【アップ✨】2026年6月28日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります☕️
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(ユメノ記)
https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Z5gDkRk_l-E&ra=m
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12971784737.html
聖書と讃美歌も閲覧できます。お気軽にお立ち寄りください(^^♪
聖書
『イザヤ書』(第二五章一〜一〇節)
『ルカによる福音書』(第一八章一〜一〇節)
(参照)
『マタイによる福音書』第五章三〜一〇節)山上の垂訓
讃美歌〜♫
讃美歌500番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=o78OnOu-FtQ&ra=m
讃美歌333番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=tAg_uKTfjM4
2026年6月28日 礼拝説教 聖書箇所
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰 を見いだすだろうか。」
ルカによる福音書18章8節
まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 豪雨を逃れる避け所 暑さを避ける陰 となられる
イザヤ25章4節
はじめに
「神の正義か、人の不義か」、今日、混沌とした世において私たちの叫びが聞き入れら れているか。主イエスの「やもめと裁判官」のたとえから、私たちの祈りにおける「神の真実」を 学び直したい。「祈りの人」として遣わされた御子の「祈り」に近づく者とされたい。
1
【たとえの目的:“絶えず祈らなければならない”ことを教えるため】「気を落とさず」落胆 せず、祈るためには何が必要か。「主」イエスは、ゲツセマネの園で「誘惑に陥らぬよう、目を覚 まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」と弟子たちに命じられた(マタイ26章41 節)。絶えず祈ることが困難であり、また、その必要を覚えることに乏しいとすれば、それは、私 たちの肉体の弱さをまず上げることができる。祈りの「体力」は、どこから出てくるのか。
2
【何故、「裁判官の不正」は問われないのか?】「主」イエスは、そのために、わざわざ、 「不正な裁判官と一人のやもめ」をたとえとする。本来「正義の神」が裁くはずでありながら、 「ある町に」いた、「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」が裁く。つまり、本来、 人を裁く資格のない人が「裁判官」である。「ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官の ところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」。善良な裁判官であ れば、その訴えを聞いて、何らかの対応をするはず。しかし、この「裁判官は、しばらくの間は取 り合おうとしなかった」。「しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思 わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう、さ もないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いなさい』」 人の不義は、神を「不正な裁判官」のように取り扱う。しかし、「主」イエスは、ここで、「不 正な裁判官」の「不正」を問題にしていない。ここに、この「たとえ」の不思議がある。むしろ、 「主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい』」とある。つまり、自分の不義を 認めながら、やもめの訴えを聞くのもの、神の正義のためではなく、自分の保身のためだという理 由を聞きない、と言われる。「主」が問うておられるものは「何か」。人間の言い訳が、いかにい いかげんなものであるか、ではないか。結局、私たちは「自分のため」ならば、貪欲の罪を重ねて も、獲得しようとするのではないか。つまり、人の不義は際限なく、「祈り」つまり「神」を不要 する不義(罪の思い)を重ね続けるものではないか。
3
【正義の神が、御自身の民の祈りを聞かれる時はいつか?】「主」イエスは、「一人のやも め」を「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と言い換える。ここに、わたしたちは、恥ずか しくなるほどの皮肉を感じ取ることができるのではないだろうか。わたしたちは、「不義」を「不 義」と言えるほどに、自分の側に、祈りにおいて神にゆだねる「正義」を持ち合わせてはない。 「裁き」は、「正義とする」「復讐する」と訳される。つまり、そこには、正当な理由が要求され る。わたしたちの「言いぐさ」は、多くの場合、理由がない。それは、「欲望」のまま、「肉」の ままである。それでは、どのようにして、「不義の世」「不義の私」の中に、「神の正義」が立ち 得るのか。それが、「祈り続けること」の理由ではないか。「祈り続けること」の中で、私たち は、自分の選びの根拠が、ただ、十字架の「主」キリストの中にあることを認め、この私が、「憐 れみの器」(ローマ9章23,24節)として、神の豊かな栄光を示されている「祈る者」であることを 認め始めるのではないか。ただ信仰は、神の正義の中に立つ「祈り」に至る道を備える。
おわりに
「主」は「弱い者の砦」。「神は速やかに裁かれる」御方。「しかし、人の子が来る 時、果たして地上に信仰を見いだすか」。その日を遅らせず、「一人も滅びないで皆が悔い改める よう」、わたしたちのために忍耐しておられる(ペトロ二3章9節)御方を「正義」とし、祈ろう。
(Mynote)
二〇二六年六月二八日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「第7の戒めでは、何が禁じられていますか。」
「心の思いと、口の言葉と、行いに於けるあらゆる不潔を慎む為に、不道徳な情欲を生み出す、あらゆる淫らな言葉、下品な歌、酒に身を持ち崩したり、暴飲暴食をする事、悪意を抱いたり、悪い交際を持つ事を避けることです。」
行いは心から出る。先ず信仰に於いて、心を清くする事、これは人が自力で清く出来るのではなく、信仰に依り、神様に清くされる事、この事が大事である。自分の言葉は自分の耳に一番近く、一番正直に聞こえるものである。心の内側を、その言葉を言う自分が本来知って居る。しかし欲望・感情に覆われるとその心が見えず、譬え間違った事を言っててもそれを正しいと信じ、更に過信して落ち着こうとし、その間違いを他人に強要しようとする。信仰が正しくなければこの様に、罪人ながら間違った事をすぐ犯すのが人間である。常に心を正しい進化に向け、神様とイエス様の前で「自分がその時どう在るか?」を知る事、この知恵と知識は神様と自分の間で生まれ教えられ、その正しい信仰から与えられる。
(公同礼拝)
『イザヤ書』(第二五章一〜一〇節)
『ルカによる福音書』(第一八章一〜一〇節)
この両箇所は、今この地上で苦しめられて居る人達、余りに不条理な目に遭い、命を落とした者達、負傷させられた者達、その出来事の所為で絶望した者達の為の、神様とイエス様が全ての人に教えた救いの箇所である。
人は、生死を基準に幸不幸を決める。先ずこの点に信仰とのズレがある。信仰はこの地上の苦しみ・生死を超えた救いを全ての人に何度も教え、天の御国、即ち天国で与えられる永遠の命への約束(イエス様が十字架に付けられ死にて葬られ、三日目に甦られ、天に上り、全能の父なる神様の右に座し給われた事に依る、罪人の内からの救い、即ち天国での永遠の命と救いに与る事の確約)を基準とし、この事を先ず信仰に歩む者は心の礎に置かねば成らない。信仰に依る生が成らないのである。
この世で全ての人は死ぬ。その死ぬまでの過程は既知の事に在り、寂寥、孤独、不安、恐怖、苦痛が在り、またそれ等を連想出来る。しかしその本人と神様の間の事は他人に見えず、どんな救いと愛と恵みが在るかを知らない。個人の信仰は、それぞれに試され、そのとき他人の信仰との関わりは無く、その人だけの信仰の在り方が問われる事になる。詰り、この世で人の目と心にどんなに悲惨に見える事件・事故によりその被害者が悲惨に見えても、その被害者と神様の間に救いと愛による恵みがある事、天に於ける永遠の命に与る事、譬え地上で会えない様になっても必ず天国で再び会える事、この事をどれほど知る程に信じられるか?本気で信じる事が出来るか?この事が全ての人それぞれ一人一人に問われる。
全ての人は罪人である。この時イエス様は「不義な裁判官」をわざわざ例えに引用し、弟子達を始め全ての人にその例え話の真意を教えた。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官が居た。ところが、その同じ町に一人のやもめが居て、彼のもとに度々来て、『どうぞ、私を訴える者を裁いて、私を守ってください』と願い続けた。彼は暫くの間聞き入れないで居たが、そののち、心の内で考えた、『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめが私に面倒を掛けるから、彼女の為になる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやって来て私を悩ます事が無くなるだろう』」。そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言って居る事を聞いたか。まして神は、日夜叫び続ける選民(信仰に生かされる者達)の為に、正しい裁きをして下さらずに長い間そのままにして置かれる事があろうか。あなた方に言っておくが、神は速やかに裁いて下さるであろう。しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうか」。(『ルカによる福音書』第一八章二〜八節)
この裁判官もこの世の地上の人、他の人間と変わらない。罪人であり、他の良く見える人達も同じく罪人である。見方によればこの裁判官は罪に正直に見え、この正直は全ての人の罪の告白とも受け取れる。詰り、他の誰でも、この不義な裁判官と同じ事をする傾向があり、この可能性が有ると言う事はそれは「在る」と言う事。
この世では冤罪が起こる。これも罪人ゆえの過ちを犯し易い人の所業に在る。そして裁判官でも普通に罪を犯す事がある。これも罪人だからだ。逆に悪人が裁判官になる事もあり、独裁政治の下では神様が人に教えた正義を曲げた偽正義を判断基準にし、冤罪をも含む間違った裁判を平気で行い落ち着く。
人はどうでも人の常識、合理、習慣、正義、論理・倫理から、それ等を基準・土台にして信仰を裁く事がある。信仰は人基準でなく、神様の基準に在る。この点を憶える必要がある。この人の世に神秘がある。これは人が自然と対峙して、分からない部分(その内実)である。人は自分に就いても説明し尽せず分からない。神様がその全ての事をご存知である。その神秘の内に、神様が初めからその人を愛して創られた通りにその人を救い、憐れみ、天の御国へ引き上げ、ご自分の身元に置かれる事、この被害者にとって人として最大の救いが在ると知る程に信じる事、これはクリスチャンにとって大きな希望であり救いである。
そして神様は悪人を裁かれる。それは速やかであり、人の目と心に映らぬものである事もある。その事は神様のなさる事に在り、他の人はただ自分の信仰に歩まされ、神様とイエス様の身元に辿る為の努力が必要となろう。信仰とは格闘である。生きる事との格闘であり、神様の側から何が何でも離れず、その為の信仰を保つ事との格闘である。これが聖書に言われる試練に在ろうか。
しかし、この人の世の不条理、悲しみ(哀しみ)、あらゆる絶望に於いて、神様に向き合う事は幸いである。神様に本気で向き合い、イエス様に本気で向き合い、神様がイエス様を通して全ての人に教えた正しい信仰に本気で向き合うからだ。
「心の貧しい人達は、幸いである、天国は彼らのものである。
悲しんで居る人達は、幸いである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人達は、幸いである、彼らは地を受け継ぐであろう。
義に飢え乾いて居る人達は、幸いである、彼らは飽き足りる様になるであろう。
憐れみ深い人達は、幸いである、彼らは憐れみを受けるであろう。
心の清い人達は、幸いである、彼らは神を見るであろう。
平和を作り出す人達は、幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義の為に迫害されて来た人達は、幸いである、天国は彼らのものである。」(『マタイによる福音書』第五章三〜一〇節)山上の垂訓)
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Café~
「間をとること」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/02/10
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=EdHTWhuZHac
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop
ユメノ記
https://www.youtube.com/@%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%A6%E3%83%A1-v5x/videos
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬




