一
「あ~……疲れた」
魔術士クライヴ・フォーネストは言葉通りの疲れた顔で安宿の硬い寝台にたどり着くやローブも脱がずにそのまま横たわる。だらしない体勢のまま手を使わず器用に革の編み上げ靴を脱ぎ落とすと枕に顔を埋め、幸せそうな溜息を吐いた。
その反面イザークはというととても不満げな顔で寝台横の長椅子に腰掛け俯いている。
ドナムから歩き通しで半日、二人は隣町のエタに到着した。
エタは辺境の地から出ない為、皇領のそれと比べれば小さな町だったが、ドナムのような村落とは違いそれなりに物が揃っている。皇都ガルグイユまでは一週間程の道程だが何の準備も済んでいない彼らにとってその存在は有難かった。が。
「何でお前は金を持ってないんだ……」
イザークは思わず頭を抱えて呟く。それを見てクライヴは狭い寝台の上でごろごろと転がりながら他人事のように笑った。
そう、二人は殆ど無一文に近い状態だったのだ。
イザークは盗賊討伐の際、飛ばされてきた持ち物のままだったから、余計な金は自分では殆ど持っていない。懐に小銭が僅かに入っていたが一日と持つ金ではなかった。
だからこそクライヴに期待していたというのに、村の入り口でクライヴはあっけらかんと言い放ったのだ。
「そういえば僕お金とかって持ってないんですけど。どうします?」
イザークはこの先のことを考えて気が重くなり、長いため息を吐いた。
「近くの村で馬車でも拾ってさっさと帰ろうと思ってたのに……」
「甘かったですねえ」
「お前が言うな!」
この宿に泊まるためにイザークの持っていた金はほぼ尽きた。町はずれの格安宿の素泊まりで、勿論食事は出ない。寝台も小さな一人用のものが一つだけ。その使用権を決めようとクライヴが懐から銅貨を取り出してきたのでそれに乗ったが、思えばあれは完全に間違いだったようだ。
よくよく考えればあからさまに怪しい銅貨だったがそれも宿代に出してしまったのでもはや調べることも出来ない。
哀れイザークは備え付けの長椅子で外套に包まり一夜を過ごすはめとなった。
「いっその事、軍命令だって言って必要物資全部接収しちゃえばいいのに……」
とんでもない事をさらりと言い出すクライヴにイザークは力なく首を振った。
「……そんなことしたら、兄上に勘当されるな」
「北神将ユニコス家当主、クレア・ロス・ユニコス中将閣下ですか?」
「そうだよ」
クライヴが小馬鹿にするような口調で言うのでイザークは少し不機嫌そうに短く言葉を返した。
イザークは兄のことを誰よりも尊敬している。
クライヴの言うとおりイザークの実家であるユニコス家は北神将家とも呼ばれ、神皇に次ぐ歴史と地位を持つ名家中の名家だ。
その血脈を辿ると建国の英雄たる『統一皇』マルドークの親友シド・ユニコスまで遡り、千五百年間他の神将家と共に神皇国を支え続けてきた将軍の家柄なのである。継承は男女に関係なく長子相続の世襲制だが、しかし実力を重んじる神皇国では弱者が上に立つことはできない。過去、無能と判断された神将があっさりと切り捨てられ、弟妹やその親類が取って代わったという事例は後を絶たないのだ。
それが諸事情はあったにせよ若干十七にして位を継承し、八年経った今でもそれを守り続けているのだから能力に疑いは無い。何より幼少の頃から今は亡き父母に代わり自分を育ててくれた唯一の肉親であるのだから、尊敬しているというのも当たり前といえば当たり前なのだが。
クライヴはイザークが気分を害した事に気付いたのか、首を竦めて見せる。
「別にお兄さんのことをどうこう言おうとした訳じゃないんですけどねえ。まあたまにはこういう経験もいいじゃないですか?」
「ふん」
含みのあるクライヴの言い方にイザークは長椅子に転がると背を向けて目を瞑ってしまう。
「おや、すねちゃいましたか」
「すねてない」
「やれやれ」
クライヴは苦笑気味に言うと眼鏡を取ると寝台の隅へ置いた。ちらりとその様子を盗み見ると丁度瞳の色が茜色から深緑へと変じるのが見えた。
「折角こうして楽に出来る友人が出来たというのに、つまんないですねえ」
クライヴは溜息混じりに寂しげな声をあげ、掛け布にくるまった。非常にわざとらしいがこれが彼なりの友好的な接し方なのだろう。
イザークは話題を探すように視線をうろつかせる。
「……その眼鏡、一体どうなってんだ?」
「秘密です」
「……寝る」
「ちょっと、そこはもっと食い下がりましょうよ?」
からかうような口調のクライヴに一瞬本気で寝ようとしていたイザークだったが、本気で雑談がしたかったのか慌てて引き止める様子の彼に思わず吹き出してしまった。
「……お前、本当に三十才?」
「え? ああ……ベリル君ですか?」
可笑しそうに問いかけるイザークにクライヴは瞬時に当たりをつける。実はイザークはドナムを発つ際、ベリルにクライヴについての助言をもらっていたのだ。
「うん。ベリルが心配するわけだな」
「何吹き込まれたんですか?」
「秘密だ」
「イザーク君~?」
別れ際にベリルが耳打ちした言葉。
『先生あれでもう三十才のくせして実はすごい寂しがり屋なんだ。眼のせいで人を遠ざける所あるし皮肉屋だけどね。わかりにくいけどイザークさんみたいな友達が出来て内心すごい嬉しいと思ってるはずだよ』
この顔立ちで三十路というクライヴの事実にも驚いたがベリルの急に大人びた言いようにも舌を巻いたものだ。しかしこの様子ではベリルの言っていたことは本当なのだろう。明かしたら今度はクライヴの方が怒り出しかねないので言わないでおくが。
なんとなくこの年上らしくない年上の魔術士の扱い方のようなものがわかった気がしてイザークは愉快そうに忍び笑う。
と、ベリルといえば、と思い出したことがあって寝返りをうち、クライヴに向き直った。
「そういえばベリルに渡したあの腕輪はなんだったんだ?」
イザークの問いかけにクライヴは変な顔をする。小さく間をおいて首を傾げながら問い返してきた。
「……え? 知らないんですか?」
「うん」
何故か自信満々に頷くイザーク。クライヴははあ、と溜息を吐いた。
「ユニコス家のくせに……」
「関係ないだろ!」
「大有りですよ。ユニコス家は神皇国の近代魔術の創始者でしょうが」
「……そう、だね?」
勿論そんなことはわかっているが、それとこれとどう関係があるのかはまるでわかっていない風なイザークの表情。再び呆れたようなクライヴの溜息。イザークの顔が僅かに紅潮する。
「お兄さんは確か名の知れた魔術士だったと思いますが」
「俺の魔術の才能は兄上に全部吸い取られたんだ。多分」
「あーそうですねー」
取り繕うように言うイザークにクライヴは投げやりな答えを返し、もう一度問うた。
「本当に知らないんですか?そんなに認知度の低いものだったかなあ」
「知らないな。魔術に関係あるものなのか?」
「関係あるもなにも……イザーク君はまさか魔術をどうやって使っているか知らないんですか?」
「……教わった気はするが、使わないからな……」
「もう一度士官学校で習ってきてください。と、言いたいところですが……仕方ない、講釈してあげましょう」
クライヴは恩着せがましく言うと、大儀そうに口を開いた。
「そもそも獣人というのは皆潜在的に魔力を有する生物ですが、それを行使する術、魔術はある程度の知識や修練を積まないと使用することは出来ません。またそれには才能という先天的なものも関わってくるため、獣人達の誰しもが魔術を使っているわけではないのは……君自身のことですからよくわかってますよね」
一々腹の立つ言い方で話を振ってくるクライヴ。それでも素直に頷いてやるといかにも教師のような顔をして続ける。
「加えて神皇国には、魔術自体を忌避する風潮がつい百年程前まで存在しました。その理由は、神皇国中の子供たちが御伽噺として聞かされる古の『魔王』、ヴィセヌという実在した魔術士」
「ちょっと待て」
「なんです?」
「御伽噺ってあの? 王様が魔王を倒して姫を娶ってめでたしめでたし……っていうあれか?」
その御伽噺は勿論イザークにも聞き覚えがあった。この国での定番の物語だ。そしてつい最近盗賊団の頭領によって思い出させられたので記憶にも新しい。
「そうですよ。あれは実話を基にした物語なんです」
「へぇ……知らなかった」
「まぁ、これはさすがに興味を持って調べようとでもしなければ出てこない話ですからねえ」
初めて感心したような様子のイザークにクライヴは肩を竦めるとヴィセヌについての話を簡単に語り始める。
「ヴィセヌは千五百年前、統一皇の力と人格に惹かれ後の四神将の祖先たちと共にその覇道に大きな力を貸したとされる蛇人の魔術士でした。魔術の王、魔王の呼び名の通り空前絶後の強大な魔力の持ち主で、彼の開発した魔術はそのあまりの高度さに彼の他に使える者が現れず、廃れてしまったというほどです」
成る程、と素直に聞くには俄かに信じがたい人物だ。それほどの魔術士なら統一皇や四神将の武勇伝のように何か話が残っていそうなものだが、ヴィセヌなる魔術士のそういった話は子供の頃から今まで聞いたことがない。しかしクライヴほどの魔術士がいたというのだからそれだけでなんとなくだが、真実味を帯びてくる。
つまり、こういうことか。イザークは再び口を挟んだ。
「ヴィセヌは統一皇を裏切りでもしたのか?」
統一皇に強大な力を貸しておきながら、その活躍を当代に伝えられない、御伽噺の悪役の規範とされてしまった理由。それは歴史を残す側への敵対に他ならないだろう。
クライヴはしかし、イザークの問いには明確な解答を示さなかった。
「……国が興った後の彼は権力を嫌い、皇都を遠く離れ魔術の研究に腐心するようになったそうです。そしていつしかその心もまた統一皇から離れ、かつての仲間とも一切連絡を取らなくなった。……その後の経緯は諸説ありますが、最期は統一皇本人によって処断され、この世を去った……とされています」
「なんだ、原因はよくわかっていないのか?」
「色々研究史料はありますけどねえ。有力なのは国を乗っ取ろうと反乱を企てたとかなんとか。まあでも、問題はそこではなく、その後です」
クライヴは曖昧に首を傾げると話の筋を元に戻した。
「ヴィセヌの死後、その後を追うように統一皇が謎の病にかかり変死をとげたんです。その死はヴィセヌが生前に完成させていた呪いの魔術の仕業だと人々の間で囁かれ、ヴィセヌは英雄たちの席から外され悪の魔王の汚名を着せられます。そこで被害を被ったのはヴィセヌと同じ蛇人達。英雄たる統一皇を呪い殺したヴィセヌは国中から恨みを買い、その眷属たる蛇人達は迫害されてしまいました。蛇人は獣人の中でも特に強い魔力を示し、魔術の研究に力を入れる種族でしたから、魔術も彼らと同様に排斥の一途を辿ることとなり以後千四百年間、神皇国では魔術の研究は公では行われなくなってしまいました」
「公では?」
「隠れて研究を続ける魔術士もいないことはなかったんですけどね。大抵は異端視され処刑されるか外国に出て行くか……まあ外国に出て行っても神皇国の目は光っていたし、大した魔術は完成しなかったようですけどねえ」
過去の魔術からの流用ではなく、独自の魔術を創り出す才能を持った者が現れれば。
魔術の利用性の高さを認めその禁忌を打破して公に広めようと考えるものが現れれば。
いっそのこと、他国からの大規模な侵略が起こり魔術を使わざるを得ないような状況に陥れば。
不幸にも幸運にもそのような機会は巡っては来ず、他国もまた神皇国に倣い魔術の研究を重要視しなかったし、研究を進めていた国は歴史の波に飲み込まれて消えた。
「こんな状況が千四百年も続かなければ、文明はもっと進歩していたんじゃないかと僕は思いますよ。神皇国の最初にして最大の失策ですねえ」
軍人を前にして大胆にも言ってのけるクライヴにイザークは苦笑しつつ、冗談めかした感想を漏らす。
「案外、それこそがヴィセヌの呪いだったりしてな」
「はははっだとしたら皮肉ですねえ。魔術の王が魔術の進歩を止めるだなんて」
「で?肝心の腕輪の話はまだか?」
「おや覚えてたんですか?まあそう焦らず、これからです。魔王の呪いによって暗黒時代の続いた魔術史に光明が差したのが、今から約百年前。ことの発端はクロニクス独立戦争」
段々と芝居がかってきたクライヴの語り。最初は面倒くさそうだった割りにいらないことまで詳しく話してくれるところは学者肌の者らしい。しかし、いくらなんでもクロニクス独立戦争の経緯くらいはイザークも覚えていた。
「確か、神皇国軍は独立軍の密かに教育していた魔術士兵に不意を打たれて敗れたんだったな」
「知っているのなら話は早いです。戦争に敗れ、それを教訓にした当時の北神将、イザーク君の曾お祖母さんであるアリューゼ・ユヴェル・ユニコスがついに魔術研究の再開に着手。しかしその時すでに神皇国には魔術の参考文献と呼べるような文献はほとんど残っていなかった。勿論、クロニクス等では魔術兵が使われていたわけですから参考が全く無かったわけではありませんが、戦後同盟を結んだそのクロニクスの魔術兵を詳しく調査したところ、魔術とは実はかなり不便な業であることがわかりました。まあ簡単に言うと、魔力が低くても使用が出来る代わりに詠唱が長くて効果が弱かったんですよ。それを解決するべく開発されたのが魔具。つまりあの腕輪というわけです」
エザル岩石、ユーイル石等の魔力を吸収しやすい特殊な岩石『魔石』を、特殊な術を用いて加工し指輪や腕輪など主に装飾具に埋め込む。
これを使うことでその長い詠唱時間を劇的に短縮することに成功したのだ。
「ただこれにも問題があったんですけどねえ。魔石の中にも良し悪しがあって、良質の魔石を加工した魔具でないと持てる魔力の半分も発揮することが出来ないんです。逆に最高級の魔具でも、扱うものが勉強不足であったり魔力が低かったりすれば宝の持ち腐れとなってしまう。それに魔石の採掘量自体多くは無いのに良質のものとなると極端に少なくなってしまうため、良いものを使うには少なからぬ財力も必要となってくる。まあ神皇国は魔石鉱山が多く魔石の採掘量も優秀でしたからこの百年で大いに進歩して魔術の面においても先進国となりましたが、その敷居は格段に高くなってしまった。ベリル君は才能は高いんですが出身があの通りですからね」
「成る程な。なかなか面倒見良いじゃないか、先生」
イザークがからかい半分に言うとクライヴは小さく肩を竦めた。
「でしょう?まあ、本当に面倒見が良かったらあの村に置いてきたりはしませんけどねえ」
「ああ、一緒に連れて行くって手もあったんじゃないか?」
「それは駄目です」
クライヴは少しだけ寂しげな笑みを浮かべると、呟くように言う。
「あの子はまだ村に居るべきだ」
「……それもそうだな」
欠伸混じりに返したイザークだったが、クライヴの言いたいことはわかった。
今は平和だが、いつまた戦乱の起こるかわからない時代だ。そんな時代にあって家族と平和に生きている幼い子供を、親元から引き離すようなことはしたくないのだろう。
少々クライヴを見直す気持ちで、イザークは抗い難くなってきた瞼を閉じた。