四
同刻。
夕暮れの皇城ガルグイユ、人気の無い練兵上に一騎の馬蹄の音が響く。
直線状等間隔に並べられた的を、その人物は全速力で馬を駆りながら矢を放ち全て命中させた。
続いて一番奥に置かれた人型の的を十字槍で見事に突き破ると、その穴からめらめらと炎が上がり木製の的は一瞬にして消し炭に変わる。
ぱちぱち、と手のひらを叩く乾いた音に気付いて振り向く。
「さすが、腕は衰えてないな」
歩兵用の軽装備を身につけた狼人、ログレスだ。黒い抜き身の剣を肩に担ぎながら歩み寄る。
「お前がこんなところに来るのは珍しいな、クレア」
馬上の人物、クレアは兜を脱いで小脇に抱え、汗を拭いながら生真面目な顔で答えた。
「たまにはね。これくらいやっておかないと部下に示しがつきませんから」
微笑を浮かべるクレアの姿は先刻まで鬼気迫る勢いで鍛錬をしていた者の姿とはまるで似つかない。
「ログこそ、どうしたんですか?」
クレアは下馬し、馬を繋ぎながら問うと、ログレスはにやっと鋭い犬歯をみせて笑った。
「俺は珍しくないさ。毎日来ているからな」
「仕方の無い将軍ですね」
苦笑するクレアにログレスは悪びれる様子も無く片目を瞑ってみせる。
「ところで、どうせだから俺の鍛錬にも付き合わないか? 動かない的相手じゃいくらやってもしょうがないだろ」
「いいですよ」
クレアは意外にも即答を返し、兜と槍を置いて剣の柄に手をかける。ログレスは笑みを獰猛な獣のそれに変え、担いでいた剣を構えた。
「手加減無しだ」
「勿論」
先手を打ったのはクレアだった。
ログレスが中段に構えた途端、白銀の鎧の北神将が地を蹴り一瞬にして間合いを詰め剣撃を浴びせる。
ログレスは半身を捻ってそれを回避すると突撃してきたクレアに絶妙な足払いをしかけた。
クレアが一瞬よろめいた、がその体勢のまま横薙ぎに剣を振りログレスの追撃を牽制、一歩飛びのいて間を空ける。しかしログレスは構うことなくクレアの額角が当たるほどに距離を詰めると力づくでその手から剣を剥ぎ取りにかかった。手の感覚が麻痺するほどの衝撃を受けてクレアは剣を手放す。銀色の刃が宙を舞う。
クレアは身を低めてログレスの次の手をかわすと渾身の力で横蹴りを入れ、高く跳躍。夕日に煌く剣をその手に掴み取る。
ログレスも跳躍して横蹴りを避け、中空で二人の神将の影が交わった。クレアは着地すると素早く言の葉を紡ぎさっと剣を突き出す。
すると剣の周りで小さな蒼い光が無数に散り、霧散。その直後剣先から伸びるようにして出現した三条の雷撃が鞭のようにしなりながらログレスに襲いかかる。
「げっ」
ログレスは思わず悪態をついて弧を描くように横へ飛ぶと、雷撃は彼の居たはずの地面を黒く焼いて消失。
しかしクレアはログレスが左右どちらかに避けるであろうことを見越してその場所に罠を張っていた。
ログレスがその場所に足を突いた瞬間その足元に複雑な魔術式が現れ魔術が発動。膨大な圧力を持った水柱が地中から突き上げログレスは溜まらず後ろに転んだ。
直後その喉元に、硬質な刃が突きつけられる。
「魔術使うなんて聞いてないぞ」
水浸しのログレスは野良犬のように頭を振って水を切ると不満げにクレアの顔を見上げた。
「手加減無しっていったのはログですよ?」
クレアはログレスが負けを認めたと悟って剣を降ろす。ログレスは地面にあぐらをかくと剣を突き立てた。
「あーあ。これからは魔術も使えないと駄目だな」
「どうでしょうね? 先天的な資質が左右する術ですから他国も軍事転用は上手く行ってないようですよ」
クレアは肩を竦めてログレスの横に座り込む。日が沈んでひんやりとした空気が頬を撫でた。暦はすでにナイネスに移り、天候もそれに合わせるように変化し始めている。
ログレスが急に真面目な顔つきをして呟いた。
「クロニクスの南辺りがくさいらしいな」
「新興国ディエゴ…近いうちに動き出しそうですね」
クレアは無意識に剣で地面に地図を描く。神皇国の東がクロニクス、その南がディエゴだ。
「あいつらオーグルともやらかしてるんじゃなかったか?」
ログレスがその地図の神皇国の南にオーグルを書き足す。するとクレアはそこにバツ印を当てた。
「あっちは今停戦協定を結んでいるようですね。南端を少し取られるようです」
「そんで次はこっちか。節操がないこった」
ログレスは小さく溜息をついて足で地図を踏み消す。クレアは星のちらつき始めた空を仰ぎ見た。
「クロニクスは間違い無く我が軍に援軍を求めてきますよ」
「わかってる。まあ俺んとこの師団と『黒牙』と『緋眼』、それと…」
「『白鬣』ですね。クロニクスは殆どが平野だから十分お役に立てると思いますよ」
一瞬気遣うように止まったログレスの言葉をクレアが引き継ぐ。
「……第二騎士隊を連れてくって言ってもか?」
「……必要とされるのであれば、神皇国騎士としてあの子は戦いますよ」
「騎士として、ねえ」
ログレスは立ち上がると伸びをする。つられて尾までがぴんと縦に伸びた。
「本音は?」
ログレスの言葉にクレアは顔を俯かせる。
そんなことわざわざ言わせるのですか、ログ。小さな沈黙の後クレアは顔を上げた。
「……あの子は優しいから、きっと苦しむ」
私の時の様な地獄は、出来るなら見せたくない。
クレアの菫色の瞳はログレスの背中ではなく、八年前の戦場を見ていた。父を失い、部下を失い、全てを失いかけたあの地獄の戦場に。
その苦痛を共有することも癒してやることも出来無いログレスはただ黙って親友の言葉を聞いた。
四年前、ようやく終結した内乱があった。
『五年戦争』と呼ばれたその内乱は、神皇国暦一四九一年、西神将領に程近いジャヴォック山脈で起きた。当時そこには『特別民族自治区』と呼ばれる一帯があり、獅子人族である神皇に忠誠を誓うこと良しとしない他族の少数勢力が、長い交渉の末勝ち取った領土で、彼らは統一以前のような生活を営み、彼らの理想とする生活を実現していた。
血で血を洗う戦場と化したその内乱の切っ掛けはそんな少数民族同士の小さな狩場争い。しかしそれは段々と激化し、遂に神皇国の領内を侵犯するまでに戦火を拡大させてしまった。
勿論南神将領の守備軍がそれを鎮圧に赴いたが、元々折り合いの悪かった神皇国軍の介入は火に油をそそぐ結果と成り戦いは長引いた。
それに一旦終止符を打つため、赴いたのが神皇国軍で一番の穏健派であった北神将レシィ・メイ・ユニコス。クレアとイザークの父だった。レシィは休戦調停の間を取るため遣わされ、クレアもそれに同行した。
そして『五年戦争』の始まりの事件、『ウドゥスの惨劇』は起きる。
ログレスはその場に居合わせなかったが、当時の軍の中では有名な話だった。
民族軍強行派の凶刃に倒れた北神将レシィから指揮を引き継いで僅か百名余りの兵と共に死闘を繰り広げたクレア。
ようやく駆けつけた援軍が見たのは、燃えるウドゥスの街並みと屍累々の中にたった一人佇むその姿だった、と。
出来れば弟までそんな目に遭わせたくは無い。
クレアが見たのは中でも最悪の地獄だったが、戦というのはどの道全てが地獄だ。ログレスもクレアの気持ちを良く理解していた。
だからこそクレアに本音を問うたのだ。彼が連れて行くな、と言いいさえすれば連れていかないつもりでいた。
ログレスがふと歌を口ずさむ。狼人族に古くから伝わる、戦の歌だ。
雄雄しく猛々しいはずのその歌詞はログレスの紡ぐ静かな旋律によって鎮魂歌のような雰囲気を醸す。元来戦闘民族であった狼人達は武芸と共に歌や舞踏、演奏も奨励していた。その狼人の長たるログレスの歌声は、その性格に似合わず繊細だ。
記憶に押しつぶされかけるクレアの心を優しく支え、力強く押し返す。
――牙を立てよ、戦うのだ、我らと我らが子らのために、我らの美しく気高いエンリルのために。
ログレスが歌い終えるとクレアは静かに言う。
「ログ、あの子をお願いしますね」
ログレスは驚きに目を見開き、クレアを振り返る。
「いいのか?」
するとクレアは悲しみに耐えきった末の、決意の表情で言った。
「大丈夫。あの子は私と違って最初から知っているんですよ。生きる理由を」
謎駆けのような言葉にログレスは難しい顔をして首を傾げる。
クレアは答えを教えない代わりに微笑んだ。
「ログも、私の生きる理由の一人ですよ」