80 ピアノの音
夏が、終わろうとしていた。
夏休みの終わり、奈子は久しぶりに第三音楽室を借りていた。
エアコンを効かせた教室で、楽譜と睨めっこする。
やはり曲にも、相性のいい曲と悪い曲があった。
相性のいい曲はそれほど困る事もなくイメージが掴めるのだけれど、相性の悪い曲はなぜだか身体に入ってこない。
今回の曲は、譜読みはそれほど困らなかったのだけれど、なぜだかいざ暗譜という場面でいまいち身体に浸透しない曲だった。
おおまかにはわかるのだけれど、似ているフレーズの繰り返しの中、細かい部分で、音符が上がったり下がったり。音符があったりなかったりだ。
かといって、何ページもある楽譜を暗譜せずに弾く事は不可能だ。
「む〜ん」
一度目の転調と三度目の転調の後で少し混乱する……。最後の大サビの部分も、この音とこの音のフラットを落としてしまいがち……。
考えながら、弾いていく。
窓の外に雲が見える。
いくつかの部活は活動しているはずだけれど、この暑さで外で活動している気配はない。
静かな世界で一人、楽譜を追うように弾いていく。
すると、
ガラッ、
っと、音楽室の扉が開く音がした。
「!?」
驚いて、ピアノを弾くのを止める。
この棟は、普段部活の活動場所とはなっていない。
あるのは生徒会室くらいのものなのだ。
もちろん生徒会メンバーにはそれぞれ夏休みでも仕事はある。
けれど、この部屋に先生が入ってくる事も、ましてや生徒会のメンバーが入ってくる事も今までなかった。
防音の関係で壁は多いけれど、ドアにはまっているガラスを覗けば、多少の音は漏れているし、ピアノを使っているかどうかはわかる。
知らずに入ってくる事もない。
顔を上げて、訪問者を確認する。
「え!?」
ツンとした顔で音楽室へ入ってきたのは、なんと剣様だった。
そもそもが、元々剣様と接触しないようにこの部屋を借りていたのだ。
これまで、ここから剣様の姿が見えた事もない。
もう普通に会えるようになったとはいえ、少し驚いた。
ガッ、とピアノの椅子が後ろへずれた。
「綺麗なピアノね」
剣様は、まるでピアノを弾いているのが私だとわかっていたみたいな喋り方をした。
「ありがとう、ございます」
褒められた事は、自分でも思った以上に嬉しかったようで、かあぁっと顔が熱くなる。
「今の曲、もう一度弾いてくれる?」
そう言うと、私がその言葉を飲み込めずぼんやりとしている間にも、剣様は並んでいる椅子の一つに腰掛け、何か書類を取り出した。
「あ、でも、この曲、まだ完璧に弾けなくて。別の曲なら、弾ける曲もあるんですけど」
申し訳なさそうに言ったけれど、剣様は、
「別に、つっかえてもいいわ。今のを弾いて」
と書類に目を通し始めた。
仕方なく、ピアノの椅子を整え、鍵盤へ向かう。
視界が鍵盤のみになれば、あとの事はどうでもよくなる。
この一人だった世界に、今現在二人居る。ただそれだけのことだ。
弾き始めると、スッと自分が曲に入り込んだ事がわかった。
そのまま、手が動くままに鍵盤の上で、曲をなぞっていく。
それは、ピアノの音だけが聴こえる静かな時間だった。
世界から、二人だけが取り残されたような気がした。
そんなわけないのに。
この世界が、私と剣様の二人を、特別扱いするはずなんかないのに。
フッ……と、トランス状態のまま、最後の音を弾き終える。
ああ、なんだ。弾けた……。
奈子は、剣様に向かって満面の笑みを見せると、
「弾けました」
とそれだけを言った。
「ええ、そうみたいね」
剣様は、いつも通りのツンとした、それでいて桜が咲き誇るような笑顔を、奈子に返した。
奈子ちゃん、なんだかんだピアノは続けているみたいです。