71 夏の真ん中(1)
大きなボストンバッグ。
履きやすい運動靴。
まだ薄暗い空と。
人もまばらな早朝の駅。
今日の待ち合わせは、奈子が一番乗りだった。
三泊四日の旅行。
たった三泊四日だけれど、私にとっては驚くほど長い。
緊張で、吐きそうになる。
レンガの地面。
つま先。
その上に乗っているのは、弱々しい私だ。
「あら、早いのね」
ビクン、とする。
顔を上げる。
昨日の夜は、眠れなかった。
この旅行が、楽しくなればいいって、そう思った。
剣様と二人で歩く浜辺を想像して。
その唇から漏れる愛の言葉を想像して。
剣様からねだられるキスを想像した。
ベッドから起き上がって、着ていく服を入れ替えたし、もう一度持ち物をチェックした。
けど、実際に、本物の剣様を前にすれば、どんな話題を振ろうとしていたかも、昨日やった笑顔の練習の成果も、全て忘れてしまって、結局、泣きそうな顔で剣様を迎える事になる。
「お、おはようございます、剣様」
「おはよう」
これは、非日常だ。
だから、剣様も、きっと気が緩んでいるに違いない。
だって、いつもよりおはようの声が優しい。
たくさんたくさん考えたのに。
結局私は、剣様に何一つ、気の利いた話が出来なかったんだ。
海までは電車で行く。
二人きりでもなければ、少し気持ちにも余裕がある。
「小節先輩」
コソコソと耳打ちする。
「いいカメラですね」
小節先輩は、いつもと違う小さいカメラを首からぶら下げていた。
「そうだろうそうだろう」
「ところで、ご相談なんですけど」
奈子が真剣な顔をすると、小節先輩も真剣な顔をした。
「剣先輩の写真、いくらなら売ってくれますか?」
「ふむ」
疑問も相談もないまま、小節先輩はスマホに数字を打ち始めた。
「これくらいでどうだ」
「…………っ」
しまった。
予想より0が多い。
けど、剣様のものに対して、金に糸目をつけたくはない。
「ん〜?全紙で印刷してやってもいいんだぞ」
全紙……っていうと、四つ切りの4倍の大きさってことか。
50センチくらい……?
「じゃあ、買いま……」
そこまで言ったところで、
「あら、面白い話してるのね」
目の前に、剣様が立った。
「ははは」
変な笑いが出た。
「私は写真なんて了承してないけど」
なんて桜の花が綻ぶような笑顔を見せた剣様だったけれど。
それからなぜか剣様が小節先輩に連れられ、電車の端の方で何かコソコソと相談した結果、写真の話は了承された。
え????
まさか、剣様がそんな事了承するなんて。
きっと何か取引があったに違いないのだけれど。
……剣様がそんな風に言い出す材料って何だろう。
もし、小節先輩が剣様の弱点を握っているなら、小節先輩を抹殺しないと。
そんな事を決意して、電車は青い空の下を走った。
窓の外は、段々と、長閑な雰囲気を帯びてくる。
「杜若先輩、菖蒲先輩、このお菓子、おすすめなんですけど」
「あら、美味しい」
「ふふっ、ほんと、美味しいわね」
「もう、あなた達、まだ着いていないのにもう遊んでるのね」
「だって、楽しい時間は長い方がいいじゃないですか。ね、剣様」
剣様も「まあいいか」って思っちゃう時もありますよね。