三
「で、何でこうなるわけだ?」
グライアス平原のど真ん中。夏の眩しい陽光に焼かれた皇都へと伸びる街道を、苛々と靴底で叩きながらイザーク・ユニコスは苦々しげに口を開いた。
後ろに続くのは見た目涼しげな真っ白のローブを纏った混血の魔術士。
イザークの浴びせる不満になど聞く耳も持たず、斜め下を向いて死人のように一歩一歩規則的に歩みを進めている。
エタでの感動的な勝利から今日で五日。予定では今頃、競馬の賞金を使って一直線に皇都に帰還して、愛馬の手入れに勤しんでいるはずだったのに。イザークは背後を見遣りながら恨めしげな溜息を吐く。
実際、途中までは予定通りだったのだ。エタから出ている馬車を乗り継ぎ、ヴァイル川を越えたところまでは。
『それじゃあイザーク君、僕はここから徒歩でいきますので!御機嫌よう!』
全くもって予想外としか言いようのない出来事だった。というよりも予想のしようがない。流域の町カウダルペスで食料等を買い足し、直通の馬車を見付けていざ皇都へ、という時になって、それまでやけに大人しかったクライヴは突然そんなことを言い出したかと思うとイザークの制止も聞かずに町を飛び出していってしまったのだ。
あまりにも唐突だったので唖然としつつも、後を追ってしまったのが最大の敗因だ、とイザークは肩を落とす。何故あの時放っておかなかったのだろう。
追い越していく馬車を見送っては何度も乗ろうと説得しているのだが、クライヴは頑として首を縦に振らなかった。そればかりかその理由すら言おうとしない。
「……だから、付いて来なくていいって言ってるでしょうが」
先程のイザークの独り言めいたぼやきに対する返答だろうか。クライブがぽそりと呟く。
二言目にはこれなのだ。夏の暑さは変温動物である蛇を祖とする身には堪えるのか、はたまた自分から言い出しておいて歩き疲れたとでも言うのか、声の調子も不機嫌そのものだ。
一体何を考えているのか。流石のイザークもこの態度は面白くない。よって騎士と魔術士による真夏の行軍は専ら無言で、であるがゆえにその道程はまるで果てしなく続いているかのような錯覚をもたらす苦行と相成ってしまったのであった。
次に馬車が通ったら絶対置いていってやる……!
イザークは心中で密かに決意する。
しかしおかしなことにさっきから一向にその影が追い付いてくる気配が感じられなかった。よくよく考えてみれば、今日は朝からずっと車輪の音を聞いていない。
このフィオーネ街道は神皇国の動脈、と呼べる程主要な道ではないものの、西の地方から皇都へ向かう者には少なからず利用されているはずなので、もう少し見かけたっておかしくないはずなのだが。
そうと決めた矢先に。ついていない時はとことんこういうものか、とイザークは苦々しい気分で頭を掻く。
しかしそうしていたところで皇都が独りでに近付いて来てくれるわけでも無し、再び黙々と足を進めるのに集中しかけたその時だった。
がっ!どさっ。と、石畳に何かが引っかかり、引っかかった何かが倒れような音。
風の音くらいしか聞こえなかった草原の真ん中でそんな音が聞こえてきて、イザークは一瞬身を竦ませるが、よく考えなくても何のことは無い。クライヴが転んだらしい音だった。
ちょっといい気味だ。イザークはやや意地の悪い気持ちで肩を竦めて見せつつ、勝手に起き上がるだろうと振り返りもせずにそのまままた歩き出す。が。
「……クライヴ?」
何故か自分の後ろに続くはずの足音がいつまで経っても聞こえない。
まさか、と恐る恐る肩越しに振り向く。
「クライヴー!?」
なんと、さっきまで後ろを歩いていたはずの魔術士の姿はいまや元来た道の遥か向こう。転んで倒れたらしい場所から一歩たりとも動いていなければ起き上がってもいなかった。
イザークは慌てて道を駆け戻り、冷や汗に背中を濡らしつつクライヴを抱き起こす。
「おい! クライヴ!? おーい起きろ!」
「あっつい……水……飲みたい……」
するとクライヴは、緑豊かな草原に居ながらまるで砂漠で遭難でもしているかのようなことを言ってかくんと気を失ってしまった。
熱中症か?
そこまでの暑さではないとは思ったが、急いで水を飲ませようとクライヴの背嚢を弄る。しかし、やけに薄いその袋の中には水筒どころかパンの欠片さえ入っていなかった。
「…………」
まさか、と自分の荷を開けてみると、やけに重たいと思っていたその中にはカウダルペスで買い足した食料その他に加え、二人分の水がきっちりと収まっている。
「みずー……」
うわ言の様に呟くクライヴに、イザークはおもむろに水筒の蓋を開け、飲み口をその顔面に向けて引っくり返した。
「ぶわっ!? ちょっ、冷た!!」
「おい。何でお前の荷物まで俺の袋に入っている?」
跳ね起きて非難がましく叫ぶその声を無視してイザークは低く問い詰める。
しかし、クライヴはイザークの手から水筒をひったくり実に美味そうにごくごくと飲み干してから、悪びれもせずに肩を竦めた。
「今頃気が付いたんで痛っ!?」
言い終える前にイザークが再度水筒を取り返し亜麻色髪の頭目掛けて振り下ろす。
ごちんという鈍い音が響いて魔術士は頭を押さえた。
「痛いじゃないですか!」
「そこお前が怒るところか!? 自分の荷物くらい自分で持て馬鹿眼鏡!」
イザークは額の角でクライブの頭に穴を開ける勢いで怒鳴り散らすと空の水筒をクライヴに投げつける。
その様子にやれやれと溜息を吐くと、子供にでも言い聞かせるようにクライヴが言った。
「僕の体力の無さを舐めないで下さいよイザーク君。大体君が一人でつかつか歩いて行っちゃうから悪いんです。これでも一応気を遣って君に合わせていたんですから。軍人と民間人の歩みの差くらい考慮してください」
「民間人だってもっと体力あるだろうが。ベリルはあの体格で胸甲着けた俺を運べたんだぞ。お前の体力が無さ過ぎるんだ」
その言い方に腹の立ったイザークは同じ調子で言い返すが、クライヴはつんとそっぽを向くと眼鏡を押し上げながら目を瞑る。
「だから舐めるなと言ってるでしょうが。というか、付いて来なくていいってずっと言ってるでしょう。そんなに急いでいるなら僕の歩みの遅さなんて関係無しにさっさといけばいいじゃないですか」
「お前みたいのを一人で置いていけるか!心配だろうが!」
言ってしまってから、何か言葉の選択を間違ったことに気付いて思わず身体を引くイザーク。が、遅かった。
あらぬ方向を向いていたはずのクライヴは怪訝な顔をしてまじまじとイザークを見つめると、やがてにやりと口元を歪めてから、わざとらしく心細げな顔をして呟いた。
「軍人さんには多いと聞きますがまさか君まで……」
「たたっ斬るぞお前!」
本気で剣に手をかけるイザークに、クライヴの馬鹿笑いがこだました。
「とにかく! このままじゃ埒が開かん。馬車探すぞ馬車」
「えぇ……本気で言ってるんですか?」
気を取り直して歩きながら言うイザークに、クライヴは情けない声を上げながらしぶしぶ後ろに従う。勿論荷物はイザークに持たせたままだ。
「この荷は馬車で行くつもりで買い込んだんだよ。徒歩だったらもっと減らして、周辺の村や町に寄りながら進んだほうが良いだろうが」
「それじゃあその荷物をちょっと捨てて、減らしたらいいじゃないですか」
尚も口を尖らせるクライヴをイザークがじろりと睨む。そして歩きながら背嚢を腹に回して中を覗き込みながら嫌味っぽく言った。
「今日までの分の水と食料二人分、俺の武具、その他野営用の物資、ここまでは良い。問題。酒瓶、焼き菓子、蜂蜜……これ、何?」
「何って僕のお酒とつまみですが……ってちょっとイザーク君! それ駄目! 酒瓶で殴ったらいくらなんでも僕死んじゃいますから!」
イザークが酒瓶を逆手に構えるとクライヴが焦ったように首を振る。
溜息を吐きつつ平静を取り戻したイザークは嫌そうな顔をして故郷クーデルリア産のラベルが貼られた葡萄酒を見た。
「何だってこんなたくさん……。お前酒好きなのか?」
「大好きです」
「捨ててもいいか? これが一番重いんだが」
「駄目です」
もう一度、イザークの口から漏れ出る大きな溜息。ふと歩みを止めて俯くと、遠い目をして呟く。
「お前、これが許されるならカウダルペスで見付けた名工クライズデール作の蹄鉄四足組、買っても良かったんじゃないか……?」
「別に僕は君の趣味で君の荷物が重たくなることをどうこう言うつもりは全くありませんが、どう見てもどう考えてもお金が足りなかったじゃないですか?」
突然様子の変わったイザークにクライヴが二、三歩後ずさりしながら答えた。
「何で後払いじゃ駄目なんだよ! ちくしょう欲しかったあぁあ!」
「い、イザーク君落ち着いて。きっとあれは偽物ですよ!無駄な買い物しなくて良かったですねえ、あははは……」
虚しい沈黙と時間がゆっくりと流れる。やがてどちらとも無く歩き出し、再び黙々とした行軍が再開されたのだった。
西の空が紫色を帯び始めてきた頃、強い風が吹き出して草々が薙ぎ、厚い雲が空を徐々に覆い始めた。
「一雨きそうですねえ」
それを見上げながらクライヴが呟く。そう言ってから二人してはたと気付いた。屋根のある馬車旅の予定だったので荷物に天幕が含まれていないということに。
「どうするか……この辺に雨宿り出来そうな場所なんて無いぞ?」
慌てる様子も無く、どこか諦めたような調子で地図を広げてイザークが首を傾げる。対してクライヴは眉間を寄せて首を振った。
「えぇ?濡れるのは嫌だな」
しかしこれまで歩いてきた距離をどう見積もっても近くに村や町は見当たらない。が、諦め悪くきょろきょろと周囲を見回していたクライヴが何かを指差した。
その先にはなんと、小さな建物の群れの影。街道からやや離れたところにぽつりと、夕飯刻の煙を上げた集落らしきものがあった。
「まさに渡りに船、いや竜ですねえ」
「こんなところに村なんて書いてないが……。まぁあの規模じゃ地図になんて載らないか」
「どうします?」
「濡れるのは嫌なんだろ?」
イザークが肩を竦めると、クライヴは小さく笑って頷いた。