一
「……ん……?」
イザーク・ユニコスはかび臭い寝台の上で目覚めた。眼前には古ぼけた薄暗い天井が広がっている。
ゆっくりと回転を始める脳が周囲の情報を要求しはじめた。
ここはどこだ?
眼だけを左右に動かし辺りを詳しく確認する。まるで見覚えの無い場所だった。
イザークの寝ている寝台の横にはもう一台寝台が置かれているが誰も寝ている様子は無く、敷布にも皺一つ無い。二つの寝台の周りには埃っぽいカーテンが掛けられ、その外の様子はわからなかった。
どうやらどこかの診療所のような場所で寝かされているようだ。イザークは緩慢な動作で起き上がると自分の体を確認した。しかしどこも怪我をしている様子は無く、頭がやたらとぼうっとする以外は全く正常のようだった。
なんで俺、ここにいるんだっけ……?
ぼんやりと身体を起こし記憶の糸を辿る。確か倒れる前、どこかで自分は戦っていたのだ。何処だ?そう、盗賊団の隠れ処だ。シュメルシュムルの……。
「そうだ……ガーゲイル……!」
突然記憶が戻ったイザークは居ても立っても居られず寝台を飛び降りた。
ガーゲイルと対峙して、不思議な強い閃光に包まれて、あのあと何がどうなった!?
カーテンを乱暴に開く。と、視界に入ってきたのは眼鏡を掛けた見知らぬ亜麻色髪の男。
瞳が夕焼け空のような茜色で、小柄な体躯、角や尾は持っていない。この国では珍しい種族だが、おそらく蛇人だろう。身に纏った真っ白なローブが印象的で、雰囲気は老人のように落ち着いているのに顔は童顔、というよりまるっきり少年のような風貌をしていた。
……見知らぬ?いやどこかで見たことが?
「おはようございます」
眼鏡の男は一瞬驚いたようだったが、自分と目が合ったきり固まってしまったイザークを見てくすっと小さく笑う。
「こ……ここは?」
イザークは憑き物が落ちたような顔で首を傾げると、眼鏡の男は答えずに手にしていた陶杯を机に置いて自分の対面に椅子を引き出し言った。
「まあ、とりあえず座ってください」
のんびりとした口調ではあったが有無を言わせぬ妙な強制力があり、イザークは素直に従う。すると、対面に座ったイザークの腕を男は何の前触れも無く掴みとった。
「えっ?」
「あれ? 痛くないですか?」
「あ、ああ」
突然腕を掴まれてそう尋ねられ、イザークは訳のわからないまま頷いた。男はふむ、とイザークの左腕の骨を確かめるように触りながら首を傾げる。
「本当ですか?じゃあもうくっついたのかな。それにしては早いけど……。ここ、ポッキリ折れてたんですよ?」
「そう、なのか?」
そう言われてはじめて腕を意識してみるがそんな感じはしなかった。一体自分が眠っている間に何があったのだろう。
「まぁとても綺麗に折れていたし、ちゃんと治療術を施したのでね。ちょっと直るのが早すぎる気がするけど、早いに越したことはありませんからね」
イザークが首を傾げていると男は首を竦めつつ、深く考えるのはよしましょう、とにっこり笑って話を済ませてしまう。
「はぁ、どうもありがとう」
「いえいえ」
「で、ここは……どこだ?」
男に腕を解放されてようやく、イザークは室内をざっと見渡しながら尋ねた。薄暗くがらんとして人の気配が薄い、診療所というより空き部屋のような部屋だ。男はあっけらかんと答える。
「ウォルフ川の下流の村、ドナムですよ」
「ドナ、ム? ……ウォルフ川!?」
それを聞いたイザークが驚いて大声を上げる。村の名前に聞き覚えは無いが、ウォルフ川といえばイザークの居たシュメルシュムルとは全くと言っていい程離れた場所だ。しかし事情を知らない男は何事かという顔をして続ける。
「え、ええ。昨日の晩、村の前で君が倒れているのを村人が発見しましてね。僕の所へ運ばれてきたんですけど……」
その言葉に、そんなはずは無いとイザークは首を振る。男は初めて眉を顰め怪訝な顔をした。
「お、俺……シュメルシュムルに居たはず、なんだけど……」
「シュメルシュムル? ここから結構遠いですね。何故またこんなところに」
「……わからない」
「記憶が無いんですか?」
「気を失う直前のことまでは、覚えてる。俺はシュメルシュムルで盗賊団を討伐してて、頭領と対峙して、頭領が何か魔術を使って……その光に飲み込まれたんだ」
イザークはひとつひとつ思い出しながらたどたどしく答えた。混乱してはいるが正しい記憶である自信はあった。しかし、そこからここで目を覚ますまでの記憶はやはり存在しない。
「その先は?」
男に先を促されるが、イザークは首を振るしかなかった。すると、考え込むように腕を組んでいた男がふと、思いついたように問いかける。
「それは、何時のことです?」
「神皇国暦一五〇〇年、サマルの一〇日の昼だ」
一応軍の隊長を任される身であるので、その答えにも間違いは無い。しかし男はイザークの淀みないその答えに、いよいよもって疑問そうな顔をし、驚愕の事実を告げた。
「今日は神皇国暦一五〇〇年、サマル一一日……の昼、ですよ?」
「は!?」
男は嘘を言っているような顔ではなかった。また初対面のイザークにわざわざ嘘をつく理由も無い。だがシュメルシュムルからここウォルフ川の下流までは直線距離にしても馬で十日はかかる道程。普通に行こうとするとおおよそだがその倍はかかるはずなのだ。つまりイザークはたったの一日足らずで一〇〇キール・メルテを超える距離を移動してしまったことになるのだ。
「何が、何があったっていうんだ……?」
「まぁまぁ、ちょっと落ち着いてください」
狼狽えるイザークを宥めるように男は優しく言った。
「まずは記憶がしっかりしているかどうか確かめましょう。お名前は?」
「イザーク・ユニコス」
そういえば自己紹介もまだだった。イザークが答えると男は小さく頷く。
「年は?」
「十八だ。グライアス神皇国軍大尉で特殊兵団『白鬣』の第二騎士隊長」
質問を先取りして自身の身分を明かすと、男は眼鏡をかけ直し溜息を吐く。
「うーん……全部当たってます」
「何故解る?」
イザークは当然の疑問を口にした。
「ああ失礼。君が倒れていたというので持ち物から身元を改めさせていただきました。軍服には階級章と隊章がついていましたし、剣と槍には名前が彫られていましたから」
男が壁を指差す。成程、そこには確かにイザークの剣と槍、そして外套が掛けられていた。
「成程。じゃあ記憶はしっかりしてるってこと解ってくれたんだな?」
「ええ。わかりました。……じゃあ他に何か覚えていることは?」
男の言葉にイザークは再び記憶を呼び起こす。すると先程まで気にしていながらすっかり失念していたある事を思い出し、さっと顔色を変えた。
「……そうだ、肝心なことを忘れていた……」
「何です?」
「俺のほかに、もう一人、居なかったか!?」
「倒れていたのは、君だけだったようですが……」
突然慌てて問いただすイザークに男は気圧された様に答える。
「俺が気を失う直前、盗賊団の頭領が光を放つ魔術を使ったって言ったよな?」
「ええ……あ」
男も気付いたように声をあげる。
「あいつもどっかに飛んでる可能性は、無いか?」
「……ありえますね。もし、その光が原因で君がここにいるのだとしたら」
「くそっ、逃げられたか」
イザークは悔しげに舌打ちした。ガーゲイルも自分と同じように無事であるなら今頃何処へなりと姿をくらませてしまっているだろう。
「その盗賊団の頭領とやらは、魔術士だったんですか?」
「ああ。かなり腕のいい魔術士だったな。詠唱もしないで炎を出現させたりしていた」
「もしかして、君がここへ飛んできたのも魔術のせいですかねえ……」
「……ありえるのか?」
「さぁ、僕も一応魔術士の端くれですけど、どうでしょうね?もしくは何か魔術に失敗したとか……魔術っていうのは失敗すればなにが起こるか解らない所がありますから。君の腕が折れていたというのもその反動かもしれません」
「そうか……」
イザークは脱力するように背もたれに体を預けた。原因ははっきりしないが自分が一日もかからずに遠くへ来てしまったことだけは確かだ。そしてガーゲイルは行方不明。あの時自分以外の隊員が光へ飛び込んでいないことだけが救いだった。
「なんだか疲れた……」
イザークの呆けた様子に男は苦笑する。
「仕方が無いですよ。何やら不思議な現象に巻き込まれてしまったようですからね」
「皇都に戻れば何か解るといいんだがな……。あいつら無事かな……。まぁ、大丈夫だとは思うけど……。突然消えて驚いてるだろうな」
「まあ、目の前で人が消えたことになりますからねえ」
男は他人事のように言って肩を竦める。確かに間違いなく他人事なのだが今後のことを思うと頭の痛いイザークは男を恨めしげに見遣ると小さく溜息を吐いた。
「そういえば、お前の名前、聞いてなかったな」
「僕ですか? 僕はクライヴ・フォーネスト。ドナム村のしがない魔術医ですよ」
「こんな辺境の村にまで魔術医がいるのか」
魔術医、というのはその名の通り主に魔術を利用して病気や怪我の治療を行う医者のことだ。
それまで治療というのは主に薬で行われてきたが、近年魔術の利用拡大が進み、皇都でようやく魔術医が誕生したのが五年前。それから各地で魔術を学び魔術医を目指すものは増えてきてはいるが、魔術を学ぶには金がかかる上、才能で左右されるところの強い学問ということもあり、つい最近やっと全国の主要都市に一通り人員が揃ったと言う程しかいないのが現実だ。
それがウォルフ川の下流のドナムなんて聞いたことの無いような村にいるなんて、俄かには信じがたい話だった。といってもイザーク的には信じがたい話は先ほどの事でお腹一杯と言った風であるのであまり大げさに驚いたりはしない。
「……とはいっても、それが一番当てはまるからそう自称しているだけの無免許医なんですけどね。まあそれも今日までです」
「?」
二人の会話に割って入るように診療所の扉を強く叩くものがあった。
クライヴはしばらく様子を見るようにその音を聞いていたが、やがて立ち上がり、しつこく扉を叩く客に応答する。入ってきたのは十歳ばかりの、幼い猫人の少年だった。
「先生、どうして村を出て行っちゃうんだ!?」
「ベリル君」
ベリルと呼ばれた少年は部屋に入るなりクライヴのローブにしがみ付き叫んだ。
「ジジイなら俺が説得するよ! だから行かないでよ先生! 俺も魔術医になりたいんだ!」
「…………」
クライヴはベリルを見下ろしたまま困ったような表情を浮かべている。
「先生が居なくなったら俺、誰に魔術習えばいいんだよ! 約束したじゃねえか!」
「でもベリル君、僕は君のお爺ちゃんとも約束してるんですよ、三年経ったら村を出て行くって。ここに住まわせてもらう条件だったんですよ」
しかしベリルはそんな事で納得する少年ではなかった。ベリルは半ば涙声になりながら必死にクライヴを説得しようと試みる。
「何で!? ジジイだって本当は先生がここに居てくれないと困るって思ってるはずだよ! 村に他に医者は居ないし、町の医者にかかればもの凄い金が要るんだろ!? どうしてだよ! 先生がよそ者だから!? それとも先生が本当は……!」
「ベリル!」
クライヴがベリルの言葉を遮るように声を荒げた。突然のことだったので名を呼ばれたベリルだけでなくイザークまでもが萎縮してクライヴを見る。
「……僕は、もし村長の許しがあってもこの村を出ていきますよ」
「……先生の、バカッ! 青白眼鏡!!」
師の決然とした意思を聞いてベリルは失望したような表情を見せ、逃げるようにその場を走り去っていった。クライヴはその姿を見送ると静かに扉を閉め、イザークに向き直る。
「お騒がせしましたね」
「いや……。いいのか?」
「ええ。僕はもうこの村にいる理由がありませんから」
そう淡白に答えるクライヴ。イザークは少し意外に思った、その表情の中に少しだけ未練のようなものも感じ取れることに気付いた。決して彼自身も心から望んでいるという訳では無さそうだ。
「理由って?」
「……まあ、詳しくは言えませんが、魔術の研究をするためにこのあたりに拠点が必要でしてね。そのために三年という期限付きで村長さんに場所をお借りしていただけなんですよ。もうその研究も済みましたから、これ以上長居する必要はないんです。そういうわけで、今日まで」
成程、それでこの部屋の様子か。人が住んでいるというのにがらんとしていて生活感の無いのは既に家財を引き払った後だからということらしい。
「医者をしていたのはその研究の片手間だったってことか」
「それも村長の提示した条件の一つでしたから」
ドナムは無医村であり、たとえ無免許であっても医者を必要としていたのは確か、にも拘らず村長はなぜ三年という期限をつくったのだろう。
ふと湧き出た疑問にイザークは腑に落ちない気持ちだったが、それ以上の詮索は止しておくことにした。クライヴも話す気は無いらしく、椅子に座りなおすと別の話題をイザークに振る。
「ところでイザーク君は、これからどうするんですか?」
「俺は皇都に戻る。突然消えて色々騒ぎになっているだろうからな。お前は?」
「僕も行き先は一緒ですねえ。皇都に住む昔の友人でも訪ねてみようかと」
「へぇ、じゃあ一緒に行こう。俺はこの辺りの地理には詳しくないし、そうしてくれると助かるんだが?」
イザークの提案にクライヴは頷くが、あくまで医者らしい顔をして付け加えた。
「いいですよ。でも今日一日はここに留まってもらいますよ。まだ目が覚めて間もないんですからね」
「……別に何処もなんともないんだけどなあ……・」
「腕だって、体を切り開いて見て見た訳じゃあ無いんですから、突然ぽきっといっても僕は知りませんよ」
「本当か?」
イザークが思わず左手を庇うような動作をするとクライヴは冗談です、と言ってくっくと笑うのだった。
結局クライヴの許しは出ず、今日一日この村に留まることとなった。
クライヴは最後の義理に、と村の回診に行くというので、暇の出来たイザークも表に出て村を回ってみることにした。
ドナムの村はウォルフ川の川岸にある村で、イザークも知らないだけあって本当に小さな村だった。
村人は川魚の漁をして生計を立てている者が殆どのようで、川岸には何艘もの釣り船が並べられてある。今日の漁はもう終了したのか漁師たちは収穫物を出荷する準備をし、その脇では子供達が川で泳いだり、女達が網の手入れをしながら談笑などを楽しんでいた。
軍服姿のイザークがそこを歩くと少し浮いているようで、少々不審そうな視線を投げかけられもしたが、それも含めて至って平凡な平和な村の姿である。この空気はイザークの故郷であるクーデルリアに良く似ていた。
まあこうなってしまっては今更急いだところで仕方がない。腹を括って久々にゆったりとした気分をイザークが味わっていると、村のはずれに見た覚えのある子供が一人。ベリルだった。
猫人の少年は他の子供達の群れから外れて少し離れた水辺で本を読んでいる。口調は腕白そうな子供であったが医者になりたいという志は本物のようだ。イザークがそれとなく近寄ってみても全く気付く素振りを見せない。
「何を読んでるんだ?」
「うわっ!?」
よほど熟読していたのか声をかけて初めて驚いたように頭の上についた黒い三角耳を伏せ、顔を上げるベリル。
「あ、アンタは先生のとこにいた軍人……」
「イザークだ。勉強熱心だな」
イザークが傍らに腰を下ろすとベリルはふいと顔を背けて突き放すように言う。
「フン。あんな眼鏡にはもう頼らないことにしたんだ。アンタもさっさとあいつ連れて出てってよ!」
少年につれなくされてイザークはむしろそうしたいとでも言うように溜息を吐いた。
「そのあいつが今日一日は駄目だってさ」
するとベリルは思い出したように呟く。
「……ああ。アンタ腕折れてたもんな。じゃあ駄目だよ。いくら治療術かけたからって、骨ってのはそう簡単にはくっつかないんだ。そうやって普通にぶらぶらしてられるのだって不思議なくらいだよ」
「丈夫なんだろ……って何で知ってんだよ」
「俺が先生のとこに運んだんだ。感謝しろよな」
「へえ……結構力あんだな」
イザークはしげしげとベリルの体格を見回した。よく見れば小柄は小柄だが、よく引き締まった体をしている。それにしても重量のある装備もつけっぱなしでそれなりに体重のある騎士を、よく村の入り口から診療所まで運んだものだが。魔術医になれない様なら俺の隊に来るかと言いかけてイザークは口を噤む。
「子供だって村では漁の手伝いくらいすんだよ。当たり前だろ。それに医者ってのは体力もなきゃ務まらないんだぜ」
でも、とベリルは呆れたように肩を竦める。
「クライヴ先生は駄目だな。体力ないし、直射日光苦手だし。前なんか突然ふらっと消えたと思ったら三日後に帰ってきてばたんと倒れちゃったんだ。聞いてみたら三日間ろくに寝ないでなんかの調査してたとか……。医者の不養生にも程があるだろ。しかも炊事も掃除もろくに出来ないくせに独身だし……」
そういってぶつぶつと文句を垂れるベリルだったが、どこか楽しそうだ。尾や毛の耳を持つ種族は基本的に自分の感情を隠すことが出来ない。表情や態度はごまかせても尾や耳は余程意識して制御しない限り反応してしまうからだ。ベリルもその例に漏れず、黒い尻尾をゆらゆらと気持ちよく揺らしている。余程クライヴに懐いていたのだろう。それだけにクライヴとの突然の別離を受け入れられないのだ。
延々と続いた文句を言い終えて、ふと寂しげな表情になるベリル。
「アンタさ、先生と皇都に行くのか……?」
「ああ」
「じゃあ、さ。先生の……」
ベリルが何か言いかけたときだった。突然凄まじい速さで、上空を巨大な影が過ぎ去ってゆく。それに続くように悲鳴が上がった。村の入り口のほうからだ。
「な、何……!?」
「盗賊だー!!」
イザークはその声を聞いて駆け出した。