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黒檀の縁 — 忘却を織る少女

作者: kenta
掲載日:2025/10/18

第1章 黒檀の縁

夜は鉛のように重く、町の瓦屋根を静かに押しつぶしていた。街灯はまばらにしか点かず、歩道に落ちる影は長く、夜の温度まで奪っていくかのようだった。ルナは家の戸口に立ち、指先で火打石の欠片を撫でた。冷えた金属は、彼女の掌の震えを和らげるものではなく、ただ確かにある実感を与えるだけだった。

家の中は二階建ての古い民家で、柱や梁に歳月のシミが深く刻まれている。母が使っていた縫い針箱はまだ居間の隅にあり、糸の端が静かに絡み合っていた。父はもうろうとした目で酒器を磨くふりをしていた。彼の指先は振動を帯び、何かを取り戻すことを諦めたように動いていた。ルナは父の背を見つめ、言葉にならぬ沈黙を交換した。

外套を被ると、町外れに向かう細い道が淡く浮かんだ。黒檀の森へ続く道は、本来見えないはずの古い轍を辿るかのように現れた。村の古老は、夜にその道を目にした者は滅多にいないと言う。見ることで何かを呼び寄せると彼らは囁いた。だがルナの胸の中にある穴—それは夜毎に広がる—は、躊躇を許さなかった。

空気は湿っていて、呼気が白く形をなした。足は枯れ葉を踏み、軋む音がするはずなのに、森に入ると音は吸われる。枝は無表情に空を刺し、樹皮の縦割れは年輪の数とは別の時間を語る。黒檀という名は実体の色を示すためではない。木々は光を食らい、色を抑え、周囲の気配を濾してしまう。森は意識を持たぬ生き物のように、訪れる者を検査する目を持っていた。

塔の残骸が視界に入ると、心臓の鼓動は冗長に高鳴った。石の面は苔と黒色の藻に覆われ、刻まれた紋様は半ば摩耗しているが、微かな規則性が残っていた。塔の根元にかがむ老人は、まるで時間から零れ落ちたかのように薄く紙のような肌を持っていた。彼は微笑み、その笑みは暖かくもあり、同時に何かを奪う乾いた音を伴っていた。

「来るべき者は来た」その声は空気の振幅を変え、葉の間に隠れていた小さな音が一斉に止む。ルナは一歩、また一歩と進み、言葉を探したが胸が引き攣るだけで何も出てこなかった。老人は小さな黒檀の鏡を差し出した。鏡面は色を吸い込み、見る者の顔を返さない。代わりに、忘れかけた場面の縁取りを映し出す。

代価が必要だという説明は不要だった。ルナは自らの空洞を満たすため、声を差し出す。声は安らぎと抗議、嘘と本当を運ぶ媒体である。声を失うことは世界との縁を一本切ることを意味していたが、彼女は躊躇しない。鏡に手を触れた瞬間に、過去はねじれ、母の笑いは色を変え、夜の輪郭は歪んだ。

帰路は消えた。黒檀の森は新たな均衡を埋め込み、ルナの出した代価と引き換えに、欠片を磨き直す手触りを与えた。村の夜に新しい歌が混じるようになったとき、すでに彼女は別の世界へと移っていた。


第2章 沈黙の代償

声を失ったことは、最初のうち単純な不便に過ぎなかった。笑い声が出ない、咳が出ない、耳に届く自分の声の反響が消えるという物理的な喪失。だがその不在はやがて彼女の内面を侵食し始める。声は単なる音ではなく、思考の輪郭を与える装置でもある。語るという行為は、考えを外形化して確かめるプロセスだ。ルナは言葉を紡げないことで、自分の感情や判断を捉える手がかりを失っていった。

鏡の向こうでは、母が現実より滑らかに動いていた。そこでは視覚と触覚が相対的に強化され、言語が欠けている代わりに、指先の交流や編み物のリズムが意思を伝えた。鏡の中の時間は密度が異なり、瞬間は切断されてはつながり、彼女はその中で自分の存在を再構築していった。だが再構築は完全ではない。鏡の世界は外側の世界の法則をなぞるが、細部においては別の論理を持つ。ルナはそのずれを少しずつ学んだ。

村では、父の酒癖が悪化した。記憶の欠片が返って来たことで、彼は古びた感情に触れ、痛みを再生してしまった。酒で痛みを麻痺させる日々がルナの居場所を消していった。だが父はまだ時折、台所の戸口で止まり、誰かに語りかける素振りを見せる。言葉は湧かないが、彼の顔には何かを求める緊張が走る。村人たちはルナの不在を妙に感じながらも、日々の営みを優先した。忘れてしまった者のために立ち止まる余裕はなかった。

沈黙は新たな言語を生んだ。ルナは指先で織られる布の歪みや、糸の引き具合から物語を読み取った。触覚と視覚の細密な観察は、彼女の内的世界を埋めるための補助線となった。彼女は母の手の運びを真似してみせ、指先の力加減で会話を試みる。鏡の中の母は微笑み、沈黙の会話を続けた。それは語のない合図—糸の端を引く速度、布地の皺の刻み—で成立する交流だった。

ある朝、村の外れにある古い井戸の近くで、黒檀の種子のような黒い花が一輪見つかった。花弁は紙のように薄く、夜をたたえた色をしている。花からは言葉ではない旋律が漏れ、人々の夢に入り込んだ。夢の中で失われた記憶が柔らかな光として回収され、朝には些細な物の輪郭が鮮明になっていると噂された。花は森の外へと押し寄せる記憶の端を象徴しているかのようだった。

その花を見た者たちの一人、鍛冶屋の娘は、ふとした瞬間に幼い日の父の手の温度を思い出した。彼女は自分の記憶が戻ったことに困惑し、同時に安堵した。記憶はいつも痛みとセットで来る。人は忘却を盾にしていたのだと、そのとき気づく。ルナは鏡の中でそれを見届けながら、自分の選択の重みを改めて感じた。沈黙は代償を払わせる一方で、世界を別の形でつなぎ直していた。


第3章 糸と罅

母の編み目は厳格だった。一本の糸を均一に引き、同じテンションで交差させ、模様を狂わせない。彼女の作法は術式にも似ており、布はただの防寒具ではなく、記憶を織り込むための媒体であった。ルナは鏡の中でその作法を学び、指先で編むことで過去の断片を整えていった。糸の結び目に古い夜の音を封じ、色の配列に父の笑い声を並べるようにして。

しかし布には必ず罅が入る。織り目が狂う瞬間、そこから異物が入り込む。罅は単なる技術的な欠陥ではなく、記憶の隙間そのものだ。ルナは罅を見つけるたびに、そこから漏れ出す何かを恐れた。罅の先端からは、薄い影が這い出してくることがある。それは幼い頃に見たはずの友の顔が歪んだ形で現れたり、父の歌が低く唸るように変質して聞こえる小さな鳴き声だった。

罅を繕う術は簡単には習得できない。編み糸と言語は同一の論理で結ばれているため、物理的な修復は同時に心理の修復を要求する。ルナは鏡の中で指先に集中し、罅に新しい糸を埋め込むことで、かつての記憶を整える努力を重ねた。だがある日、繕い終えたはずの箇所からまた別の罅が生じた。罅は時間を通じて広がり、修復は果てしない行為になっていった。

外の世界では、村人の間で「縫い穴」と呼ばれる奇病が噂になり始めた。小さな皮膚の割れ目から、夜の寒気が入り込み、持ち主の夢を歪めるという。医師はいない。村の知恵袋は、忘却と記憶のバランスが狂ったと述べ、古い祈祷を勧める。祈祷は一時的な鎮静を与えるに過ぎない。根源は深く、誰がそれを正すべきかは明確でなかった。

ルナは繕うという行為が、誰かを救うか、それとも単に別の形の束縛を作るだけなのかを考えた。彼女の内で、技術的な確信と倫理的な疑念が交差する。繕うことは過去を固定することだが、過去が固定されれば未来の変化の余地が減る。罅を埋めることで得られる安心は、本当に自由をもたらすのか。鏡の中の母は無言で編み続け、問いに答えることはなかった。


第4章 火薬と鏡

村に新しい来訪者が現れた。北方の放浪者と名乗る男は、手に金属製の筒を下げ、腰には布袋をぶら下げていた。彼の目は常に計測しているように細められ、その視線は物理的な世界の構造を探る技師のものだった。彼は火薬の製造を匂わせ、金属と熱を用いて世界を変換することに長けていると語った。

放浪者は村の鍛冶屋とすぐに話し込んだ。火薬は破壊の道具であると同時に、古い石造りの塔や埋もれた構造物を曝き出す道具でもある。彼は塔の下で何かを探しているようだった。塔はかつての支配者の記憶を封じた場所だと村人は言うが、放浪者は記憶の物理的痕跡を追う研究者のように振る舞った。ルナは彼を警戒した。彼の言葉は論理的で、しかも冷たく、記憶というものを実験対象とする匂いがした。

ある晩、放浪者は塔に火薬を仕掛けると告げた。石を分解すれば、鏡を内包する室が露出するかもしれない。ルナは衝動的にその場へ向かった。塔の切断は、鏡の世界に余波を与えることが予想された。破壊は新たな罅を作り、罅は新たな侵入を招く。技術はいつでも倫理的な問題と対になる。

帳の下で放浪者の作業は微細な音を立てた。導火線の着火は思ったより静かで、火は風に乗って石の隙間を舐めた。轟音は村を震わせ、鳥は驚いて飛び立った。石が崩れると、深い室が現れ、そこにもう一つの鏡が隠されていた。鏡面は塔よりも古い光を宿し、開かれた裂け目からは冷たい風と共に、遠い時代の記憶が漏れ出した。

放浪者はそれを計測し、数値を記録した。彼の指先は乾いていて、記録は正確だった。だがその瞬間、鏡から一条の影がすっと流れ出し、放浪者の胸に吸い込まれた。彼は激しく咳き込み、声を上げた。声は彼のものでは無く、古い歌を低く唱える奇妙な音に変わった。ルナは駆け寄り、放浪者の顔を見ると、そこに色の剥げた恐怖が滲んでいた。

放浪者は驚愕の表情で立ち上がり、器具を乱暴に片づけると、翌朝には村を離れていった。彼の背中は、科学という名の確信を持っていた者が簡単に揺らぐ瞬間を見せた。放浪者が去った後、塔の裂け目は塞がらず、鏡は新しい曇りを帯びていた。技術は記憶と出会うとき、予期せぬ副産物を生む。放浪者はそれを痛みとして体験し、またどこかで誰かに語ったかもしれない。


第5章 裂ける声

ルナが声を差し出してからしばらく、村では奇妙な現象が散見された。夜ごとに、誰かの夢の中から外れた言葉が家々の隙間にこぼれ落ち、朝にはそれを探すかのように人々が目を擦って起きる。言葉の欠片は意味を持たず、感情の残滓だけを伝えた。ある者は胸に刺さる懐かしさを感じ、ある者は理由もなく怒りを抱いた。コミュニケーションは断片化し、言葉はもはや信頼できる道具ではなくなった。

ルナ自身は鏡の中で母と過ごす日々の中に沈み、たまに外の世界の脈動を遠くで感じるだけだった。だがある夜、鏡の表面に小さな亀裂が走った。亀裂は最初は髪の毛のように細く、それが指先で引かれるように広がっていった。亀裂の端から、かつて自分が持っていた声の残響が柔らかく漏れ出した。しかしそれは完全な声ではない。断続的で、ひび割れた水鏡のように反射する音でしかなかった。

亀裂は成長する。夜ごとにその幅を増し、ついには鏡の縁に向かって走った。鏡の表面は外側の世界へと波紋を投げかけ、村の人々の夢に直接触れ始めた。声の断片は、誰かの子守歌を蘇らせ、他人の罪悪感を煽り、忘れられた愛を燃え立たせた。ある老女は、亡くした息子の名を叫んで目を覚まし、その後何日も呆然と座り込んだ。別の者は夜中に立ち上がり、何かを探すように家の外へと出た。

村は小さな亀裂に翻弄され、群れとしての均衡を失いつつあった。ルナは鏡の中でその外乱を感じ、自分の声がこれほど他人の心を揺さぶる力を持つと知ったとき、初めて深い後悔を覚えた。沈黙は単なる喪失ではなく、共同体の調律を保つ緩衝材であったのだ。

鏡の亀裂が完全に鏡面を横切った夜、外では嵐が吹き荒れた。風は町の軒先を撫で、雨は瓦を叩いた。その夜、父は夢の中で何かを叫び、翌朝には酒の匂いを残しながら、庭先で土を掘り返していた。彼は何かを探していたが、掘れば掘るほど、彼の手は何も掴めなかった。ルナは鏡の向こうで指先を止め、これは本当に望んだ結末なのかと自問した。

答えは無かった。鏡は黙して語らず、母は無言で編み続けた。ルナは繰り返し繕いを試みたが、亀裂は彼女の無言の手をすり抜けて拡がっていく。代価は戻らない。声は戻らない。ただ、世界のある部分がより鮮やかに、同時により痛く見えるようになっただけだった。


第6章 響きの検層

夜明け前の冷気が村を硬く締めつける時間、ルナは鏡の縁に手を置き、指先で亀裂の微振動を確かめた。亀裂は音を放つ。それは言語でも旋律でもなく、層をなした波形の集合だった。彼女は沈黙を剥ぎ取り、そこに残された微細な振幅を読むことを覚えていた。振幅は断片化された記憶の密度を示し、濃い箇所ほど強い情動を伴っている。

鏡の亀裂を検層する作業は単純な技術ではなく、感覚の訓練であった。ルナは母が教えた編み目の規則を音に置き換え、指の腹で反応を追い、亀裂が吐き出す波形を整列させる。整列とは、音の相互干渉を導き、不要な共鳴を打ち消すことを意味した。彼女は糸と同じく、振動のテンションを調節し、破片が互いにぶつかり合って裂け目を広げないようにする。

村の外れで、亀裂の音は夜ごとに伝播していた。鍛冶屋の脇で寝る子供が夜中に震えるのは、その波形が胸腔に共振して古い恐怖を再生するからだ。ルナは鏡の前でその共振を観察し、どの周波数が痛みを蘇らせ、どの周波数が癒しをもたらすかを記録した。彼女は声を失った分、感覚は鋭くなっていた。

ある晩、波形の中に未知の定常成分が混じっていることに気づいた。定常成分は過去の声ではなく、鏡自身が発している基底振動のように思えた。振動には古い規則が隠れており、それを解読すれば鏡の起源に一歩近づけると直感した。ルナはその成分の位相を糸のテンションと同じ要領でずらし、共鳴の位相差を利用して別の亀裂を局所的に抑えた。手技は繊細で、それは編み手が生地の撓みを読むのに似ていた。

鏡は応えた。亀裂の端が静かに収束し、波形のノイズフロアが下がった。それは一時の勝利に過ぎなかったが、ルナは確信を得た。技術的な操作が記憶の物理的現象に影響を与えうる。彼女は鏡の内部で編み物を続けながら、その知見を蓄積した。世界と沈黙の間を結ぶ新しい手触りが生まれつつあった。


第7章 鍛冶屋の検査

鍛冶屋の娘エリスは、放浪者が残した燃え残りの金属片を集め、火打石と共に興味深げに観察していた。彼女は火薬の化学よりも、金属の疲労や膨張に興味があった。石と火と鉄の刃口が如何にして世界を切り開くのかを知りたがっていた。エリスは道具を手で触り、その温度変化と振動を指先で確かめる習慣を持っていた。

ある朝、エリスは鏡の塔付近で見つかった小さな鉄片が、鏡の振動と同調していることに気づいた。鉄片を指で弾くと、鏡の亀裂から出る微小音が増幅された。彼女は金属片を小さな枠に固定し、異なる配置で共鳴を試みた。配置を変えると、亀裂が吐き出す声色が変わり、村の人々の夢の内容にも変化が生じた。

エリスは鍛冶屋らしい解決を提案した。金属の形状を変え、鏡の周波数に逆位相の共振体を作る。逆位相の共振体はノイズを打ち消し、亀裂の拡大を抑えられる可能性があった。彼女は自分の工具箱から細い金属板を取り出し、精密に曲げ、縁に刻みを入れた。刻みは振動の偏りを制御するためのものだった。

ルナはエリスの案を受け入れ、鏡の縁に逆位相共振体を仮固定した。固定は繊細で、誤差は共振のズレとなって外界に露出した。最初の試験では、鏡の亀裂は一時的に沈黙し、村の夢は静かさを取り戻した。しかし逆位相の共振体は鏡と厳密に整合する必要があり、熱や湿度の変化で調律が崩れやすかった。調律が崩れた夜、亀裂は以前よりも不安定に震え、夢はより混迷した景色を呼び込んだ。

エリスは金属の微調整を続け、ルナは振動検層の結果を渡した。二人は異なる技能を持ち寄ることで、問題を部分的に制御できることを学んだ。技は力ではなく、繊細な調整の積み重ねであると理解した。村は少しだけ息をついたが、安定は脆く、戻りは許されないことを二人は知っていた。


第8章 残響の商人

村の交易路に、残響を商品として扱う男が現れた。彼は声や夢の断片を小瓶に詰め、銀の蓋で封じていたと言われた。多くは噂話だが、いくつかの小瓶が村の道端に落ちているのを見た者がいた。小瓶の中の残響は、開ければ短時間だけ誰かの記憶をなぞらせる力を持つとされる。価値は高く、欲望はそれを求めた。

女主人の店に訪れた商人は、鏡の亀裂が放つ音を嗅ぎ分け、来訪者に適した「残響」を売りつけることを日課としていた。ある客は亡き妻の笑いを求め、ある客は忘却の甘さを買った。残響は癒しにも毒にもなり、人々は取引の重みを理解しないで手を出した。残響を吸い込んだ者の行動は劇的に変わり、過去を追って夜の森へと消える者さえ現れた。

ルナは商人を警戒した。残響の取引は鏡の亀裂の影響を市場経済として固定化し、人々の痛みを商品化する危険を孕んでいた。エリスは商人の小瓶に残された金属ラベルを調べた。ラベルは鏡の裂け目から採取された粒子と一致する化学的指紋を示した。つまり、商人は鏡の産物を採取し、加工して売っていたのだ。

商人の行為は鏡の亀裂をさらに刺激する。採取は鏡の表面からエネルギーを剥ぎ取り、その穴を補う代償として新たな波形を生んだ。需要が高まれば採取は増え、亀裂は慢性的な搾取に晒される。ルナはこの搾取の連鎖を断ち切る必要を感じ、商人に対峙した。言葉はないが、動作と視線で意志を示すと、商人は冷笑し、別の村へ移る準備を始めた。

商人が去った後にも影響は残った。買った者たちの依存はすぐに収まらず、購入のために再び危険を冒す者が現れた。需要は根深く、簡単には消えない。ルナとエリスは残響の吸収を抑えるための技術的方策と、村の倫理規範を再構築する社会的方策が同時に必要だと認識した。技術だけでは人々の欲を鎮められない。人々の物語の扱い方そのものを変える必要があった。


第9章 試作機

村の広場に仮設された作業台の上、ルナとエリスは試作機を組み立てていた。試作機の心臓部は、金属と糸で作られた「位相編成器」であり、鏡の発する基底振動を受け止め、逆位相で返すことを目的としていた。位相編成器は精密な構造で、編み物の技術と金属加工の技巧が統合されていた。糸は導体に穿たれ、金属板の刻みは共鳴の位相を調整するためのスライドとなっていた。

設計の要点は、鏡の振動エネルギーを散逸させるのではなく、別の安全なモードへ転換することだった。散逸は二次的にノイズを広げる危険がある。彼女たちはエネルギーの向きと位相を操作することで、鏡の亀裂が発する衝動を村の深層に拡散させず、局所で回収する仕組みを作った。これは古い技術と新しい直観の交差点で生まれた発想だった。

試作には慎重さが求められた。初回点火では位相が不整合を起こし、鏡の亀裂は一瞬だけ高調波を吐き出して村の夢を全員同時に乱した。叫び声があちこちで上がり、人々は夜中に飛び起きた。ルナは即座に制御を切り、位相編成器を停止させた。被害は限定的だったが、彼女は自分たちの行為が共同体に与える影響の大きさを痛感した。

改良を重ねる中で、彼女たちは位相の安定化に成功した。位相編成器は鏡の基底振動を受け取り、それを低エネルギーの律動へと変換して放出した。放出された律動は夜の静けさに溶け、人々の夢は以前よりも静かに保たれるようになった。位相編成器は万能ではなかったが、亀裂の成長を遅らせ、被害を小さくする実用的な道具となった。

試作機の成功は村に小さな希望を生んだ。だが道具は常に使い手の倫理と結びついており、その使い道が誤れば新たな搾取を生む。ルナとエリスは位相編成器の管理規約を作成し、共同体の承認を得るべく話し合いを始めた。技術の実装は社会的合意なくして成り立たないと彼女たちは理解していた。


第10章 一夜の協定

村の集会所に人々が集まった。位相編成器の説明と使用許諾を巡る議論は長引き、時に感情がぶつかり合った。年長者は過去の痛みを語り、若者は即効性のある解決を求め、商人の影響を受けた者は残響の使用を弁護した。議論は深夜まで続き、鏡の亀裂が生む波紋について技術的説明がなされるたびに、村の表情は変わった。

ルナは会場の隅に座し、言葉が出せない代わりに身振りを交えて説明に参加した。彼女の手は糸の引き方を示し、亀裂の検層から得たデータを紙に図示して人々に見せた。図は言葉よりも明快に影響を伝え、次第に人々の理解を促した。エリスは位相編成器の実演を行い、短時間だが安定した試運転を見せた。実演は不安を和らげ、技術への信頼の礎となった。

合意は完全な合一ではなかったが、一つの協定が結ばれた。協定は位相編成器の使用を共同体の管理下に置き、残響の取引を禁じ、鏡に直接的な採取を行わないという条項を含んでいた。技術は保全と教育を目的とし、個人的利得の手段として使ってはならないと定められた。合意は多数決で採択され、少数の反対はあったが、村は一時的に秩序を取り戻した。

夜が明けると、位相編成器は広場の片隅に設置され、管理のための当番表が作られた。ルナとエリスは当番の教育係となり、技術の正しい取り扱いと倫理の教育を担当した。鏡は依然として亀裂を抱えているが、その影響は制御可能な範囲に収まった。村は痛みと記憶の折り合いをつける新しい手続きを持ち、それを守る練習を始めた。

ルナは静かにほっとした。代価の重さは消えていないが、それが共同体の合意と技術的工夫によって部分的に均されるのを感じた。彼女は鏡の前に戻り、亀裂の振幅を検層しながら、次に来る波に備えた。夜の森は変わらずに息をしている。村は新しい協定を胸に、それでもなお夜の影に向き合い続けることを選んだ。

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