白い結婚は完遂したはずですよね?
「王妃としての責務を、決して忘れることのないように」
婚姻の儀当日、初夜の床で若きリスタニア王アルヴィンは冷ややかな目で私――ルクレツィアを見下ろし、そう告げた。
「はい。婚姻期間のあいだ、しっかりと務めさせていただきます」
私達の結婚は大国リスタニアと庇護を求める小国パゴニールの間で結ばれた同盟のための政略結婚で、この結婚には「愛」など欠片もない。
「よろしい。それでは、リスタニアの生活を楽しみなさい」
それだけ告げると、アルヴィンは私に背を向けて退室し、透け感のある扇情的なネグリジェを纏った私は夫婦の寝室に放置される。
「……あ~、助かった~」
寝台に安堵のため息とともに倒れ込む。アルヴィンは真面目な人だとは聞いていたけれど、若い女にとりあえず手を出してみようと思うような人ではないとこれではっきりした。彼にとって結婚はただの義務であり、私は国を守るための「駒」でしかないのだから、世継ぎが生まれてしまっては大変ということだろう。
だからアルヴィンの態度は当然だ。お飾りの妻、そんな立場を受け入れる準備はできていた。期待しなければ、失望することもない。
定められた婚姻期間は二年。一生のことではない。その期間が過ぎたらめでたく離婚だ。
だから私はこのまま白い結婚を完遂させることが出来れば、それでいい。愛さないし、愛されなくても構わない。
■■■
「陛下、今日の公務は順調でしたか?」
「問題ない」
「そうですか。それは、良かったです」
一年半の間、私と夫であるアルヴィンの関係は悪化もせず、さりとて進展もせず。日課の夕食と必要最低限の挨拶だけで日々が続いていた。
大変結構なことにアルヴィンは要領が良く、私の元に彼の女遊びの噂は流れてこないし、最低限の公務には私を伴い、予算もたっぷりつけてくださっている。夫としては大変結構な方である。
もうまもなく、私達の白い結婚は終わりを迎える。その日まで、何事もないのを祈るばかりだ。
「ところでルクレツィア、君は……この国に来てから、何か未来を見ることはあったか?」
アルヴィンはワインに口をつけながら、ふと思い出したように問いかけてきた。
リスタニアに比べると弱小もいいところのパゴニールが国としての体裁を保っていたのには訳がある。
パゴニール王族の女性には代々不思議な力がある──なんと、夢を通して未来の様子を見ることが出来るとされている。
いかにも理屈っぽそうな夫が祖母の『私がリスタニアへ嫁ぐ夢を見た』という話を信じて同盟が結ばれた、と聞いてもにわかには信じがたかったのだけれど、どうやら本気らしい。
どうせ結婚したのならついでにリスタニアの未来に関する予知夢のひとつもないのか、とアルヴィンは私に問いたいのだろう。
「いいえ、残念ながら」
申し訳なさそうに微笑んでみたが、アルヴィンはぴくりとも顔を動かさなかった。そんなに期待はされていなかったようだ。
「そうか」
アルヴィンはデザートを待たずに席を立って、私はそれを見送った。今日の面会は終わりだ。
彼の言葉がきっかけだったのか、私はその晩、夢を見た。
私は玉座の間に立っていた。窓の外には火の手が上がり、城下町が赤く染まっている。煌びやかな玉座に座るアルヴィンは、ぐったりと椅子にもたれ、口元からどす黒い血を流していた。
「アルヴィン様……?」
そっと近寄って頬に触れてみるが、夫の体はとても夢とは思えないほどに冷たくて──。
「……いやっ!」
思わず叫ぶと、そこはいつもと何ら変わりのない、寒々しいほどに広々とした私の寝室があった。
「ゆ、夢……」
悪夢のせいか、全身にびっしょりと汗をかいていた。寝台の中で息を整えながら、動悸が収まるのを待つ。
「これは……ただの夢じゃない……わよね」
しばらく経っても、気持ちの悪い胸騒ぎがおさまらない。普段見る夢とは違うと、はっきりと魂が認識している。
あれはこれから起きる現実だ。
アルヴィンが殺されたリスタニア。
それが、私が見た最初の予知夢だった。
もしその通りになれば、リスタニア王国は大混乱に陥り、同盟国であるパゴニールも無傷ではいられない。それどころか、滅亡すらあり得る。
「国が滅びる……」
その事実が何より恐ろしかった。王侯貴族が国と共に命運を共にするのは仕方がないことだが、国民もその戦禍に巻き込まれてしまうだろう。
『王妃としての責務を、決して忘れることのないように』
なぜだか、初夜でのアルヴィンの言葉がよみがえった。
「助けなくては……!」
たとえお飾りといえど、まがりなりにも王妃。これこそが私がリスタニアにやってきた使命に違いない……!
■■■
「とは言ってもね」
私とアルヴィンは仮面夫婦であり、信頼関係など何もないのだから、いくらパゴニールの姫が予知夢を見たと使命に燃えたところで、ただアルヴィンが玉座で死んでいましたよ~。と発言するだけでは何の証拠にもならないだろう。
夢の中の風景を思い出す。玉座の間は綺麗で争った形跡はなかった。攻め込まれたというよりは、内部から瓦解したように見えた。
つまり敵は近くにいる……となると、下手に動くことはできない。人生は一度しかないのだから、失敗はできない。
未来を変えるために、翌日から私は慎重に動き始めた。断続的に見る夢を分析し、現実と照らし合わせて不審なところがないか確認する。こういう時、お飾りであり、気にもとめられていない存在というのは非常に便利だ。
そうして、私はアルヴィンが信頼を寄せている大臣が少しばかり怪しい──という結論に辿り着いた。
「陛下、この法案には少し不審な点がございます。立案してきたものの背景を洗い出した方がいいかと」
「……君が法案に口を出すとは驚きだな」
「せっかく嫁いだのですから、国に帰る前にいろいろ勉強をさせていただこうと思いまして。差し出がましいとは思いますが、王妃として発言させていただきました」
「そうか」
アルヴィンは私の介入に意外そうな顔をしたけれど、気を悪くしたようには見えなかった。それどころか、彼は少し……ほんの少しだけ、楽しそうにすら見えた。
■■■
「君の助言の通りだった」
次の夕食でアルヴィンからの報告があった。どうやら、形式上とはいえ妻の助言は聞き入れてくれるらしい。これはかなりの進展だ。予知夢で見た悲劇を回避するためには、私の努力で彼の運命を少しでも軌道修正するしかないのだから。
──守ってみせる、アルヴィンをね!
そう、心の中で強く決意して、テーブルの下でこぶしを握る。
「まさか近しい人間に裏切られるとはな。……人望がないようだ」
アルヴィンはかなり精神的に参っているようで、自嘲気味に笑った。冷血に見えて、意外と情の深い人なのかもしれない。
「私がおりますわ」
アルヴィンは弾かれたように顔を上げて、私をじっと見つめた。その瞳にはわずかに、私を信じることを躊躇う、あるいは疑う色が少しだけある。
けれど、私には後ろ暗い所など皆無だから、じろじろ眺めようが、叩こうが何も出てこない。だからいくらその鋭い眼で眺められようとも平気だ。
「私でよろしければ、王妃としてアルヴィン様をお支えします。明日は一緒に昼食もいかがですか」
他の敵に毒をじわじわ盛られないとも限らない。拒否されない限りは、可能な限り彼の側に居て情報を集めなければ。
微笑むと、アルヴィンは顔を赤くして目を逸らした。過労で熱があるのかもしれない。
「……考えておこう」
それ以来、アルヴィンが私に助言を求めることが増えた。返答に確証があるときもあったし、ないときもあった。けれど、彼は完全に正しい答えを私に求めているわけでもなさそうで、時には衣装の色はどうするとか、茶葉は何が好きかとか、世間話が長々と続くこともあった。今まで気が付かなかったけれど、本当は結構、構ってちゃんなのかもしれないわね。
■■■
「ルクレツィアよ……俺は君に、随分と冷たい態度を取っていたな」
予知夢を見て三ヶ月。午後のティータイムにやってきたアルヴィンはそんなことを口にした。
「いえ、別にそんなことは……」
「それなのに、君は俺に心を砕いてくれている。今まで時間を有効に使っていたつもりが、君に向き合わずに随分と損をしていたようだ。……感謝をしている。君と結婚してよかった」
今まで何ともなかったのに、アルヴィンに見つめられると、なんだか急に恥ずかしくなって──。
「私のことはお気になさらず!」
と、思わず大きな声が出た。
「お気になさらず、と言うのは」
「陛下のことを考えるのは、私の義務だからです。陛下が無事でいてくださらなければ、パゴニールも安全ではありません。白い結婚ではありますが、最後まで妻としてのつとめを精一杯果たすつもりです」
微笑みを浮かべて早口言葉を締めくくると、彼の表情が暗くなった。
「……なるほど。それでは、変わったのは……俺だけということか」
「はい。私は最初から最後まで、変わっておりません」
「そうか……」
その日から、アルヴィンの様子がおかしくなった。
まず最初に変化を感じたのは、豪華なプレゼントが送られてくるようになったこと。花や宝石のみならず、彼の瞳の色を映したようなドレス。今更、どこへ着ていけというのか。
「これは……?」
「陛下から王妃様への贈り物です」
「へ……陛下は……何か仰っていましたか?」
「特には。ただ、王妃様がお気に召すよう願っていると」
──変わったのは俺だけか、とアルヴィンは言った。彼は確かに変わった。変わったのは……その、私が……親切心から夫に気を配っていると思ったから、彼もそれに応えた……?
「いやいやいや、それはね、使命ですからね!」
私は私の為に行動しているのだから、そんなに気を回さなくてもいいのに。だって、もうすぐ離婚するのに今更仲良くなってもね……もらえるものはもらっておきますが。
彼からの接触はさらに増えていった。公務への帯同、晩餐会への出席、そして夕食のみならず昼食、そして午後のお茶の時間にも毎日アルヴィンが現れるようになった。彼を守るためにはその方がやりやすかったので、拒否する理由もなかった。
次第にアルヴィンの死に関する夢を見る頻度は下がっていった。
▪️▪️▪️
「パゴニールへの帰国についてですが……」
私たちの結婚契約が完遂するまで残り一ヶ月となった頃、離縁後の手続きについて口にしようとしたその時。
「離婚はしない」
「……へっ?」
思わず間抜けな声が漏れた。私を見るアルヴィンは、この人ってこんな顔だったかしらと驚くほどに印象が違う。
「この結婚を解消するつもりはない。むしろ、君とこれからも共に歩む道を望んでいる」
「……冗談でございますわよね?」
精一杯の冷静さを保ちつつ尋ねるが、彼の答えは明確だった。
「冗談ではない。私の希望だ」
その場から逃げ出したい衝動に駆られたが、なんとか平静を装ってその場をやり過ごした。しかし、内心では大混乱だった。
──ここに、彼の妻として、残る?
胸が妙にドキドキしている。いやいや、これはただの一時的な錯覚だ。どんな人間でも、いらないよりはいると言われた方が嬉しいのだから。
「ありがとうございます、アルヴィン様」
「ルクレツィア……!」
「陛下のような方にそう言っていただけて、光栄です。けれど、二年かぎりの契約ですから」
「ルクレツィア……! 考え直して、くれないだろうか」
「結婚は……私の……仕事でした。それ以上でも、それ以下でもありません」
私は与えられた使命をこなしているだけだ。同盟のための結婚なのだから、今更延長しましょうと言っても、国の力が釣り合わない。
この結婚は思ったよりうまくいった。けれど、それは期限が決まっているからだ。
背を向けた私を、アルヴィンは追ってこなかった。
その夜、私は再び、恐ろしい夢を見た。
寝所でアルヴィンが静かに眠りについている。
「ルクレツィア……」
アルヴィンは寝言で私の名前をうわごとのように呟いている。
音もなく寝所の扉が開き、黒衣の女がアルヴィンの枕元に近づく。ああ、彼の元には女性がやってくるようになるのだ──当然のことなのに、なぜか胸が痛んだ。
女の袖口できらりときらめいたのは、宝飾品ではなかった。──短剣だ。
「アルヴィン!」
短剣が彼に振り下ろされた瞬間、目が覚めた。全身にびっしょりと汗をかき、息は荒れ狂っている。夢とはいえ、あまりにも生々しく、彼がこの世界からいなくなるという恐怖に押しつぶされそうになる。
「これも……予知夢?」
震える手を胸に当てながら、ゆっくりと思考を巡らせる。離婚が決定してしまうと、彼の元には寵愛を求める女たちが夜ごとやってくるようになる。そうして寝所の警備が手薄になり、暗殺が起きてしまうのだ。
「……それだけは避けなければ。どんな手を使ってでも……」
決意が固まった私は、その足でアルヴィンの寝所へ向かった。何しろ妻であるので、顔を見せるだけで寝所に通してもらうことができた。
「ル、ルクレツィア! 君の方から来てくれるとは……」
寝間着姿で寝所に乗り込んできた私を見て、アルヴィンは私が離婚を思い直し、夜這いにやってきたのかと思ったようだった。
「誤解しないでくださいませ!」
「ご……誤解?」
「これはよこしまな気持ちではなくて、王妃としての責務を果たすため。これは白い結婚を完遂するための行動です。私は妻として、あなたの安全を守る必要があるのです」
「そ……そう、か……」
勢いに気圧されたのか、アルヴィンは寝所に私が滞在することを許可してくれた。
「さあ、後のことは私に任せて、ゆっくりお休みくださいませ」
「……難しいことを言う」
「アルヴィン様が眠るまで、私はここにいます」
「それが君にとっての王妃の務めなのか?」
「はい」
私の毅然とした態度に、彼は軽く肩をすくめて再び目を閉じた。
「歌でも歌ってくれないか?」
「……故郷のものでよろしければ」
正直音痴なのだけれど、今はそうも言っていられない。
「頭を撫でてくれないか?」
たどたどしく歌っていると、要求がエスカレートする。やりたい放題ですね、旦那様。
白い結婚とはいえ、妻は妻、王妃は王妃。私は二つの国を守るために、なんだってするのだ……!
■■■
その日から私は毎晩、アルヴィンの寝所で張り込みを続けた。
正妻が寝所に居れば、他の女性は入ってこれない。身の回りの世話は全て私がする。パゴニールは貧乏な国なので、身の回りのことを自分で出来るのは都合がよかった。
そうして私達は離縁の日まであと三日と迫ったところまで、日々を共に過ごした。
いつの間にか暗殺に関する悪夢は見なくなっていた。つまり、また未来は変わったということ。それでは、変わった後の未来はどうなったのか?
それはもう、私には分からないのだ。
私はもうすぐリスタニアとは無関係になるのだから、そのせいだろう。
「アルヴィン様。あと三日、頑張ってくださいませ」
最後まで油断は出来ない。私はいつも通り、寝所までアルヴィンを寝かしつけに訪れた。普段は頭を撫でながら子守歌を歌うと眠ってくださるのだが、今日のアルヴィンは寝付かない。
「あと三日、か……」
「はい」
「それが過ぎたら、君の見た予知夢は変わるのか?」
私はアルヴィンの頭を撫でる手を、止めてしまった。
「……お気づきに?」
「君が俺を守ろうとしてくれているのは分かっていた」
「……王妃としての務めですから」
「それでもいい。君に感謝している」
私は私のために、運命を回避するために行動している。だから、感謝をされるというのはむずむずする話だ、だって私は夫を──アルヴィンを守りたくて、失いたくなくて、勝手にやっているのだから。
「ルクレツィア」
アルヴィンは私の手を取った。
「はい?」
「そんな悲しいことを言わないでくれ。あと三日ではなく、ここにずっといて欲しいんだ」
「はい!?」
「白い結婚は、嫌だ。やり直せないか。君と本当の夫婦になりたいんだ」
私たちの関係は、政略による白い結婚だった。それはもうすぐ完遂される。契約期間の間だけ、私は彼の妻として彼を守るために全力を尽くす。
「君は……君はただ、仕事だと思って俺に接しているのかもしれない。けれど、俺はもう、君がいないと……」
すっとそれだけを思って生きてきたのに、今更そんなことを言われても……!
突然の愛の告白と、自分の行動を客観的に認識した恥ずかしさで、最後までアルヴィンの言葉を聞くことが出来ず、意識が遠くなった。
その夜、私は再び夢を見た。けれど、その夢は今までとは全く違っていて、穏やかなものだった。
満開の花が咲き乱れる庭園で、アルヴィンと私は笑顔で手を取り合っていた。私を見つめる彼の瞳は穏やかで、こちらも自然と笑みが溢れる。
そして、彼の腕に抱きしめられて、私は確かな幸福を感じていた。
『ルクレツィア、君を愛している。このまま、ずっと夫婦でいよう』
『はい。私も、アルヴィン様のことを……』
──ああ、私、いつからか。使命と願いが、すり替わっていたんだ。それに今更気が付くなんて……。
「はっ!」
目が覚めた。気絶なのか眠ったのか微妙なところだけれど、とにかく私はアルヴィンの腕の中にすっぽりと収まっている。不覚ね、暗殺は油断した時に起きると言うのに。
「いえ、それより……今のも……もしかして、予知夢?」
どうやら私の行動によって未来が変わって、次の夢が現れた。変わったらしいけれど……。あれが未来だとしたら、離婚しないのが正解ということ? いや、今のはただの願望かもしれないわね?
つまり、私、これからどうなるの……? いえ、どうしたらいいの……?
「ルクレツィア。おはよう」
朝の柔らかな陽射しに包まれながら私を見つめるアルヴィンは、夢と同じ表情をしている。
「お……おはよう、ございます」
今まではすらすらと喋ることができたのに、今はそれ以上の言葉が出てこない。
「ルクレツィア。何か、夢を見たか?」
「あ、い、いえ。特に何も。そうだ、私、朝の体操に……」
急に恥ずかしくなって、アルヴィンに──私の夫に、背を向ける。
ああ、今までは何をすべきか明確だったのに、今はもう、これからどうしていいのかわからない……!
何かが変わってしまった気がするけれど、私の中で結論を出すには、もう少しだけ時間が必要だと思う。それはつまり、まだ私はここに居たい──そう願っているのは、間違いがなかった。
お読みいただきありがとうございました!下の☆☆☆☆☆で評価やブックマークをいただけると励みになります!