本当に私を捨てて後悔なさりませんか?
王立学院の卒業パーティは、活気に満ちていた。天井に吊り下げられた煌びやかなクリスタルシャンデリアの光が、まるで無数の星のように煌めいて、集まった貴族たちの華やかな衣装に美しく乱反射している。
だが、その平和な空気は、一瞬にして凍りついた。
「エリナ、申し訳ないが僕は本当に愛する女性を見つけたんだ。婚約破棄させてくれ!」
ハルト王太子は、自信に満ちた声でそう宣言した。会場が一気に静寂に包まれる。彼の腕には、金髪を優雅に結い上げた公爵令嬢ノアが寄り添っている。ノアはハルトの腕に自分の手を絡ませながら、挑発的な笑みをエリナに向けた。
「ふふ、ハルト様があまりにも素敵で、心底惚れてしまいましたの」
会場に重い沈黙が訪れる。さっきまで響いていた楽しげな笑い声が嘘のように消え、誰もが息を呑んでエリナの反応を固唾をのんで見守っていた。しかし、エリナは微塵も動揺を見せず、ノアの言葉にも耳を貸さなかった。毅然とした態度のまま、エリナは言った。
「了解いたしました。お好きにどうぞ」
そして、エリナは背筋を伸ばしたまま、静かにその場を後にした。彼女のドレスの裾が床を滑るように美しく流れ、足音一つ立てずに会場を去っていく。内心で、彼女は冷たく呟いた。
——後悔しても知りませんわよ。
エリナが去った後も、パーティ会場は静まり返っていた。重苦しい空気が会場全体を支配している。ハルトは、隣で微笑むノアの腰を抱き寄せ、高らかに叫ぶ。
「そして僕は、この美しいノア嬢と婚約することを誓う!」
しかし、彼の言葉に応える拍手も、歓声もなかった。生徒たちも、その親たちも、ただ黙ってハルトを見つめている。シャンデリアの光だけが、変わらず会場を照らし続けていた。ハルトは焦りからか、わずかに顔を歪ませ、周囲を見渡した。
「なぜ誰も祝わないんだ? こんなにめでたいことはないぞ!」
だが、会場の空気は重く沈んだままだ。周囲の貴族たちの胸には、絶望が広がっていた。
——この国は、もう終わりだ。
ハルト王太子は、その満ち溢れる自信とは裏腹に、自分一人では何もできない人間だった。王太子としての政務は全てエリナに丸投げし、貴族会議では国の将来を顧みない発言を繰り返す。「民に重税を課せば、もっと僕らは贅沢ができるというのに」——隣国では、税に苦しんだ民の革命によって王政が崩壊した例もあるというのに、彼はまるで他人事のようにそう言うのだ。
貴族たちは、もはやハルトを王太子とは見做していなかった。それでも、エリナはそんなハルトを献身的に支え続けた。彼の身勝手な振る舞いに憤慨する貴族たちを辛抱強くなだめ、国の経済をより良くするための案を日夜考え続けた。エリナがこの王国にどれほど尽くしてきたか、会場にいる誰もが理解していた。
一人、また一人と、会場から立ち去る者が現れる。それに続くように、次々と人々がホールを後にし始めた。靴音が石の床に響き、扉の開閉音が静寂を破る。ハルトは焦燥に駆られ、顔を青ざめさせる。
「ど、どういうことだ……?! なぜ誰も……祝福しない?」
しかし、時はすでに遅かった。王侯貴族の中で、ハルトを支持する者は既に誰もいない。唯一自分を支えてくれていたエリナのことも、彼は自分から切り捨ててしまったのだから。
✳︎ ✳︎ ✳︎
それから数ヶ月後。
ハルトは、凍えるような寒さの古城の一室で、ぼろぼろの木製の椅子に背を預けながら、剥がれかけた天井を虚ろな目で見つめていた。暖炉の火は既に消え、部屋は氷のように冷たい。彼の息は白く、震える手を膝の上で握りしめている。
——なぜ……なぜ自分はエリナを捨ててしまったんだ。
その想いが、彼の心を何度も何度も苛んだ。エリナは自分のことを懸命に支えてくれていたというのに。あの美しい瞳で、いつも優しく微笑んでくれていたというのに。ノアなんていう顔だけの女に騙され、王族としての地位も、財産も、これからの輝かしい人生も、何もかも失ってしまった。
「くそ……くそ、くそ、くそ!!」
ハルトは拳を握りしめ、唇を血が出るほど強く噛み締めた。後悔の念が胸を締め付け、呼吸が苦しくなる。
ハルトの脳裏に、あの日のエリナの姿が鮮明に浮かんだ。動揺など全くせず、毅然とした態度で、自分の婚約破棄を受け入れた彼女。「お好きにどうぞ」——その冷たい言葉に、彼女の全ての感情がこもっていたのだろう。失望も、怒りも、そして諦めも。
ハルトは椅子から立ち上がり、部屋の中をふらふらと歩き回った。足音が古い木の床に響く。そんな時、ある考えが彼の脳裏に浮かんだ。
「そうだ! 手紙を書こう! 手紙だ、手紙!」
ハルトは突然叫び声を上げ、目を輝かせた。希望の光を見つけたかのように、興奮して両手を振る。
「きっと、優しい優しいエリナなら、こんな愚かな僕のことを許してくれるだろう……!!」
そして、ハルトは部屋の隅にあるボロボロの机へと駆け寄った。引き出しから黄ばんだ紙を取り出し、震える手でペンを握る。期待に胸を膨らませながら、必死に文字を綴り始めた。
「エリナ、許してくれ……僕は間違っていた……」
彼の顔には、久しぶりに笑みが浮かんでいた。しかし、それは哀れなほど空虚で、現実から目を逸らした虚しい希望に過ぎなかった。
——返事など、返ってくるはずがないのに。
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王太子妃の座から降りたエリナは、実家の屋敷の陽当たりのよい一室で、湯気の立つ温かい紅茶を飲みながら分厚い本を読んでいた。大きな窓の外では、柔らかな木漏れ日が手入れの行き届いた庭の草木を照らし、色とりどりの花々が穏やかな風に揺れている。
「そういえば、あのぼんくら王太子が貴女に許しをもらいたいって、何十枚も手紙を送ってきているわよ」
話し相手であるエリナの姉が、陶器のカップを片手に持ちながら、くすくすと楽しそうに笑って言った。彼女の瞳には、自分の妹を捨てたハルトの愚かさを嘲笑うような光が宿っている。エリナは本から顔を上げ、カップを唇に運びながら、まるで何でもないことのように優雅に微笑んだ。
「あらお姉様、もうあの男は王太子ではありませんよ」
エリナの声は、まるで氷のように冷たく、それでいて上品さを失わない。姉は、その言葉にさらに声を立てて笑った。
「そうね、廃嫡されたただの平民だったわ」
あの卒業パーティの後、エリナによって長年抑えられていた貴族たちの怒りは、国王への直訴という形で一気に爆発した。事の次第を知った国王は、息子の愚行に激怒し、すぐにハルト王太子を廃嫡して王族としての身分を奪い、辺境の古城に幽閉した。もちろん、ノア公爵令嬢も一緒に。
「きっと、あの二人のことですから仲睦まじく過ごせていることでしょうね」
エリナは、ふと思いついたかのように、わざとらしく無邪気な口調で言った。その唇の端には、かすかに皮肉めいた笑みが浮かんでいる。姉は、ノア公爵令嬢が精神を病んで塔から飛び降りて死んだことを知っていたが、愛しい妹との穏やかなティータイムを邪魔したくなくて、敢えて口にはしなかった。
「エリナ、貴女の元にたくさん婚約の申し入れが来ているわよ」
優秀なエリナの人柄と能力を知る貴族の子息たちが、次々と彼女に婚約を申し込んでいるのだ。エリナはカップを静かにソーサーに置き、その美しい手を膝の上で優雅に組んだ。
「では、少しずつ順にお会いしていこうかしら」
その笑顔は、まるで太陽のように温かく美しかった。そして、エリナは心の中で呟いた。
——今度は愚かな殿方ではありませんように、と。
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