前に姿を現し祭りに参加するので毎年警備の苦労が絶えない。

 イザークの属する『白鬣』自体は警備に参加はしないが、その分雑務が大量に回ってくるのだった。

 それだけでも十分イザークとしては頭の痛い話なのだが、ついでに胃の痛い話まである。

「まだ大尉とはいえ神将家の次男ともなると当日は大変でしょう」

 手酌した酒を煽るとクライヴは同情するような面白がるような視線を向けてきた。イザークは溜息を吐いて応える。そう、政治だ。

 軍にいると普段は本人がそう望まない限りあまり自覚することのない地位だが、こういった祝いの席になると嫌でも意識せざるを得なくなるというのがイザークの置かれた立場。すでに顔も知らない貴族からの招待状も多く寄せられている。

「まぁ必要なことだからな。人心の掌握にも謀略の匂いを嗅ぎ取るにも、そういう場所に出ないと話は始まらない」

 生真面目な顔をして自分を納得させるように頷いてみせるイザークだったが、しかしクライヴは肩を竦めると意地悪く笑って言った。

「確かに。襟を詰めて立ちっぱなしで老人のどうでもいい自慢話や若者の目が点になりそうな無謀な話に耳を傾けるのはとっても大切ですね。えらいなあイザーク君。僕じゃとても素面ではいられません」

 飲みます?と差し出されたグラスをイザークは苦い顔で受け取った。強烈な香りが鼻腔を刺す。

「美味いのか?」

「あれ、飲んだこと無いんですか?」

 意外そうに首を傾げるクライヴにイザークは頷く。

「兄上も飲まないからな。家の貯蔵室は専ら来客用だ」

「それは勿体無いな。まぁそれはそんなに酒精度の高いものではありませんし、味は君の家が保障していますよ」

 と、クライヴは勧めるものの、正直匂いだけで目が眩みそうな気分になる。しかしちょっとした好奇心に駆られて杯を傾け、一口赤い液体を喉に通してみた。

「どうですか故郷のお味は」

「…………」

「イザーク君?」

 口をむっつり閉じたまま一言も喋らないイザーク。怪訝な顔をしてクライヴが呼びかけると、ようやく口を開きかけた途端、げほげほと盛大に咽込む。口から零れ落ちた酒を拭いながらイザークは眉を顰めて言った。

「苦くて渋くて酸っぱくて……不味い」

「また率直な」

「お前これ腐ってるぞ?」

「腐ってませんよ失礼だな!」

 やれやれ、とクライヴは肩を落としてイザークから杯を取り戻し、残りを一気に飲み干してしまう。しかし相当強いなのか、白い肌が紅潮する気配はまるで見られない。

 対してイザークはというと、口直しに甘すぎる焼き菓子を頬張りながら理解できないという顔をしている。心なしか既に呼吸が荒い。

「舌が子供なんですねイザーク君」

「お前の、味覚がおかしいんだ」

 クライヴが小馬鹿にしたように笑うがずきずきと頭が痛み出してそれ以上反論する元気は無く、今日はもう寝てしまおうと体を横にしかけたその時だった。

 突然外から鳴り止まぬ雨音を掻き消すような馬の嘶きがこだまし、イザークは反射的に起き上がる。

「……なん、だ?」

「さぁ?」

 こんな遅く、土砂降りの雨の中に響く馬の悲鳴に良い予感などするはずがない。

 続いて誰かが泥水を跳ね上げながら小屋に駆け寄ってくるような慌しい足音。乱暴に扉が叩かれ、イザークは警戒しつつ、すっくと立ち上がった。が。

「……い、イザーク君?」

 そのイザークの顔を覗き込んだクライヴが慌ててそれを引き止める。

「何だ?」

「……顔、真っ赤ですよ」

「ん?」

 言われてイザークは自分の頬に触れてみた。熱い。ついでに先程から鼓動が異様に早く、体がだるい。

「もしかしなくても、酔ってますね」

 クライヴが呆れたようにその手を引くと、イザークは逆らわずにあっさりと床に尻を着いた。代わりにクライヴが大儀そうに立ち上がる。

「一つ貸しにしておきましょう」

「……ここ数日の荷物持ちは、帳消しにしてやる」

 覚えてたか、と舌打ちし眼鏡を掛け直すクライヴ。

 そんなやり取りを交わしている間に、鍵がかかっていないことにようやく気付いたのかいつまで経っても応答が無いことに痺れを切らしたのか、力強くノブが回り、木製の扉が乱暴に開け放たれた。

 室内に飛び込んできたのは狐人の青年。赤茶色の耳から髪までをぐっしょりと濡らし、寒さのためか青白く血の気を引かせたその青年は激しく肩を上下させながら小屋に入るなり、まるで二人のことが目に入っていないかのようにきょろきょろと中を見回したかと思うと、やがて失望したように床に手をついてしまった。

「あの……?」

 その様子にしばし呆気に取られつつもクライヴが声をかけようとすると、雨と暗闇の向こうからまた別の者が姿を現す。

「済みません、そちらに狐の男が逃げては来ませんでしたか!」

 今度は物腰丁寧そうな狩猟帽を目深に被った男だった。狐の青年はその声を聞くなりびくりと身を震わせる。

 男はクライヴの足元に蹲っているその青年を見咎めると呆れたような声を上げた。

「そんなところに! 申し訳ございません!」

 狩猟帽の男は恐縮した様子で言うとこちらに駆け寄り、俄かに逃げる様子を見せた青年の肩を掴む。

「やめ……助け……!」

 青年は掠れた声を上げて抵抗するが、男が何事か耳打ちするとびくりと身を竦ませ突然押し黙ってしまった。

「何があったんですか?」

 クライヴは肩を竦め、青年に肩を貸し突然乱入しておきながら説明もなしにそそくさとその場を去ろうとしていた狩猟帽の男を呼び止める。男は目を合わせぬまま帽子を被り直し極丁寧な調子で答えた。

「いや、わたくしどもはこの村で屋根を借りていた酒の行商の者なのですが、明日の出発に備えて荷を積んでいた所、この者が積荷を落としてしまいまして。高級な酒を駄目にしてしまったものだからうろたえて逃げ出してしまったのを私が追いかけてきたというわけです。どうも、お騒がせを致しました」

 小屋の床に座り込んでいたイザークはそれを聞いて俄かに顔を上げた。するとクライヴはその視線に気付いたのか含みのある笑みを返し、男に言う。

「おや、お酒ですか。いいですねえ。銘柄次第では多少傷物でも僕が買い取りますよ」

 降って沸いたようなクライヴの申し出に狩猟帽の男は喜色を浮かべるのかと思いきや、小さく愛想笑いをしてみせるとまた頭を下げた。

「有難いお言葉ですが、傷物を売ったとなると店の看板に傷が付いてしまいます。まして品物がクーデルリアワインでありますので、酒蔵にまで泥を塗るようなことになっては申し訳が立ちません」

 尤もらしい事情を添えて丁重に断りを入れる男。それに比例してクライヴのにやにやとした笑みもどんどん深くなっていく。

 痛む頭を軽く振ってイザークはふらりと立ち上がった。二人の様子がおかしいことにようやく気付いた男は怪訝そうに沈黙しつつ、つと帽子をつばを引く。

「イザーク君大丈夫ですか?」

「ああ」

 足元の頼りないイザークを見てクライヴが肩を竦めると、イザークは気合を入れるようにぱしん、と顔を叩いてみせ、それから何気ない調子で剣の柄を弄りつつ男に向かっていきなり口を開いた。

「何を売ってる商人らって?」

「……? ですから、酒を……」

「俺は酒にはあまり詳しくないが出身がクーデルリアでな。クーデルリアのワインにはちょっと知識がある。まぁ酒の商人なら常識以前の知識らと思うが」

「呂律回ってないですよ」

 一応突っ込みを入れるクライヴに咳払いをしつつ、何が言いたいのかわからない様子で首を傾げる狩猟帽の男にイザークは告げる。

「他の地方の他の酒はともかく、クーデルリアの、しかも見習いが駄目にして慄くような名品ともなると、絶対にこんな時期に輸送することは有り得ない。可能性があるとしたら、それは盗品だろう」

 皇領の夏は暑い。湿度は年間を通して劇的に変化することはないが、太陽を司る獅子が宿るというだけあってグライアス平原に差す日差しは大陸北端の地とは思えぬ程に強い。そんな時期に高温を嫌うワインの出荷など、他国にまでその味と品質を誇るクーデルリアワインにはまさに論外というべきことだった。

 イザーク、そしてクライヴは、実は現れたその瞬間から男を疑っていた。それは男が盗賊であるかどうか、では無い。

「……お前、人間だな?」

 男は答えず、土砂降りの雨に紛れて小さく口の端を歪ませた。

 その瞬間、イザークが素早く剣を抜き振り抜く。甲高い音を立てて弾き返され大地に突き刺さったのは鉄製の矢。雨の向こうで怒声が上がった。

「おい緑眼猿! 何が上手く誤魔化すだ! 下手糞な神皇国語で喋くさりやがって!」

 泥を跳ねさせながら突如として現れたのは武装した十数人の集団。先頭に立っていたのはなんと先ほどの村長らしき男だった。

「低脳な獣人くらい舌で転がせると思ったのだがな」

 狩猟帽の男は怒る村長など相手にもしない様子で肩を竦め帽子のつばを軽く押し上げた。

 月の見えない雨の夜に鈍く、緑色の瞳が光る。男はそう、かつて猿人と呼ばれた存在。人間だった。

「そんな馬鹿丁寧な言葉遣い、今時将軍でも使いませんよ」

 クライヴが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 男は成る程、と愛想の良い笑みを浮かべくるりと身を翻し、どこへ隠し持っていたのか肩を貸していた狐の青年の首元に短剣を突きつける。

「多勢に無勢、そして人質。如何に神皇国の騎士が勇猛であろうとその上酒精が回っているとあっては、勝ち目がないことくらいわかるであろう?」

 男の言葉にイザークがちらりとクライヴを睨む。クライヴは人のせいにするなと肩を竦めた。

 その間にも村人を装った獣人の武装集団は小屋をぐるりと取り囲むように配置して弩を構えている。その照準は獣人共通の敵であるはずの狩猟帽の男、ではない。

 男はくっくと嫌な性質の笑声をあげる。

「金の前での節操の無さは人間も獣人も変らぬものだ」

「……奴隷商人か」

 人間が緑の瞳を隠しわざわざ危険をおかして獣人国に潜入し、獣人と結託して行う稼業といったらそれ以外に考えられない。鉄弓を構える彼らは破格の賃金を支払って雇った祖国への忠誠薄い盗賊あがりの者たちだろう。しかし国境近いカムイ砂漠などではたびたびこういった輩が現れるということは聞いていたが、それを皇領で、わざわざ偽装の村を作ってまで行っているとは正直考えがたい話だった。

「今、狐人が高く売れるのだよ」

 ちらりと自らが短剣を喉へ当てた青年へ向ける男の緑瞳の中に浮かぶ、それ引くことへの僅かな躊躇いのようなものをイザークは誤解しなかった。

 単純に、高額で取引できる商品を一つ失うことの惜しさ。男の中に感じ取れるのはそれだけだ。

 人質を取られているこの状況で込み上げてくる激しい怒りを抑える必要が無かったのは、同じく緑の瞳を持つ魔術士が隣にいたおかげだった。

「っ!?」

 土砂降りの雨が突如激しすぎる嵐に変化したかのような凄まじい突風が吹きつけ、男と武装集団は立つこともままならず身を屈める。クライヴが何の予備動作も感じさせず魔術を発動したのだ。

「こういう輩のせいで不便な思いをしていると思うと、無性に腹が立ちますねえ」

 それとほぼ同時にイザークは身を低め、足払いを掛けて狼狽する男の体勢を崩しその手から青年を救出。抜き身の剣を切り上げ男の手にあった短剣を弾き飛ばした。

 しかし狩猟帽の男も種族は人間ながら体捌きは中々のもので、獲物を弾かれた瞬間素早く後転し距離を取り、叫ぶ。

「何をしている! 射て!」

 その言葉と同時に体勢を立て直した獣人の武装集団が次々と鉄の矢を放った。宵闇の中でも獣の目を持つ彼らの射撃は正確。鈍色の流星がイザーク達に襲い掛かる。クライヴが短く言葉を紡いで手を翳した。その途端、薄蒼い光の壁が出現。それに阻まれた流星群はぢっという焼けるような音をたてて全て泥の大地に転がった。

「障壁か」

「便利でしょう?」

 感心するイザークにクライヴは暢気に肩を竦めてみせる。

「妙な真似を!」

 その隙を見て斬り込んできたのはいつの間に剣を手にしたのか、狩猟帽の男だった。激昂しながら頭上から剣を振りかぶり、クライヴに狙いを定めて振り下ろす。

 距離が短くなれば出番はイザークのものだ。火花を散らせてその剣撃を防いでみせるとがら空きの横腹に強烈な回し蹴りを叩き込み、一撃の下に男を叩き伏せる。その様子に酒の影響は感じられない。

 だがそれを見せ付けられて尚、集団は諦めようとはしないばかりか一斉に剣や斧を手にこちらへ殺到してくる。その目は一様に欲に取り憑かれてぎらついているようだった。

「この間の盗賊に今度は奴隷商。軍はなにをやってるんですか?」

「この地方は俺の隊の管轄じゃないから、知らん!」

 熊人の恵まれた体躯から繰り出される重たい一撃。受け止めた刃は刃こぼれしかけながら振動し皮手袋を通過して手のひらに痺れを伝える。しかし膂力の点では一角人とて決して引けを取りはしない。

「はぁっ!」

 丹田に力を込めて気合とともに熊人の斧を弾き返すと、踵を返して半身を捻り割り込んできた別の賊からの攻撃を紙一重で回避。空振りしたその腕を引いてぬかるんだ地面に引き倒すと、突然足元に現れた仲間の身体に足を引っ掛けて次々後続が倒れてゆく。

 しかし、それでも敵の数はなかなか減らない。まだこの間のドナムの盗賊の倍近くは武器を構えていた。どころか、暗闇の向こうで鳴る呼子の音から察するにまだ援軍はあるらしい。

「全く、僕達二人だけで相手にしててもきりがないですね」

 イザークの取りこぼした賊を魔術で軽くあしらいながら顔に零れ落ちる止む様子の無い雨を鬱陶しそうに拭いつつクライヴがため息を吐く。

「大分手を抜いてるように見えるけど?」

「敵の動きを見つつ両手で準備するのってなかなか面倒なんですよ?」

「そんなもんか。しかし降参してくれる気が無い以上戦うしかないだろ」

 商人に攫われた獣人が彼一人とは考えにくい。賊の討伐は後でこの地域の管轄に任せることはできるとしても、現在捕らえられているはずの人々のことまで後回しにするわけにはいかなかった。

 すると、それまでクライヴの陰に隠れて事態の推移をただ呆気にとられるように見守っていた狐人の青年が、二人の余裕の態度に勇気付けられたのかようやくもごもごと口を開く。

「あ、の……! 向こうに停まってる馬車に、まだ人が……!」

「おや、喋れたんですね」

「全員か?」

「た、多分……俺、みんなに逃がしてもらって、そこに俺の姉さんも……お、お願いします! 姉さん達を助けてください!」

 青年は泥濘の地面に膝と手を付き、必死に懇願する。イザークは力強く頷いた。

「クライヴ!」

「はいはい」

 イザークの合図でクライヴはさっと印を切り手を翳す。片手で襲い来る賊を撃退しながらもう片手に別の魔術を用意していたのだ。内容は知らないが戦況を変える何かだと踏んで声をかけたが、それが絶妙に決まった。

 夜闇と雨雲に包まれて暗澹としていた草原の集落に、突然太陽が落ちてきたような強烈な閃光が迸る。目を血走らせて剣を振り上げていた賊たちは皆その光をまともに喰らい、視力を無くした。その隙に三人は広場へと一目散に逃走する。

「痛~っ! 片目やられた!」

「あーあ、ちゃんと目を庇わないから」

「先に言えよ!」

「知ってるのかと思って。まぁまぁそのうち治りますよ運が悪くなければ」

「運任せかよ!?」

「あ、あれです!」

 目蓋を押さえて転げまわる賊の中を泥を散らせて走ると、青年が馬車を指差した。外見は三頭立ての商用の馬車そのものだが、中には人が詰まっているというわけだ。

 よく見るとその周囲にも何台か使われていない馬車が停められていた。どうやら奴隷商人達はこの街道を通る荷馬車を襲っては商品として獣人を捕らえ、その馬車を輸送に転用していたらしい。道理で朝から街道の行き来が無いわけだ。カウダルペスやその先の街ではすでに人攫いの噂が流れていたのだろう。

 ざっと付近の小屋を見回ってみたが他に人の気配は無く、捕まった人も援軍に待機していた賊も今出ているので全てのようだった。馬車の荷台は分厚い板で補修され鍵を掛けられていたが、こちらはあとでゆっくり壊せばいい。とにかく今は逃げるのが先決だ。

「よし、乗れ!」

 イザークは二人に顎をしゃくると御者席に乗り込む、が、クライヴが何故かえっと驚いたような声を上げた。

「ま、まさか、これで逃げるんですか?」

「走って逃げると思ったのか?」

「いやそういうわけでは……」

 要領を得ないクライヴの物言いにイザークは首を傾げる。しかしクライヴが何か言おうと再び口を開きかけた瞬間、突然ビシィと革鞭のしなる鋭い音が響きそれを遮った。

 驚いて馬車を振り返ると、なんと繋がれた馬達が一斉に蹄を掻き、今まさに馬車が発進せんとしている。

「なっ……!」

 御者台にちらりと見えたのは狩猟帽の、人間の奴隷商人。あの乱戦を密かに抜け出し、攫った獣人を独り占めにして逃走しようとしていたのだろう。

 目論見が成功した奴隷商人はちらりと間抜けな軍人と魔術士を振り返り、勝ち誇った顔で彼の母国語らしい言葉で捨て台詞を吐いている。

「ま、待て!」

 いち早く反応したのは狐人の青年だった。走り出した馬車の荷台に足を掛け取り付くことに成功するが、しかし、武装もしていない彼が追いついたところで、奴隷商人とっては商品が一つ増えただけにすぎない。

 二人もすぐに追いすがったものの、クライヴは元より速度の乗った三頭立ての馬車ではイザークの俊足をもってしても追いつけるものではなかった。

「くっそ!」

 油断しすぎた……!

 明らかな失態と失望にイザークは髪を掻き毟る。しかしそれに追いついたクライヴは息を切らせつつ、宥めるように言った。

「だ、大丈夫です、イザーク君……貸しにしておきますから」

 直後、依然として激しい雨を振り散らしていた雨雲が白く閃き、一条の稲妻が轟音とともに大地と空を繋ぐ。一拍遅れて奴隷商人の悲鳴がこだました。

 落雷に驚いて馬車は急停車。荷台にしがみついていた狐の青年は反動で振り落とされたが、どうやら無事のようだ。イザークは馬車の元へ走る。

「お前……無茶するなあ……」

 焼け焦げの死体を覚悟し覗いた御者台に狩猟帽の男の姿は無かった。座席部分は落雷の撃で商人が座っていたと思われる部分のみを残して吹き飛んでおり、男は手綱と鞭を持った形のまま失神して地面にずり落ちていた。

「人間がこんなのばかりなせいで、僕は非常に迷惑しているんですよ?これぐらいしてやって罰は当たりません」

 クライヴはちょっと眼鏡の縁を触ってみせながら悪びれる様子も無く微笑を浮かべる。

「姉さん、姉さん!」

 起き上がった青年は周囲を見渡しどうやら救出が成功したことを悟ると、閉ざされた荷台の扉を叩いて姉の安否を確認する。

 中で獣人が暴れても問題の無いように造られた丈夫で分厚い扉の前では声が届いてるのか定かで無かったが、イザークが剣を一振りして錠前を壊してやると、内側から扉が開け放たれた。

「た、助かったのか……!?」

 まず出てきたのは二角人の中年商人だった。彼は狐の青年を見るや信じられないといった面持ちで低く呟く。

「軍人さんが助けてくれたんです! 姉さんは!?」

「ああ、さっきの揺れでちょっと頭を打ったが、無事だよ」

 その言葉を聞いて青年は身のこなし素早く荷台へ乗り込むと、念願の姉との再会を果たした。

「あそこに集められていたのはこれで全員ですか?」

 イザークが荷台の中を覗きながら尋ねると商人は頷く。中に居たのは思ったより少なく、六人程だった。あの奴隷商人が言っていた通り、やはり狐人が多い。

「ああ。広場の向こうでドンパチやってる間にあの緑眼の野郎がやってきて、やたら急いでこの馬車に詰め込んでいやがったからな。長年商人をやっとるが、まさか自分が商品になる日が来るとは思わんかったよ」

 ありがとよ軍人さん、と深々頭を下げる商人。しかし解決したような空気が流れたのも束の間、ちらりと元来た方に目を遣るとようやく視界が復活したらしい賊達が怒声を上げて追いかけてきていた。

「もうしばらくお待ちを。このままこの馬車で安全な街までお送りします」

「ああ、この馬車に繋がれてるのはうちの馬なんだ。売国の賊なんぞ振り切っちまってくれ!」

 頼もしい商人の言葉に敬礼しつつ、再び荷台の扉を閉ざす。すぐに御者席に回り込もうとするイザークだったが、何をやっているのか、クライヴはいまだ大きな馬車をぼんやり眺めて突っ立っている。

「おい、何やってんだ?」

「どうしても乗らなきゃ駄目ですか? これ」

 こいつは今更何を言い出すんだとばかりにイザークは怪訝な顔をしてみせる。しかしクライヴもクライヴで何やら浮かない顔をしていた。

「それじゃあ僕はここでお別れです。イザークくんお気を付け……」

「無茶言うなよこの状況で」

 ああもう面倒くさい。この切迫した状況でまたも訳のわからんことを言って二の足を踏むクライヴの襟首を掴むとイザークは強引に御者席に放り込んだ。

「しっかり掴まってろよ!」

 イザークの振るう鞭を音を合図に馬車が再び走り出す。元々舗装路に乗せられていた車輪は三頭の馬の急発進に呼応して悪天候も物ともせずに快調に回った。

 やがて速度のついた馬車は追いすがる賊を尻目にぐんぐんと集落から離れていく。

「……む、り」

 一方がくんがくんと揺れる御者台では、魔術士がぼそりと呪わしげなぼやきをこぼしていた。

「何が?」

「あの、イザーク君、吐いても、いいですか?」

「……はぁっ!?」

 驚いて隣を見るとただでさえ白いクライヴの顔色がまさしく蒼白に変色していた。目尻に雨粒でないものを浮かべ、すでに嗚咽している。

「この、揺れ、無理です。この間の、ように、ゆっくり動く分にはまだ、我慢できたけど、これは無理」

「まだ走り出して五分と経ってないんだが!?」

「僕、本っ当に、ものすごく乗り物に弱いんですよ……だからこのくそ暑い中も、徒歩で行くって、言ったのに……」

「知るかそんなこと! ってお前吐くなよ!? ここで吐くなよ!?」

 その後雨の夜になると統一時代の騎士の悲痛な叫びが聞こえてくるという不気味な噂がグライアス平原の村々に流れたというが、真相は定かではない。





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