89 小さな尖った欠片を残して
心にどす黒いものを残したまま、生活は、いつも通りに戻っていった。
特に、剣様に恋人が出来たなんていう話ではないし、以前と違うのは奈子の気持ちひとつなのだ。
奈子がその気持ちを見ないようにするだけで、生活はなんてことないいつも通りに戻る。
実際、時々の仕事の話しかする必要はなく、仕事に集中していれば、特にそれほど関わることもなかった。
あと2ヶ月で文化祭。
幸いな事に、仕事はいくらでもある。
今日も、それぞれがそれぞれの書類とにらめっこをしている。
奈子の仕事は、主に参加団体の管理と教室の割り振り。プログラム作り。
団体の参加希望の申込みが締め切られた今日は、教室を割り振る作業だ。
「……飲食店。出店。舞台。野外舞台。お化け屋敷。展示」
今回、舞台がちょっと多いようだ。
軽音部や吹奏楽部以外にもジャズをやる団体もいる。それと、合唱に演劇に詩の朗読……。
黙々と頭を悩ませているところへ、
「何か悩んでいるの?」
と、剣様が話しかけてきた。
ドキリとする。
話しかけられて、嬉しくなってしまうのは、もう条件反射だ。
「舞台希望がちょっと多くて。数件お断りしないといけないかもしれなくて……」
「舞台……舞台ね」
そう言いながら、口元に指を当て考える仕草も美しい。
「それなら、もう一つ舞台を作ってもいいかもしれないわね」
「もう一つ……」
現時点での舞台の予定は、音楽堂と野外ステージだ。
体育館は、チアや柔道などの体育会系の部活が使う予定。大きなホールはバザーが入っている。
もう一つ作れたなら、確かに今回の希望はほぼ通る事になるけれど。
「じゃあ、外に……は、ダメか。ピアノが出せませんもんね」
実際、希望する備品の中にピアノが多いのだ。合唱にしろ、ジャズにしろ。
そこで、
「ピアノが使える場所、心当たりならありますけど」
と言ったのは杜若先輩だった。
「ホールの倉庫に、アップライトピアノが置いてあるわ。滅多に使わないけれど、調律はやってあるって聞くわね」
「へぇ」
と、剣様が思案の顔になる。そんなお顔もまたお美しい。
それにしてもホール、か。
ホールはバザーで使う予定だ。
バザーはけっこう大きな部屋じゃないと出来ないから、バザーを他に移すのは難しい。
「ああ、じゃあ、カフェテリアはどうかしら」
剣様の目が、キラリと光る。
「カフェテリア、ですか」
確かに、ホールのそばにはカフェテリアがある。
「そこに、ステージを作るって事ですか」
「そうよ」
再度、団体の一覧を眺める。
詩の朗読あたりだとカフェテリアでも十分だろうか。あとは、ジャズとか?合唱はどうだろう。
考えたら、出来るような気がしてくる。
「じゃあ、ちょっと下見に行ってきます!」
「ええ、いってらっしゃい」
立ち上がった奈子に、声を掛けたのは剣様だった。
それはなんだか明るい笑顔で、少し楽しそうだし、少し嬉しそうだった。
その顔を見て、奈子も微笑む。
ああ、なんだか剣様のあんな顔、久しぶりに見たな。
どれだけ苦しくても、剣様を好きな事をやめられないのなら。
ずっと好きでいるしかないんだ。
涙を堪えて、廊下を早足で歩く。
真っ青な空に浮かぶ雲が、まるで絵に描いたような眩しさで浮かんでいた。
結局好きでいる決心をした奈子ちゃんなのでした。