何度でも、教えてください
「分かりません」
「知りません」
「もう一度教えてください」
人はこの言葉をとても嫌う。
だが、AIはちがう。何度でも聞いていくれる。
それは救いだろうか?それとも?
第一話 分かりません
五時間目の数学は、教室の空気がいちばん重くなる時間だ。
九月の半ば。窓の外では、季節に取り残されたツクツクボウシが一匹だけ鳴いている。県立汐見台高校、二年C組。昼休みの眠気をそのまま引きずった三十二人の頭の上を、チョークの音だけが規則正しく渡っていく。
「――じゃあ、早瀬。前に出て、これ」
権藤先生のチョークが、黒板の一行をこつんと叩いた。
y=x³-3x の極値を求めよ。
早瀬湊は、椅子の脚が床をこする音を立てて立ち上がった。三十一人ぶんの視線が、背中に貼りつく。
黒板の前に立つ。白いチョークを握る。
微分はできる。それは分かる。y'=3x²-3。ここまでは手が勝手に動いた。そこから先――増減表、というやつで、手が止まった。
表を書くのは分かる。xの行と、y'の行と、yの行。でも、どうしてy'がゼロになるところが「山のてっぺん」になるのか。プラスとかマイナスとかを、どの順番で、何を見て書けばいいのか。さっき先生が説明していたのは覚えている。覚えているのに、意味がひとつもつながらない。
「どうした」
背後から、低い声。
――分かりません。
その六文字は、喉のすぐそこまで来ていた。言えばいい。言えば終わる。なのに、口が開かない。授業を止めてしまうのが怖い。三十一人の前で「あんな説明で分からないのか」と思われるのが怖い。何より、先生にため息をつかれるのが怖い。言ったら、きっとこう返ってくる。
「さっき説明しただろう」
実際に返ってきた。まだ何も言っていないのに。
「……すみません」
「すみませんじゃ分からん。座れ。――葛西」
入れ替わりに、窓際から葛西奏が立ち上がった。クラスで「歩く辞書」と呼ばれている男子だ。湊とすれ違うとき、葛西は何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わずに黒板へ向かった。チョークの音が、迷いなく増減表を埋めていく。x=-1で極大値2、x=1で極小値-2。
「よし。早瀬、今の見て分かったな」
湊は小さく頷いた。分かっていなかった。でも、ここで首を横に振ったら、もう一度みんなの前に立たされる。それが嫌で、首は勝手に縦に動いた。迷いなく増減表を埋めていった葛西の背中が、まぶしくて、少しだけ憎らしかった。そんなふうに思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。
席に戻る途中、窓際の白石瑠夏と目が合いかけた。白石はすぐにうつむいて、文字でびっしり埋まった小さなノートに何かを書き足していた。笑われたのかと思った。でも、その横顔は笑っていなかった。むしろ、自分のほうが叱られたみたいな顔をしていた。
◇
家は、駅から自転車で七分の「早瀬サイクル」の二階だ。一階の店から、父がスポークを張る金属音が、床越しにかすかに響いてくる。
夜十時。湊はベッドに寝転んで、スマホのAIアプリを開いた。
〈増減表がわかりません。y=x³-3xの問題です〉
送信すると、数秒で返事が来た。微分の意味。y'が「傾き」を表すこと。傾きがプラスなら上り、マイナスなら下り。丁寧な説明だった。
でも、分からなかった。「傾き」という言葉が、頭のどこにも引っかからない。
〈すみません、もう一度教えてください〉
AIは、別の言い方で説明した。グラフの絵を文字で描いてくれた。
〈もう一度お願いします〉
今度は、数字を一つずつ代入する方法。x=-2、-1、0、1、2。
四回目。五回目。
人間相手なら、とっくに「何回言わせるんだ」と言われている回数だった。湊は画面を見つめながら、少しだけ怖くなる。怖がる必要なんかないのに。相手は怒らない。分かっているのに、送信ボタンを押す指が、毎回ほんの少しだけためらう。昼間の「さっき説明しただろう」が、まだ耳の奥に残っているからだ。
〈もう一度、教えてください。ごめんなさい〉
六回目の説明は、こう始まっていた。
〈謝らなくて大丈夫です。今度は、坂道で考えてみましょう。自転車で坂を上っているところを想像してください〉
湊は、上半身を起こした。
〈上り坂ではペダルが重いですよね。これがy'がプラスの状態です。坂のてっぺんに着く瞬間、ペダルはふっと軽くなる。上りでも下りでもない、傾きゼロの一点。それがy'=0、つまり極大です。そこから先は下り坂で、y'はマイナスになります〉
――ふっと軽くなる、あの一瞬。
知っている。体が知っている。駅裏の汐見坂を毎朝上るとき、てっぺんで必ずその瞬間が来る。
湊はノートを引き寄せ、増減表を書いた。x=-1の手前は上り坂。-1でてっぺん。そこから1までは下り坂。1で谷の底。そこからまた上り。
書けた。
〈わかった! 坂道だ!〉
〈よかったです! 六回目で、ちゃんとたどり着きましたね〉
六回。湊は数えていなかったのに、相手は数えていた。それでいて、責める調子はどこにもない。
〈なんで怒らないの?〉
思わず打っていた。
〈質問は何度してもらっても大丈夫です。分からないところが分かるのは、前に進んでいる証拠ですから〉
湊はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。
分かった。うれしい。うれしいのに、胸の奥に小石がひとつ残っている。
明日の授業で、また分からないことが出てきたら。自分はまた、黒板の前で黙るのだろう。
夜中にこの画面になら言える「分かりません」が、昼間の教室では、どうしても言えない。
第二話 もう一度教えてください
同じ夜の、八時四十分。
白石瑠夏は、サンデイマート汐見台駅前店のレジに立っていた。
バイトを始めて二週間。レジ打ちには慣れた。袋の要不要も聞ける。ホットスナックの名前も、だいたい覚えた。
「これ、送りたいんだけど」
カウンターに、段ボール箱がどすんと置かれた。作業着姿の男の人。
――宅配便。
瑠夏の背中が、すっと冷たくなる。昨日、教わったばかりだ。伝票を書いてもらう。サイズを測る。重さを量る。そこまでは覚えている。でもそのあと、レジのどのボタンを押せばいいのか。画面のどこから入ればいいのか。
エプロンのポケットから、小さなノートを出す。表紙の角がもう丸くなった、自分だけのマニュアル。先輩に教わったことは、全部ここに書いてある。一度で覚えられない自分を知っているから、二度聞かずに済むように書く。それが瑠夏の、精いっぱいの工夫だった。
宅配:伝票→サイズ→重さ→
矢印の先が、空白だった。昨日、メモを取る手が追いつかなかったところだ。
男の人の後ろに、二人並んだ。
「三好さん、すみません」
フライヤーの前で唐揚げを上げていた三好さんが、振り返った。大学三年生。このお店で一番長く働いている先輩だ。
「あの、宅配便の……」
「それ、昨日も言ったよね」
ため息まじりの声だった。怒鳴ったわけじゃない。でも瑠夏には、それで十分だった。顔が一気に熱くなる。待たされているお客さんの視線が、頬に刺さる。覚えの悪い子。迷惑な新人。三好さんの頭の中で、自分がそう書き換えられていく気がした。三好さんはトングを置いて、手早くレジを操作して、伝票を処理して、お客さんを送り出した。何をどう押したのか、瑠夏の位置からは見えなかった。見せてください、とは言えなかった。これ以上、手間をかけさせたくなかった。
「次はひとりでやって」
それだけ言って、三好さんはフライヤーへ戻った。
◇
八時五十分。十分間の休憩。
バックヤードのパイプ椅子に座って、瑠夏はノートの空白の矢印を見つめていた。
――もう一度教えてください。
言えばよかった。でも、昨日も教わったのだ。二日続けて同じことを聞いたら、きっと「覚える気あるの」と思われる。思われたくない。
ふと、昼間の教室を思い出した。黒板の前で、チョークを握ったまま黙っていた早瀬くん。あの背中を見て、胸がぎゅっとなったのは、たぶん――あれが自分だったからだ。
瑠夏はスマホを出して、AIアプリを開いた。
〈コンビニで宅配便を受け付けるときのレジ操作を、もう一度教えてください〉
初めて聞く相手なのに、「もう一度」と打っていた。口ぐせみたいなものだ。言えなかった言葉が、指からこぼれた。
返事はすぐ来た。伝票の確認。サイズと重さの測り方。料金の決まり方。とても分かりやすい。でも最後に、こう書いてあった。
〈ただ、レジの画面やボタンの名前は、チェーンやお店によって違います。正確な手順は、お店の先輩か店長さんに確認するのが確実です〉
瑠夏は、思わず小さく笑ってしまった。
「AIにまで、人に聞けって言われた……」
〈それが聞けないから、ここで聞いてるんです〉
ちょっと意地悪な返事を打つ。
〈そうでしたか。同じことを二度聞くのは、勇気がいりますよね。よければ、先輩に聞くときの言い方を一緒に考えてみませんか? 私が先輩の役をやります〉
練習。そんなこと、考えたこともなかった。
〈三好さん、宅配便のやり方を、もう一度教えてください〉
〈(先輩役)いいよ。どこまでは覚えてる?〉
瑠夏の指が止まった。
〈伝票と、サイズと、重さまでは覚えてます。レジのボタンが分かりません〉
〈(先輩役)ああ、そこだけね。了解〉
〈今のやりとり、どうでしたか。ちなみに、「どこまで分かっているか」を先に伝えると、聞かれた側も教えやすくなります。全部をもう一度説明するより、ずっと短くて済みますから〉
瑠夏は、ノートの空白の矢印を見た。
さっき自分が言ったのは「宅配便の……」だけだった。どこが分からないのか、言っていなかった。三好さんにしてみれば、全部を最初からやり直せと言われたように聞こえたのかもしれない。
◇
九時十分。フライヤーの片づけをしている三好さんの横に、瑠夏は立った。
「三好さん」
「ん」
「宅配便、伝票とサイズと重さまでは分かります。レジのどのボタンかだけ、もう一度教えてください。メモします」
言い終えた瞬間、また「昨日も言ったよね」が来る気がして、瑠夏はノートを握りしめた。けれど三好さんは、少しだけ目を丸くした。
「……ああ。それなら、ここ」
レジの画面の端。「サービス」のキーを押して、その中の「宅配」。たった二回のタップだった。
「それだけ分かってりゃ、十分だよ」
ぶっきらぼうな声だったけれど、さっきのため息は混じっていなかった。
瑠夏はノートに書いた。
宅配:伝票→サイズ→重さ→サービスキー→宅配
矢印の先が、埋まった。たった二回のタップ。それを聞くのに、自分はまる一日こわがっていた。拍子抜けするような、少しだけ泣きたいような気持ちだった。
九時半、上がりの時間。制服に着替えながら、瑠夏はノートの表紙の裏に、もうひとつ書き足した。
「もう一度教えてください」は、「ここまでは分かります」とセットで。
AIは、練習には付き合ってくれる。でも、本番の相手は人間だ。今日はたまたま、うまくいった。明日も言えるかどうかは――まだ、分からない。
第三話 知りません
「ソウ、英語の小テストってどこまで?」
「レッスン4の本文と、プリントの熟語。三十問」
「ソウ、『杞憂』ってどういう意味だっけ」
「心配しなくていいことを心配すること。昔の杞の国の人が、空が落ちてこないか心配した話」
「ソウ、ブラックホールに落ちたら人ってどうなんの?」
「……ちょっと待って。トイレ」
翌朝、水曜日。葛西奏は、廊下の突き当たりの男子トイレの個室で、スマホを握っていた。
検索窓に「ブラックホール 落ちたら」と打つ。スパゲッティ化現象。潮汐力。読む。覚える。三回読む。
教室に戻って、何でもない顔で言う。
「スパゲッティ化って言うんだよ。重力の差で、体が縦に引き伸ばされる」
「うわ、こわ。さすがソウ」
さすが。その言葉を聞くたびに、胸の中で何かがほっとして、同時に何かがすり減っていく。
小学三年生のとき、担任の先生に言われた。「ソウくんは何でも知ってるね」。それから、それが葛西奏という人間の役割になった。物知りのソウ。歩く辞書。みんなが困ったら聞きに来る場所。
中学一年のとき、一度だけ「知らない」と言ったことがある。友だちは笑って言った。「えー、ソウでも知らないの? がっかり」。冗談だった。分かっている。でも、それ以来、奏は「知りません」を言わないことに決めた。知らなければ、調べてから答えればいい。トイレの個室で。図書室の隅で。机の下で。
スマホの検索履歴は、数えきれない「〇〇とは」で埋まっている。
◇
昨日の数学のことを、奏はまだ引きずっていた。
黒板の前で黙っていた早瀬湊。すれ違うとき、言いかけた言葉があった。
――俺も、増減表、最初はぜんぜん分かんなかった。
本当のことだ。一年のとき、塾の先生に三回聞き直して、やっと分かった。でも、それを言えなかった。歩く辞書が「分からなかった」なんて言ったら、何かが崩れる気がした。結局、黙って黒板に答えを書いた。早瀬を、もっと小さく見せる形で。
◇
六時間目はロングホームルーム(LHR)だった。
「えー、汐見祭の出し物ですが」
黒板の前で、文化祭実行委員の森川が頭をかいた。
「飲食は抽選で外れました。お化け屋敷は、三クラスかぶったんで調整で外れました。というわけで、ほぼゼロからです。締め切りは来週水曜のLHR」
教室じゅうから、ため息と文句が上がる。教卓の横では、担任の小野寺先生が苦笑いしていた。国語担当、二十八歳。生徒に混じって一緒に悩むタイプの先生だ。
「誰か、アイデアある人ー」
沈黙。
「……ソウ、なんかない? お前なら知ってるだろ、他の学校の面白い出し物とかさ」
森川の声は軽かったけれど、目は本気で困っていた。抽選に外れ、調整に外れ、実行委員としてずっとクラスに頭を下げてきたのを、奏は知っている。三十一人ぶんの視線が、窓際の席に集まった。
知らない。思いつかない。頭の中の辞書をいくらめくっても、何も出てこない。
「……調べとく」
「おっ、頼もしい!」
拍手まで起きた。奏は笑ってみせた。笑いながら、机の下で握った手が冷たかった。調べれば何か出てくる。いつもそうしてきた。でも今回は、検索窓に何を打てばいいのかさえ、見当がつかなかった。
◇
その夜、奏は自分の部屋でAIアプリを開いた。
〈高校の文化祭で、他のクラスとかぶらない出し物のアイデアをください〉
謎解き脱出ゲーム。手作りプラネタリウム。縁日。写真館。どれも面白そうで、どれもどこかで見たことがあった。
〈汐見台高校で過去にやった出し物を教えてください〉
少しして、返事が来た。
〈申し訳ありませんが、汐見台高校の過去の出し物については分かりません。確かな情報を持っていないので、推測でお答えするのは控えます。生徒会や先生、先輩に聞いてみるのが確実だと思います〉
奏は、その画面をしばらく見ていた。
分かりません。
あっさりと、言った。言い訳もしないで。しかも、それで頼りなくなったようには、少しも見えなかった。むしろ、適当なことを言わないぶん、信用できる気がした。
〈分かりませんって言うの、怖くないんですか〉
自分でも、何を聞いているのか分からなかった。
〈分からないことを分からないと伝えるのは、間違った答えで相手を困らせないために大切なことだと考えています。それに、「分からない」は終わりではなくて、「では誰に聞こう」「どう調べよう」の始まりでもあります〉
「……AIのほうが、俺より正直じゃん」
奏は小さく笑って、ベッドに倒れこんだ。
天井を見ながら、検索履歴を思い出す。トイレの個室で調べた、何百もの「〇〇とは」。あれは全部、誰かに「知りません」と言えばよかっただけの言葉だったのかもしれない。
知りません。
たった五文字なのに、奏にとっては、この世でいちばん重い五文字だった。
第四話 放課後の三人
金曜日の放課後、四時半。
二年C組の教室には、葛西奏しか残っていなかった。ノートには、出し物のアイデアが十個並んでいて、十個とも線で消してある。
ぶるっ、と机が震えた。
奏の机ではない。斜め前、早瀬湊の机の上に、スマホが置き忘れられていた。画面が明るくなって、通知がひとつ浮かんでいる。
〈もちろんです。もう一度、最初から説明しますね〉
見るつもりはなかった。でも、見えてしまった。
廊下を走る足音がして、湊が飛びこんできた。
「あっ、スマホ――」
奏の視線と、明るい画面と、湊の顔。三つが一度にそろって、教室の空気が止まった。
「……見た?」
「通知だけ」
湊は耳まで赤くなって、スマホをつかんだ。よりによって、葛西に見られた。クラスでいちばん、分からないことなんてなさそうなやつに。月曜には、クラス中に広まっているかもしれない。
「笑えよ。月曜の数学、また当てられそうだから、予習してたんだよ。AIに。何回も同じこと聞いて」
奏は笑わなかった。笑えるはずがなかった。火曜日、黒板の前で言えなかったぶんを、今なら返せる気がした。代わりに、自分のスマホを出して、検索履歴を開いて、湊のほうへ向けた。
「ブラックホール 落ちたら」「杞憂 意味」「文化祭 出し物 かぶらない」――指でスクロールしても、スクロールしても、終わらない。
「……何これ」
「俺の正体。だいたいトイレの個室で調べてる。水曜のブラックホールのやつも」
湊は画面と奏の顔を何度も見比べた。あの歩く辞書が。全部、その場で知っていたわけじゃなかったのか。自分だけじゃなかった。そう思ったとたん肩から力が抜けて、湊は吹き出した。
「マジかよ。歩く辞書じゃなくて、トイレに歩いてく辞書じゃん」
「うるせえ」
言いながら、奏も笑っていた。笑ったら、ずっと喉につかえていた言葉が、するっと出てきた。
「火曜さ。黒板の前で、言いたかったんだよ。俺も増減表、最初ぜんぜん分かんなかったって」
「……言えよ、それ」
「言えなかった。歩く辞書だから」
そのとき、教室の後ろの戸が、からりと開いた。
白石瑠夏が立っていた。
「あ……ごめん。ノート、忘れて」
自分の机から、角の丸くなった小さなノートを取り出す。それから、少し迷うような顔をして、二人のほうを見た。聞かなかったふりをして、出ていくこともできた。でも、火曜日の黒板の前の背中が、頭から離れなかった。ここで黙ったら、自分だけ安全な場所に逃げることになる。
「ごめん、聞こえちゃった。……私も、同じ」
瑠夏はノートの表紙をめくって、裏側を見せた。
「もう一度教えてください」は、「ここまでは分かります」とセットで。
「バイトの先輩に、同じこと二回聞けなくて。AIに先輩の役やってもらって、聞き方の練習したの」
三人は、しばらく黙って、三つの画面とノートを見ていた。
分かりません。知りません。もう一度教えてください。
三人とも、その言葉を、AIにだけは言えていた。
「AIってさ、怒らないじゃん」
瑠夏が言った。
「だから言える。……でもそれって、人間に言ったら怒られるって、みんな思ってるってことだよね」
「AIが悪いわけじゃないんだよな」
湊が、スマホを見下ろした。
「あれがなかったら、増減表、たぶん一生分かんなかった。六回聞き直して、最後に坂道でたとえてもらったんだ。坂のてっぺんで、ペダルがふっと軽くなるところが極大だって。それで、やっと分かった」
「練習相手なんだよ」
奏が言った。
「いい練習相手。でも、練習ばっかりで、本番がない」
言ってから、奏は自分の言葉に引っかかった。消された十個のアイデアが並ぶノートを、もう一度見る。
「……本番、作ればいいんじゃないか」
「本番?」
「出し物。その三つの言葉を、何回言ってもいい教室」
湊と瑠夏が、顔を見合わせた。
そこから先は、早かった。
クラスのみんなが、ひとつずつ得意なことを教える「教えますブース」。お客さんは何度「もう一度」と言ってもいい。教える側は、絶対に「さっき言ったよね」と言わない。
「俺、自転車のチェーン直すのなら教えられる。家、自転車屋だし」と湊。
「私は、聞き方の練習コーナーやりたい。AIにやってもらったのと同じこと、人間同士で」と瑠夏。
分からないことを付箋に書いて貼っていく「分かりませんボード」。
「あと、俺は」
奏は、少しだけ息を吸った。
「『知りません』って答えるブースをやる。何でも聞いていい。知らないことは知らないって言って、その場で一緒に調べる」
「――いいね、それ」
戸口から声がした。三人がいっせいに振り向くと、教室の鍵を手にした小野寺先生が立っていた。
「ごめん、戸締まりに来たら、面白い話してたから。……先生も、その分かりませんボードに貼りたいこと、山ほどあるな」
「先生も?」
「学級通信の書き方。AIに十回くらい聞き直したよ。新任のころ、先輩の先生に聞けなくてね」
先生は照れくさそうに笑ってから、少しだけ真顔になった。
「授業で『質問ある人?』って聞いても、誰も手を挙げないでしょう。あれが、ずっと気になってたの。みんな分かってるんじゃなくて、聞けないだけなのかもしれないって。……だからその教室、先生にも手伝わせて」
三人は顔を見合わせた。大人も、同じ言葉を飲みこんでいた。そのことが、なぜだか心強かった。
◇
翌週水曜のLHR。
黒板の前に立ったのは、奏だった。湊と瑠夏が、その両側に立った。
二年C組の出し物、「何度でも聞いていい教室」。説明が終わると、教室が少しざわついた。
「面白そうだけどさ」
実行委員の森川が、腕を組んだ。抽選にも調整にも外れて、もう後がない。その焦りが、組んだ腕に出ていた。
「それ、ほんとに人来んの? 成功すんの?」
二十九人ぶんの視線が、奏に集まる。
奏は、両側の二人をちらりと見た。湊が小さく頷いた。大丈夫だと言える根拠は、どこにもない。いつもなら、それらしい答えをひねり出していた。でも今日だけは、本当のことを言うと決めていた。
「……知りません」
一瞬の静けさ。
それから、教室じゅうが笑いに包まれた。意地悪な笑いではなかった。
「ソウが『知りません』って言うの、初めて聞いた!」
「レアすぎる」
「じゃあさ、一緒に成功させればよくね?」
森川が、笑いながら手を挙げた。「任せとけ」と言われるより、ずっと肩の力が抜けた顔だった。続いて、ひとり、またひとりと手が挙がる。
奏は、黒板の前で、ずっと重かった五文字が、ふっと軽くなるのを感じていた。坂のてっぺんで、ペダルが軽くなる、あの瞬間みたいに。
第五話 何度でも聞いていい教室
十月の第二土曜日。汐見祭、当日。
二年C組の戸口には、模造紙に手書きした看板が貼られていた。
何度でも聞いていい教室
一、「分かりません」と言っていい。
二、「知りません」と答えていい。
三、「もう一度教えてください」は、何回言ってもいい。
(教える人は「さっき言ったよね」禁止)
午前中は、正直に言って、ガラガラだった。
「……やっぱ地味だったかな」
森川がけん玉を手持ちぶさたに揺らす。教室の中には、折り紙、英語の発音、けん玉、編み物――クラスのみんながひとつずつ持ち寄った「教えますブース」が並んでいる。黒板には「分かりませんボード」。付箋は、まだクラスの誰かが試しに貼った三枚だけだった。言い出したのは自分たちだ。このまま誰も来なかったら。その不安が、湊と奏と瑠夏の口数を、少しずつ減らしていた。
流れが変わったのは、昼前だった。
小学生の男の子が、母親の手を引っぱって入ってきたのだ。そして看板を読み上げて、言った。
「なんかいも聞いていいの? ほんとに?」
◇
男の子は、健太と名乗った。小学二年生。座ったのは、奏の「知りませんブース」だった。
「なんで空は青いの?」
「太陽の光の中で、青い光がいちばん空気にぶつかって散らばりやすいから」
「イカの足って何本?」
「十本。そのうち二本だけ長いんだ」
「お兄ちゃん、すごい! じゃあさ、この学校って、七不思議ある?」
奏は、少しだけ間を置いた。
トイレには行かなかった。
「知りません」
健太の目が、まんまるになった。がっかりされる、と一瞬思った。けれど健太は、身を乗り出して言った。
「お兄ちゃんでも知らないの! じゃあ、いっしょにしらべよう!」
二人は「分かりませんボード」に付箋を貼った。〈汐見台高校の七不思議が知りたい〉。すると、通りかかった卒業生らしいおじさんが立ち止まって、笑いながら言った。
「それなら、六つまでは知ってるよ。七つ目は、俺の代でも誰も知らなかった」
健太が歓声を上げた。奏も、声を出して笑った。知らないことを口にしたら、話は終わるどころか、勝手に広がっていった。
昼を過ぎると、ボードの付箋は一気に増えた。
〈スマホの文字を大きくする方法が分かりません〉
〈なんで1は素数じゃないのか、分かりません〉
〈中学生の息子と、何を話せばいいか分かりません〉
誰かの付箋の下に、別の誰かが答えの付箋を貼っていく。答えがつかない付箋も、たくさんあった。それでよかった。
◇
瑠夏の「聞き方練習コーナー」に、見覚えのある背の高い人が座った。
「……三好さん?」
「店長がレジ横にチラシ貼ってたからさ。白石が頼んだんだろ」
三好さんは、机の上の練習カードを一枚手に取った。〈もう一度教えてください〉と書いてある。
「これ、練習していい? 言う側じゃなくて、言われる側の」
瑠夏が、目をぱちくりさせた。
「最初のころさ、白石に『それ、昨日も言ったよね』って言ったろ。あれ、俺がこの店に入ったとき、前の店長に毎日言われてた言葉なんだよ。言われて嫌だったくせに、気づいたら同じこと言ってた。そのあと白石が『ここまでは分かります』って聞いてきたとき、はっとしたんだよ。全部やり直せって言われてる気がして、俺が勝手にいらついてただけだったんだなって」
瑠夏は、すぐには何も言えなかった。あの夜、自分は迷惑な新人だと思われていると信じこんでいた。先輩も、同じ場所で、同じ言葉に傷ついていたなんて、考えたこともなかった。三好さんは、カードを瑠夏のほうへ向けた。
「だから、練習させて。白石、言ってみて」
瑠夏は、少しだけ笑って、背筋を伸ばした。
「三好さん。廃棄の登録、時間の確認まではできます。そのあとの入力を、もう一度教えてください」
「――いいよ。どこまでは覚えてる?」
あの夜、AIが先輩役で言ったのと、同じ言葉だった。瑠夏は、それがなんだかおかしくて、うれしくて、ノートで顔を半分隠した。
「月曜からも、何回でも聞いて。俺も分かんないときは店長に聞くから」
◇
三時過ぎ。湊の「自転車ブース」は、父に借りた自転車と工具で、ちょっとした人だかりになっていた。
その人だかりが、ふっと割れた。
「早瀬」
数学の権藤先生だった。
湊の背中が、九月のあの日みたいに固まる。何をしに来たのだろう。出し物にケチをつけに来たのか。戸口の看板の三つのルールが、急に頼りない紙切れに見えた。先生は、自転車のハンドルに手を置いて、ぼそりと言った。
「俺のロードバイクな。汐見坂で、毎朝のように前のチェーンが外れる。直し方を教えろ。……小野寺先生から、ここは何回聞いてもいい場所だと聞いた」
湊は、唾を飲みこんだ。
「……チェーンを、前のギアの下のほうの歯に引っかけます。後ろのタイヤを少し浮かせて、ペダルをゆっくり前に回すと、勝手にはまります」
権藤はやってみた。チェーンはするりと外れて、床に垂れた。
「……もう一度……教えてくれ」
権藤の口から、その言葉が出た。教室の何人かが、息をのんだ。湊は、先生の耳が少し赤くなっているのに気づいた。生徒の前で、できないところを見せている。九月の黒板の前の自分と、同じだ。だったら、自分が言われたくなかった言葉だけは、絶対に言わない。
湊は、もう一度説明した。今度は、引っかける歯の位置を指で示しながら。先生の手つきは、まだぎこちない。チェーンは、また外れた。
「もう一度だ」
三回目。湊は、ふと瑠夏のノートの言葉を思い出した。
「先生。引っかけるところまでは、できてますか」
「……ああ。そこまではできてる」
「じゃあ、回すところだけです。速すぎます。坂のてっぺんみたいに、ペダルが軽くなるところまで、ゆっくり」
権藤が、ゆっくりペダルを回した。かちり、と小さな音がして、チェーンが歯車に収まった。
人だかりから、拍手が起きた。
権藤は、しばらく自転車を見下ろしていた。それから、戸口の看板のほうへ目をやった。
「三回聞いたな」
「ここは、何回でもいいんです」
「……俺はな。『一度で覚えろ』と言われて育った。だから生徒にも、同じことを言ってきた。それが厳しさだと思っていた。……だが今、三回聞いて、やっとはまった。一回で覚えろと言われていたら、俺は今ごろ、この自転車を蹴飛ばしてる」
権藤は、湊を見た。
「九月に、黒板の前で黙ってたな。俺はてっきり、話を聞いてなかったんだと思っていた。……あれは、分からなかったんだな」
湊は、まっすぐ先生を見返した。
「はい。分かりませんでした」
あのとき言えなかった六文字は、思っていたよりずっと、すんなり出た。
「今は?」
「分かります。坂道で考えたら、分かりました」
「坂道?」
湊は説明した。上り坂はy'がプラス。てっぺんでペダルがふっと軽くなる一点が、y'=0の極大。そこから先は下り坂。
権藤は黙って聞いていて、最後に、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……それ、授業で使っていいか」
◇
夕方五時。一般公開が終わった教室で、三人は「分かりませんボード」の前に立っていた。黒板は、色とりどりの付箋で、ほとんど隙間がなかった。奏は、自分の検索履歴より、この黒板のほうがずっと好きだと思った。ひとりで調べた答えは誰にも見えないけれど、ここでは、分からないことそのものが、人と人をつないでいる。瑠夏は、付箋を一枚残らずノートに書き写したい気持ちを、こっそりこらえていた。
湊は、スマホを出して、AIアプリを開いた。
〈今日、人に「分かりません」って言えた。人に、三回教えた〉
〈それは、本当によかったです。何度も練習した言葉が、ちゃんと本番で届いたんですね。これからも、聞きたいことがあれば、いつでも聞いてください〉
湊は、画面に向かって小さく頷いた。
ありがとう、と打ってから、スマホをポケットにしまう。今日はもう、こっちに聞きたいことがあった。
「なあ、打ち上げ、どこ行く?」
「知りません」
奏が、得意げに言った。
「それ、もう言いたいだけでしょ」
瑠夏が笑った。
「じゃあ、みんなでもう一度決めよっか」
◇
汐見祭の翌日は日曜日、その次の月曜日はスポーツの日。
二日続いた休みが明けた、火曜日の五時間目。
権藤先生は、黒板にゆるやかな坂道の絵を描いた。
「増減表は、坂道で考えろ。……早瀬に教わった」
教室がどっと沸いた。湊は、耳まで赤くなって机に突っ伏した。
授業は、新しい単元に進んだ。黒板の数式が、少しずつ難しくなっていく。途中で、湊の手が止まった。
怖くないわけじゃなかった。三十一人の前だ。でも、黒板の坂道の絵が、背中を押していた。喉のすぐそこまで来た言葉を、今度は飲みこまなかった。
湊は、手を挙げた。
「先生。ここまでは分かります。ここから先が、分かりません」
チョークを持ったまま、権藤先生が振り返った。
「よし。どこからだ」
窓際の席で、奏が小さくガッツポーズをした。自分が手を挙げたみたいに、心臓が鳴っていた。瑠夏は、ノートの新しいページに、今日の日付を書いた。次のバイトでも、ちゃんと言ってみよう。そう決めた、しるしだった。
窓の外では、もう蝉は鳴いていなかった。秋の高い空の下、何度でも聞いていい季節が、静かに始まっていた。




