いつか、思い出になる
「ルーベンよ……また来たのか」
じっとりとした視線を受けて、ルーベンは乾いた笑いを返すのが精一杯だった。
呆れた様子を見せているのは、ルーベンの父親である。
彼はとっくに家督をルーベンに譲り、領地の片隅に建てた屋敷に隠居している。
年老いて多少の不自由はあるものの、しかし世話をする使用人の数は足りているので多少の不自由を楽しむ余裕はある。妻は既に先立ってしまったが、だからこそ亡き妻との思い出を懐かしみ、ひっそりと、それでいて悠々自適に日々を過ごしているのだ。
「わざわざこっちに来なくとも、お前は妻との仲を改善せい」
「改善、と言われましても……」
「ふん、だから言っただろう。優先順位を間違えるなと」
鼻を鳴らし、彼は息子へ呆れる視線を隠す様子もない。
ついでにバカ息子が、と吐き捨てた。
ルーベンの妻であるイリーナとは、夫婦仲が冷え込んでいる……というわけでもない。
もっとあからさまにギスギスしている夫婦なんていくらでもいるし、表面上を取り繕っていても察するに余りあるようなのだっていくらでもいる。そういったものと比べればルーベンとイリーナの仲は、悪くはないのだろう。
ゼロかマイナスかの違いを比べる事に意味があるのかはわからないが。
二人の婚約を決めたのはルーベンの父であり、またイリーナの父である。
つまりは、当時の家の当主だ。
家格に差がなく、利はそこそこ。莫大な利はないが、不利益につながるようなものもない。下手に欲をかいて身を滅ぼすよりは……と互いの家同士での話し合いで決められたものだった。
互いの第一印象は悪くなかったはずだ。
だからこそ、互いの父親はこのままいけば上手くいくと思っていたのに。
けれどルーベンは、イリーナと親睦を深めるための時間を別の事に費やした。
婚約を結んだその時から、余った時間を全てイリーナへ使えというわけではない。
婚約者以外の人間関係を疎かにすれば、成人した後の人間関係に悩む事になるのは明らかであるし、人脈は無いよりはあった方が断然良い。
重要なのは優先順位だ。
それをルーベンの父は教えたはずなのに、この男はその優先順位を見誤ったのである。
当時、ルーベンには幼馴染がいた。
年の近い、可愛らしい少女。
そんな少女の名をソレンヌといった。
彼女はルーベンの家の爵位より一つ下で、けれども家同士の親交はあった。
ただ、その関係も少し前に途絶えている。
関係が決裂したというわけではない。
純粋に向こうの家が物理的に遠くへ行ってしまったから、関わりようがなくなったというだけの話だ。
ソレンヌは元々身体があまり頑丈ではなく、更に幼い頃に事故に遭って足が不自由だった。
歩けてもほんの少しだけ。だからこそ、ソレンヌの世界は彼女の暮らす屋敷の限られた極僅か。
自分の部屋と、そこからちょっとだけ、という本当に小さな行動範囲。
部屋を出るにしたって、使用人が車椅子に乗せて移動を任せなければいけないくらいで。
そんな娘のために彼女の両親は色々奔走していた。
まだ自分の足で歩けていた頃の知り合いかつ近くにいたのがルーベンで。
ソレンヌにとって友人と呼べるのは彼だけだった。
事故に巻き込まれた結果、自由に歩く事もできなくなってしまった事には同情する。
それは、ルーベンもそうだったのだろう。
婚約者との逢瀬を重ねるよりも、幼馴染を優先してしまった。
後になってから知ったが、市井には幼馴染を優先するあまり婚約者を蔑ろにし、最終的に婚約を破棄されその後の人生から転落しお先真っ暗になる話、というものが存在しているらしかった。
一歩間違えていたら、ルーベンもそうなっていたかもしれなかった、と考えた時には既に妻は亡くなっていたけれど、生きていたならきっとルーベンは母親からいい年して説教をされていたに違いなかった。
外に出る事もままならない身であるからこそ、ソレンヌはまるでお伽噺に出てくる妖精や精霊といった、ふと目を離した隙に消えてしまいそうな儚さがあったのは否定しない。そんな少女に、寂しいの……と友として頼られた事に有頂天……とまではいかなくとも、まぁ舞い上がってしまったのだろうなとはわかるけれど。
一歩間違えていたらイリーナの家から婚約解消を求められていたっておかしくはなかった。
市井に出回っている娯楽小説の内容を、ルーベンの父は自分で調べたわけではない。ただ使用人との世間話から知ったに過ぎない。使用人の家の子どもがそういった物に夢中なのだそうだ。
そういった娯楽小説にありがちなのは、婚約者よりも幼馴染の方が自分を頼ってくれるだとか、至極どうでもいい自尊心をくすぐるだけで勝手にそちらを妻にしようと目論んだりするものだろうか。
家同士の政略結婚を軽んじるような者は最終的に家を継ぐ資格を奪われ、落ちるところまで落ちていくだけだというのに。
……まぁ所詮は娯楽小説。作り話だ。いくら現実離れしていたとしてもそういうもので済む。むしろ下手に現実味のある場合は実際にあった話として噂されて、知らぬ間にあの家がそうなんだとか思われても困る。
劇だって観客席のどこから見てもわかりやすいよう多少大袈裟な動きをする事があるわけだし、創作にだってそういう部分は存在する。
だからその手の話に出てくる男がどれだけ愚かであろうとも、そういうものとして受け流す事はできる。
ただ、その愚かな男になるかもしれなかったのが自分の息子となれば話は別だ。
実際そうならなかったとはいえ、なりかけ状態だったと知ってからはそれはもう息子を見る目も冷ややかになろうというもの。
何かあれば幼馴染の元へ馳せ参じていたバカ息子は、見捨てなかったイリーナにもっと強く感謝しそれを言葉と態度に出すべきである。
なんだったかな……と男は思い返す。
身体の弱いソレンヌがいつ儚くなるかもわからないから、今のうちに思い出を作っておきたいんだ、だったか。
命を持ち出されれば、イリーナとて強くは言えなかっただろう。
最初からイリーナは幼馴染よりも自分を優先しろなんて言ったわけではない。
というか、会う予定の日に何度もそう幼馴染の元へ行くのであれば、わざわざ会ってから行くよりももっと早くに連絡してくれればお互い無駄な時間を消費しなくて済むとまで言っていたくらいだ。
幼馴染の元へ行くなとも言わなかった。
娯楽小説の中の愚かな男のようにルーベンがソレンヌと添い遂げようと思っていたのなら話は違っていたけれど、ルーベンだって理解はしていた。仮にイリーナとの婚約がなかった事になったとしても、ソレンヌと結ばれる事などないと。
身体の弱い娘と結婚したところで跡継ぎを作る事は至難の業。
それでもソレンヌを、と望むようならルーベンは確実に跡継ぎの座から退く形になっていただろう。
それが理解できない程愚かではなかった。そこは、少しばかり良かったと思うべきなのかもしれない。
顔を合わせてもすぐに謝罪と共に幼馴染の所へ行くルーベンに、イリーナは毎回それを見送る形となっていた。報告されていたので知らないわけではない。
婚約を解消するのなら、と話を持ち掛けた事もある。
ただイリーナがそれを望まなかったから婚約は継続されていたし、結果として結婚へと至った。
ルーベンも娯楽小説にありがちな、初夜の時点で君を愛する事はない、なんぞというセリフを吐いたわけでもなく、きちんと初夜は行われた……という報告は受けた。
そしてその後、イリーナは見事に子を宿し跡取りとなる子を産んだ。男にとっての孫は元気にスクスクと育ち、時折男のところにも顔を見せにきてくれた。会いにこれなくとも、手紙を書いてくれるので祖父としてもにっこりである。
正直男からすれば、このバカ息子よりも孫との距離感が丁度いいくらいだ。
ルーベンとイリーナが結婚して間もなく、ソレンヌの家は海の向こうにある医療の最先端とも言えるべき国へ移住した。物理的に離れたのでルーベンが気安く会いに行く事はもうない。
ソレンヌとて、別にわざわざルーベンが婚約者と会う日を見計らって邪魔をしていたというわけではないのだ。ただ、寂しいから暇なときは顔を見せに来てね、と、そういう感じだった。それを何を思ったのか、婚約者との逢瀬をぶっちぎってルーベンがやらかしていただけだ。
次の跡取りもいる事だし、このバカ息子がいつ不慮の事故や突然の病気で命を落とすのか……なんて考えてしまうのも無理はなかった。イリーナがそれをやらかしたとしても、男は彼女を責めるつもりは一切ない。
結婚をした。子供も生まれた。
そしてその子は元気にスクスク育っていった。
だがしかし、その合間でイリーナの父が病に倒れた。イリーナは家を切り盛りしながらも、度々生家へ戻り見舞いや看病をしていた。目の回るような忙しさだっただろう。男も何度か様子を見に行った事がある。
まぁ、すぐ死ぬようなものではなかったので、少々痩せたとは思うが存外元気ではあった。向こうが男が見舞いに来た時だけハッタリをかましていた可能性もあるけれど。
ルーベンは、そんなイリーナにそう何度も家に帰られたら外聞が悪い、というような事をのたまったらしい。
けれどイリーナからすれば、父親が死んでしまうかもしれないのだ。今はまだ良くとも、いつ状態が急変するかなんて誰にもわからないのだから。
その時になってイリーナに言い返されて、そうしてルーベンは自分が思っているよりも自分はイリーナにとって重要な存在ではない、と気付いたのかもしれない。
家族でもない幼馴染の看病にあれだけ行っていたのだ。
実の家族の看病に行くのを咎められる理由はない。
それに、いつ死ぬかもわからないのなら、生きているうちにできる事はしたい。
死んでから、ああすればよかった、もっとこうしていればよかった、と後悔するよりは精一杯今の時間を大切にしたいのだ――と、イリーナに言われてしまえばルーベンとて帰るなとは言えなくなる。
言ってしまえば、ルーベンがイリーナを置いて何度も幼馴染であるソレンヌの元へ通っていた事を突かれるのは間違いないのだから。
そうしてイリーナは更に告げたのだ。
ルーベンの父も年齢の事もあるが、最近体調がよろしくないのだから貴方も今のうちに家族と過ごす時間を大切になさいませ、と。
ルーベンは別に父親の看病だの見舞いにくるつもりはなかったのだろう。男も別に来てくれなんて言った事はないし、思った事もないので来られたところで正直な……と思っている。
だが今の今までソレンヌの元にああも足しげく通っていたのだ。
幼馴染でそれなら、実の父親にも同じかそれ以上……とイリーナに暗に言われたのかもしれない。
他の友人や家族に対しても同じ熱量ならいいが、そうでなければソレンヌだけが特別だったという事になる。
そうなれば、不貞していたと思われたっておかしくはない。
ソレンヌの身体が本当に弱くて間違いを犯せない事は明らかだったから糾弾されるような事になっていないだけで。
「言ってしまえば今のお前は自業自得だ。その自覚がなくともお前はイリーナを軽んじていた。それが今そっくりそのままお前に返ってきただけに過ぎん」
男が死んで、イリーナの家の両親も儚くなって……そうして身近に天へ招かれるような者がいなくなればイリーナもようやくルーベンに向き合おうと思うかもしれないが、今の時点では無理だろう。
恐らく、マトモに向き合うのはもっと先。ルーベンの息子が成長し家を継いで、ルーベンとイリーナが隠居生活を送る頃にようやく……なんて可能性がとても高い。
「ま、死ぬ前にはイリーナもお前さんと多少は向き合ってくれるだろうよ。
そこまで待てないなら、どれだけ醜態を晒そうとも誠心誠意詫びて詫びて詫び続けるしかなかろうな」
少なくともルーベンが無意識にイリーナを軽んじていた年数分の二倍くらいはルーベンも同じように扱われる覚悟は持て、と告げれば、ルーベンの表情は情けなく歪み、そんなぁ、と情けない声がしたのだが。
娯楽小説に出てくる破滅する男よりはマシだろうよ、と男はギリギリ息子に聞こえない声で独り言ちるだけだった。
イリーナに復讐をしているという考えはありません。
次回短編予告
辛い状況に女はある雨の日、川に身を投げ命を絶った。
しかし次の瞬間、彼女は時を遡っていた。
どうしてそんな奇跡が起きたのかはわからないけれど、今度はあんな終わり方を迎えたりはしない。
次回 やがて、千年王国となる日まで
あの人の願いを叶えたいだけなのです。




