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天使のパラノイア 統括版  作者: おきつね
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第一章 『生涯忘れられない日』 統括版

序章同様に【  】で囲んでいる単語についての詳細を後書きに載せてます

読みにくかったらごめんなさい


あと誤字等の見直しとかは頑張ってしましたが、見逃し等があるかもしれません

予めご了承ください

 日常というのは、ある日唐突に崩れて終わりを告げる。

 そう思えるような出来事が、一番仲の良い友人に訪れた。

 私とその友人【七瀬咲(ななせさき)】が以前から話していた話題の映画を見に行ったその日の夕方に、遠出をしていた咲の両親は事故に巻き込まれて亡くなった。

 そう知らせてくれたのは咲自身であり、知らせを受け取ったのは映画を見に行った翌日の朝。

 鳴り響く着信の音に目を覚まし慣れた手つきで電話に出ると、まるで縋りつく様なか細い声で咲がこう言った。

「有希…私のお母さんとお父さん、死んじゃったって」

 そう言うや否や咲は酷く取り乱し、泣き叫ぶかのように言葉を重ねるのを何とか宥めた私は、外出の準備を手短に済ませ足早に咲の家へと向かった。

 咲の家の玄関前に立った私は乱れた息を整え意を決してからインターホンのボタンを押すも、無機質な音がなるだけで他に反応はなく、再度押してみても結果は同じ。

 家の中ではただ虚しくインターホンの音が鳴り響くだけでその他の物音などは何もない。

 そのことを不思議に思いながらスマホを取り出した私は着信履歴から咲のスマホへと電話をかけてみるも咲は電話に出ることはなく、しばらくしてから合成音声が流れたのを機に一度通話を切り、インターホン同様に再度電話をかける。

 それでも結果は変わることはなく合成音声が流れてから通話を切った私は、失礼なことだと理解していながらドアノブへと手を伸ばし、ドアノブを下げてから引いてみるも当然扉は開くことはなかった。

 扉の構造上これで開かないのであれば施錠されている他になく、どうにも出来ない現状から一度帰ろうと踵を返したその時だった。

 突然ガチャリ、と音が鳴り、恐る恐るに振り返ってみると玄関扉がほんの僅かに開いては、まるで逃げるかのような足音が家の中から僅かに木霊した。

「さ、咲?私…有希だよ!」

 扉を開き玄関内へと一歩踏み出した私がそう家の中へと声を発してみるも返事はない。

 途端に気味が悪くなった私が踏み入れていた足を外へと出したその瞬間、私のスマホはぶるぶると震え始め間を置かずに着信音を鳴り響かせた。

 ごくりと固唾を飲み込んでからスマホの画面を見てみると、そこには咲からの着信を知らせる表示が映し出されていた。

「も、もしもし?…咲?」

 この時点での私の感情は僅かに恐怖が勝ってはいたものの、それでも咲への心配がそれを塗り替え通話に出ては声を絞り出す。

『…………』

 けれでも繋がっているはずの通話からは何に一つとして音は聞こえない。

「…ねぇ、咲?」

 そう再度名を呼ぶと、僅かに鈴の音が鳴りほんの少しの間を置いてから酷く憔悴した咲の声が聞こえた。

『…有希、ごめんね。ごめんね』

「何で私に謝るのよ。咲が私に謝る事なんて何もない。何にもないよ」

『…うん。でも…でも…』

「大丈夫だよ。今咲の家の玄関にいるんだけど、どうしよっか。私としてはさ、咲に会いたい。何ができるかはわからないけど…それでも、咲の傍に居たい」

 慎重に言葉を選び声に出す。

 私自身にそんな経験がないからこそ、今の咲の気持ちは正直わからない。

 だからこそ、私は私が出来る範囲で思いを、言葉を伝えることに意味がある気がして必至に紡いだ、その程度の言葉。

『…………』

 咲からの返事はない。

 今度は催促することはせず、私もただ黙って紡がれるはずの咲の言葉に耳を傾け続けていると、小さく―控えめな笑い声が少しだけ聞こえ、僅かに明るくなった声色で咲は言葉を紡いだ。

『ありがとう有希。私も有希に会いたい。…私の部屋に来て欲しい』

「わかったすぐ行くね」

『うん…待ってる』

 その言葉を最後に通話を終え、少しばかり軽くなった胸を抱きかかえながら改めて咲の家の中へと足を踏み入れた私は、靴を多少乱暴に脱ぎ捨て玄関から真正面にある階段へと向かう。

 だが―

「………え?」

 ―階段の一段目に足をかけた時に横目で見えてしまった光景に目を奪われ動きを止める。

 向けた視線の先ではまるで何かが暴れたかのような惨状―廊下とリビングを隔てる扉はガラス部分が割れ、その先に見えるリビングでは食器やカトラリーの類が乱雑に床に転がり、机はどうやったのかバラバラに割れていた。

 言葉がでないまま一体どれくらいの間その光景を目に焼き付けていたのだろう。

 まるで催促するかのように鳴り響いた着信音に身体を大きく撥ねさせ、あわあわとした様子でスマホを取り出した私は画面を見ることなく通話を繋げると、不安げな声色で咲が言葉を投げてきた。

『有希?どうしたの?何かあった?」

「あ、え、いやごめんごめん。…靴を脱ぐのに手間取っちゃって」

『ふふ、おかしな有希。靴は脱ぎやすい物を好んで履いてるくせに…。なんだろう、ちょっと嬉しい』

 何かを勘違い?はき違えているのか、咲が嬉しそうに笑いながらにいうのを愛想笑いで受け答え、階段を一段、また一段と上がっては二階の廊下へと足を踏み入れる。

『それじゃあ部屋で待ってるからね』

 何処か強い感情が籠ったような声色で告げてから通話を切った咲が待つ部屋は廊下の突き当り。

 その道中でまた何か見てしまうんじゃないかと僅かにおどおどしながら足を進めるも、特に変わった様子もないことに安堵して咲の部屋の扉―ドアノブへと手をかけた。

 ドアノブは何の抵抗もなく回り、握ったまま手を引けばいつも通りに扉は開く。

「有希…待ってたよ」

 扉を開いた先ではベッドに寝そべったままやつれた様子で笑う咲がおり、ぐっと身体を起こそうとしたのを駆け寄ってから止め、咲の身体を強く抱きしめた。

 そのことに少し戸惑いを見せた咲だったが、程なくして私の背後へと腕を回しては胸に顔を埋め泣きじゃくり始める。

 しばらくその状態が続き、気が付くと泣きつかれ寝息を立て始めた咲を起こさぬように、ゆっくりとベッドに横たわらせた。

 少し落ち着いた心持で咲の部屋の中を見渡すと服や小物などが僅かに散乱としており、咲を起こさぬ様に静かに片付けを始め、片づけが終わった頃合いで咲が目を覚ました。

 身体を起こした咲は窓の外へと視線を移し、日が落ち始めている事を確認してから私へと視線を向けた。

「今日は来てくれてありがとう有希。ちょっとだけ、心が軽くなった気がする」

「…そう、それなら良かった。…一人で大丈夫?」

「多分、大丈夫。…あ、そうだこれ。よかったら受け取って」

 そう言って咲が私に差し出したのは鍵であり、その形状から恐らくこの家の玄関扉を開錠、施錠するための物。

 一体何故それを私に渡そうと思ったのかは正直わからなかったが、咲がそうしたいというのであれば特に断る理由もなく、あれば何かと役に立つはず。

「ん。一応受け取っておくね」

「ありがとう。今日来てくれたことも含めて。…それでね、明日は学校に行こうと思ってるから…その…」

 私の顔色を伺うように上目づかいで視線を向けてくる咲に対し、咲の現状について様々な考えが巡り答えあぐねる私だったが、鍵を受け取ったつい先程と同様に咲がそうしたいのであれば―どのような形であれ前に進もうとしているのなら―と自身に納得させ私は表情を綻ぼさせた。

「わかった。じゃあまた明日の朝迎えに来るね。あと、何かあったらすぐ連絡して。いい?」

 咲が浮かべていた表情から察せられた感情―不安感を拭うべく咲の頭を撫でながらにそう問いかけると、咲は少しだけ恥ずかしそうに視線を下げ無言のままにこくこくと何度か小さく頷きを返してくれる。

「よろしい。じゃあ今日はこのまま寝なよ。鍵はこれでかけとくからさ」

 そう先程受け取った鍵をひらひらと振りながら笑って見せ、再度咲をベッドへと連れて行き「じゃあね」と短く言葉を告げて咲の部屋、そして咲の家を後にする。

 その帰り道、私は私なりに考えても仕方がないことに思考を巡らせたが、一向に答えなど見つかるはずもなく、やがてそのことについて考える事を止めた。


 約束通りに咲の家へと迎えに来た私だったが、持っている鍵で勝手に開錠することは憚られインターホンのボタンへと手を伸ばす。

 つい昨日聞いた音と同じ物、でも何処か今日は軽快な音に聞こえたそれが鳴ると、それを待っていたかのように玄関扉は勢いよく開かれ咲が飛び出しきた。

 昨夜のような弱々しい様子は何処にも見られず、妙に元気な姿に違和感を抱きながらも私は挨拶を返してから「いこっか」と踵を返すように背を向けると、咲は心底嬉しそうに表情を緩めながら私の腕を絡め取る様に抱き着いてくる。

 そのままの状態で咲の家を後にし学校へと向かう道中で、咲の表情は僅かな怯えに変わり顔を俯きがちに歩いているのに気が付いた私は、空いている片方の手を咲の頭へと伸ばし無言のまま優しく撫でる。

 何か気の利いた言葉をかけてあげるべきだとは思ったが、どうにもかける言葉が見つからず、誤魔化すような行動しか取れない自分に対し僅かに嫌気が差すも、咲の現状や心境を考えればどうでもいい事この上ないと結論付け、何とか少しでも機を紛らわせられればいいと他愛のない話を広げると、徐々に咲はいつもの明るさを見せ始めてくれた。

 学校の校門にはいつも通り私と咲のクラスの担任が立っており、咲の姿を見るなりしきりに話しかけてくれたが、当の咲の反応は薄く「何かあればすぐに頼ってくれ」と声を最後に私達を校舎へと見送ってくれる。

「咲…ほんとうに大丈夫?」

 その言葉はあまりに愛想を振りまかない事に対して募った違和感から零れた―零れてしまった言葉だったが、咲ははにかむように笑ってからいつもとあまり変わらない声色で言葉を返す。

「うん、私は大丈夫だよ。ただちょっと…どう返せばいいのかわからなくって」

 あまりにも咲には似合わない言葉に対し、途端目の前にいるのが咲ではない別の誰かに思えてしまった私は、「そっか」とつい無意識に突き放した、冷たい言葉を発して視線を逸らしてしまう。

 何故そうしてしまったのか、すぐにでもしまったと気が付き逸らした視線を咲へと戻すと、そこには私以上に表情を青ざめさせた咲がおり、その瞳には涙が溢れぼろぼろと頬を伝っては地面に落ちる。

「有希ごめんなさい。…ごめんなさい!違うの、さっきのはそうじゃなくて…そういうつもりじゃなかったの!お願い、信じて!!」

 驚くほど大きな声を上げ、周りの視線が私達へと注がれるのを肌で感じる。

 だが、そんなことに気を留めることなく咲は一心不乱に私へと「ごめんなさい」と繰り返し続け、反射的に咲を抱きしめた私は落ち着け、落ち着けと自身にも言い聞かせながら咲へと言葉をかける。

「わかった、わかったから落ち着いて咲」

 声を荒げながらにいうのを堪え、冷静に、より声が届くようにと静かに言った私は、周囲から視線だけを注がれるのに嫌気が差し、咲の手を取ってから落ち着ける場所―保健室へと足を向かわせた。

「すみません!ちょっと落ち着くまでここにいてもいいですか?」

 そう勢いよく扉を開いた私だったが、保健室にいた先生は特に驚いた様子もなく静かに視線を合わせ、眼鏡を取ってからいつもと変わらぬ様子で言葉を返してきた。

「花垣さん、それに七瀬さん?…まあいいわ、ホームルームまでには戻りなさいよ」

 他の先生達に比べ、際立って生徒と深い関りを持とうとしないと有名な保健室の先生だが、今回に限ってはそれがありがたく、咲の様子を一瞥してから私に一任することを決めてくれたようで、すっと視線を机の上へと戻し何やら作業を再開し始める。

「ありがとうございます」

 その言葉に対する返答は何もないまま、私は咲を連れベッドへ腰かけさせてからその周囲に備えられたカーテンを閉じ咲の隣へと腰かけると、咲はぎゅっと私へと抱き着いてはただ無言のままでいる。

 いくらか落ち着きを取り戻したのか、時折すんっと鼻をすする音を鳴らすだけで先程の取り乱しが嘘のように思えた私は殊更に頭を悩ませたが、ガラッと開かれた扉の音が聞こえ無意識にそちらへと私は耳を傾けた。

「失礼します。有希―花垣さんと七瀬さんがこちらに来ていませんか?」

「そっちのベッドにいるわ。あまり騒がないでちょうだいね」

「わかりました。ありがとうございます」

 僅かな会話の後、扉が閉まる音が聞こえ、続けざまにこちらへと向かってくる足音がすぐ近くに来たのを見計らって私がカーテンを僅かに空けると、そこには聞き覚えのあった声の主であるクラスメイトの【倉原亜久斗(くらはらあくと)】の姿があり、私の顔を見るなり優し気な笑顔を浮かべてくれた。

「おはよう有希。それと咲も」

 私へと挨拶を告げたすぐ後に、カーテンの中を覗き込むように身体を傾かせ中にいる咲へと言葉をかけた倉原は、一度だけこくりと咲から返された頷きに対して頷きを返し、笑顔のまま私へと視線を合わせた。

「なんか下駄箱の方であったって聞いたけど大丈夫か?それなりに騒ぎになってたぞ」

 少しだけ不安げな表情を浮かべながらそう告げた倉原に、私は明るい笑顔を取り繕って言葉を返す。

「まあ多分、大丈夫だと思う。一応ぎりぎりまでここで休ませてはもらうけど」

「そっか。じゃあ俺は先に教室に行ってくる。また後で」

「うん、また後で」

 倉原の背を見送ってから数十分程経った後にホームルームの予鈴が鳴り、私と咲は保健室から追い出されるように教室へと向かい慣れた調子で扉を開くと、一瞬だけ教室内は静まり返ってはすぐにでもいつもの喧騒へと戻る。

 それが皆なりの気遣いであることに感謝しながら私は咲を席へと連れて行き自分の席へと着こうとすると、何故か咲は自身の席に腰を下ろすことなく私に付いて来ており、今この瞬間は誰も座っていなかった私のすぐ隣の席へと着席した。

「…咲、そこ夢莉の席だけど」

「でも今は空いてるよ?だったら私が座ってもいいでしょ?」

 さもそれが普通だといわんばかりの咲の発言に面を喰らい言葉を失った私だったが、咲はさして気にすることなくすぐ目の前の机を私の机へとくっつけると人懐っこい笑顔を浮かべる。

「それにさ、ここだったらずっと有希の傍にいられる」

 そういって私を半ば無理矢理席に着かせて腕へと手を伸ばし抱き着いてきた咲だったが、私はようやっと抱いていた違和感が確信へと至る。

 ―違う…これは咲じゃない。

 だが、得てして状況は私を置いて進み続ける―そう、当然悪い方へと。

「ふぅーあっぶねぇ。もう少しで遅刻だったわ。…って何この変な空気」

 そう勢いよく教室のドアを開き姿を現したのは、咲が座っている席の主である【新西夢莉(あらにしゆうり)】で息を整えてからそう訝し気に言葉を漏らす。

 ついっと近くにいるクラスメイトへと漏らした言葉の回答を求めるも、そのクラスメイトは「えーと…」と答えになっていない言葉を漏らしてから視線を夢莉の席―咲が座っている場所へと移し、それを見た夢莉は「え、それだけ?」と短く言葉を告げてから「まあいいか」と付け加えこちらへと足を進める。

 さしたる距離も無い為、異常を察したクラスメイトが止めに入る前に自分の席の前へと着いた夢莉は、自分を無視してしきりに私へと話しかけ続けていた咲へと「おい」と短く言葉を投げかける。

 だが、言葉をかけられたはずの咲の耳にはそれが入らなかったのか、私が聞いていない事など露ほども気にせずに話しかけ続けていた。

「もう先生来ちまうから自分の席に戻れよ」

 自身が無視され続けている現状に若干のイラつきを滲ませた口調でいう夢莉に対しようやっと反応を示した咲だったが、まるで意味がわからないといいたげな表情で「なんで?」と首を僅かに捻る。

 特に大きな声で言葉を交わしていた訳ではなかったはずだが、周りの―というよりも教室内ではクラスメイトの誰一人として言葉を発しておらず、それにより嫌に強調された二人の声だけが次第に荒々しい感情が混じり交わされ始めた。

「咲の席はここじゃなくてあそこだろ。いいからどけよ」

「嫌だよ。私、今日はっていうか今日からここに座るから夢莉があっちの席に座ってよ」

「はぁ?何意味わかんねぇこといってんの?それがまかり通るなら元々席順なんて決められてねぇよ。いいからどけよ」

「だからあそこ座ってっていってるじゃん。あれ、もしかして言葉わかんない?」

 あからさまな挑発的なその言葉に夢莉は咲の胸倉を掴み上げ今にも殴りかかりそうなほど表情を凄ませるが、それとは対照的に咲の表情には感情は無く「何?服伸びちゃうじゃん」と短く言葉を返す。

 そんな状況がとても長く続いたような感覚に襲われるも何とかしなければと立ち上がった私は、咲の胸倉を掴み上げていた夢莉の手に自身の手を添えて、諭すような声色で咲へと言葉を投げかけた。

「咲、そこは夢莉の席だし咲は咲の席に戻ろ?先生に怒られちゃうよ?」

 あくまでも優しさを取り繕い、できるだけ穏便に事を済ませるために努めたはずだったが、咲の反応は返ってくるだろうと思っていたものとは大きく異なり、今にも泣き出しそうな表情で咲は小さく言葉を溢し始めた。

「な、何で?…なんでそんなこというの?」

 私へと視線を向けた瞬間に態度を変えた咲の様子に、夢莉は掴んでいた咲の胸倉を放してしまい、解放された咲は私に縋りつくように身を寄せてくる。

「なんで?なんで?なんで?なんでそんなこというの?有希は、有希だけはわたしの味方だよね?そうだよね?」

 早口でまくし立ててくる咲の目からは徐々に光が無くなっていくような、闇で染められていくような黒い瞳が私へと真っすぐ向けれており―

「ね、そうでしょ?」

 ―とほんの僅かにでも近づけば私の唇と咲の唇が重なってしまいそうな距離で告げられ、咲の吐息が感じられる。

 だが、その事を気にしている暇もなく真っすぐに向けられている咲の瞳は、まるで私の意識を吸い込むような真っ黒なものへと変貌し、見つめ合っていた時間が僅かであったにも関らず私の意識は遠のき始める。

『捕まえた』

 そう聞き覚えのあるような、かと思えば聞いたことのない声であったかのような言葉が聞こえ、私の意識はぷつんと途切れてしまった。

「―い、おい!大丈夫か有希!しっかりしろ!」

 ハッと意識を取り戻した私の肩を掴み強く言葉をかけてくれた夢莉は、私が目覚めたことに安堵したのか安心した表情を浮かべてくれる。

「よかった。大事はなさそうだな。…で、何があったんだよお前ら―いや、どっちかっていうと咲に、か」

 夢莉が向けた視線の先ではどこか茫然と立ち尽くしている咲の姿があり、私の身体を支えてくれる夢莉の手には強く力が込められ、ぎゅっと私の身体を抱き寄せた夢莉は言葉を続ける。

「ここ最近あいつに何かあったのか?…まあ何があったにせよ、あれは普通じゃあないよな」

 何処か心当たりがあるかのような間の空け方が気にかかったが、今はこの状況をどうにかするのが先だと思い至り、夢莉の手を借りながらゆっくりと立ち上がった私は僅かに身体を揺らす咲へと言葉を投げかけた。

「ねえ咲?どうしちゃったの?そんな怖い顔やめてさ、席に戻ろうよ…」

 辛うじて発せられたその声は震えて弱々しいもので、どこまで正確に伝わったかどうかさえわからない。

 けれでも咲だけは私の声が聞き取れたのか、徐々に明るくも全く別の何かを孕んだ笑顔へと表情を変え、ゆっくりと伸ばした手を向けながら私の方へと歩き始める。

「…ッ!咲!それ以上近づくな!」

 咲の表情、それに行動を見て表情を青ざめさせた夢莉は私を守るようにして咲へと立ち塞がるが、その身体は僅かに震えいた。

 その時、私の目に留まった―強く視線を引き付けたのは、夢莉の腰からぶら下がっていた小さな瓶の中に入っていた淡く光を帯びた白い羽根。

 何故それに強く引き付けられたのかはわからなかったが、迫りくる引き摺る様な足音に意識を戻され視線を上げた先では、また表情を顰めた咲が尚も歩みを止めることなく私へと手を伸ばし続けていた。

 だが、その手が私や夢莉に触れるよりも早く、不意に飛び出してきた別の手に手首を掴まれ阻まれ、勢いよくその別の手の主へと視線を向けた咲と同様に視線を向けると、そこには難しそうな表情を浮かべた倉原の姿があった。

「…やっぱり、まだ調子が良くないみたいだな咲。先生には俺から言っておくから今日はもう帰った方がいいと思うぞ?」

 咲に睨まれながらも臆することなくそう告げた倉原は、次いで視線を私へと向けながら掴んでいた咲の手を離してからにっこりと笑顔を浮かべた。

「有希も体調が悪いなら保健室に行くか帰った方がいいだろうな」

 その言葉と向けられた表情から倉原が伝えたかった事を察した私は、咲に気付かれない様―表情に浮かべない様に気を付けて倉原へと言葉を返す。

「そう…だね。咲」

 そう咲へと呼びかけ「帰ろっか」と笑顔を向けた私に対し、咲はつい今しがたまで倉原へと向けていた表情―視線が嘘だったかのような明るい表情を浮かべ「うん!」と短く元気に返事をして私の腕へとしがみつく。

「そうと決まれば早く帰ろうよ有希」

「ちょっと咲、別に急ぐ必要はなくない?」

 急かすように身体を引っ張る咲へと極力明るい声で返事をしてから私は、困り顔の倉原と心配そうな表情を浮かべる夢莉へと視線をちらりと向けてから教室の外へと足を踏み出した。


 学校から咲の家までは特に会話もなく、別れる際にも咲は「じゃあね」と明るく別れを告げてから玄関の鍵を開け扉の奥へと姿を消す。

 それをしっかりと見送ってから多少遠回りになりつつも迂回した道筋で改めて学校へと向かい始め、その道中で私はとある事を思い出し表情を青ざめさせる。

(やっぱり幾ら思い返しても学校に向かう際、咲は玄関の鍵なんてかけてなかった!)

 咲は玄関を飛び出した傍から私の腕へとしがみつき、そのままの状態で学校へと赴いていた。

 そうであるのなら、オートロック機能のない咲の家の玄関扉に鍵が掛かっているわけがない―つい先日に咲は自身以外の家族を亡くしているのだから。

 強盗が入ったという線も無くはないのだが、私からすれば玄関扉の鍵が外れ、家の中はめちゃくちゃに散らかっている(それもまるで何かが暴れたかのような)状態であり、強盗として入るにはあまりにもメリットは少なく、また朝の9時前という明るい時間であることも否と決するには十分な材料と云える。

 それでも心配の念が全くないわけではないものの確認しに戻る勇気を持っておらず、そうではないと願いを抱えたまま学校へと着いた私は、一限目が終わるまでの間誰にも見つからぬ様トイレに身を隠し、チャイムが鳴ったと同時に教室へと駆け出した。

 担当教師が教室から出てのを確認してから改めて教室に入った私は、クラスメイトの大半が戸惑いの声を上げているのを気にすることなく落ち着いている倉原と夢莉の元へと駆け寄った。

「咲の事で話があるんだけどちょっといい?」

「…あぁ勿論。人目―それも教師にバレない場所なら知ってる。行こうか」

 笑顔を浮かべたまま快諾した倉原に続き無言のまま頷きを返した夢莉と共に私は倉原の後をついていくと、階段を上がって最上階―屋上の扉の前へと着く。

 倉原はおもむろにポケットへと手を入れると小さな鍵を取り出し、その鍵を使って屋上の扉にある錠前を外すと私と夢莉へと扉を潜る様に促した。

「いいのかよ、信頼されている生徒会長様がこんな事して」

「ま、バレたらバレたでしっかり謝るさ。それ以上にクラスメイトの心配が上回っている事に何か疑問があるか?」

「…良い性格してんじゃん」

 そう言いながら屋上へと踏み入った夢莉に続き私が扉を潜り、最後に倉原が扉を潜った後に後ろ手に扉を閉じた。

 隣の校舎から見えない位置まで移動してから腰を下ろした夢莉と倉原は、未だ立ったままの私へと視線を向け座るよう促すも、私は未だ何処か躊躇った様子で腰を下ろすことはできなかった。

 そんな私の様子に夢莉はため息をついてから立ち上がると、俯いている私の顔を上げさせ頬に平手打ちを浴びせた。

「いつまでそうやってくよくよしてんだよ。いい加減腹を括れ。事が起きる前ならいざ知らず、もう既に起こっちまってんだ。そうしてたって咲は元には戻らねぇぞ」

 そのどこか含みのある発言ではあったものの、私は頬の痛みと現在の咲の姿を顧みてようやっと決意を固め「ありがとう夢莉。おかげでお腹、括れたよ」と不敵に笑みを溢した。

「なら上々。…悪かった頬っぺたぶっちまって。痛かっただろ?」

「いやまあ痛くはあったけど…夢莉の優しさが感じられたから、今回はしゃーなしチャラにしてあげる。…それに、相談にも乗ってくれるんでしょ?」

「何が出来るかまではわからんけどな。それで?咲のあれは何だよ」

「それに関しては私にも正直わからない。だからまずは、昨日の朝から何があったのかを話すよ」

 そう言ってから夢莉と倉原の両名と対面できる位置に腰を下ろした私は、昨日と今朝の出来事までの全てを語り始め、二人はそれに真剣に聞き入る。

 やがて学校を出てから戻ってくるまでの僅かな時間の話さえも話し終えた私は「多分だけど」と小さく告げるも、確信を以て言い放つ。

「あれは咲じゃない」

 その力強い言葉に倉原は強く頷きを返し、顎に指を添えながら自分なりの考えを口にする。

「聞く限りどう考えても不思議な事が起こっている。現実的観点は無視して考えた方が真実にたどり着けるかも知れないな」

「例えば?」

 倉原が言わんとしている事にいまいち理解が及ばなかった私がそう問いただすと、倉原は少し不安げな表情を浮かべながら携帯を取り出し何かを検索し始めた。

「例えを出せるほどそういった事に精通しているわけじゃないし、実際体験したわけでもないんだけど―」

 そう一度言葉を区切ってから検索し終えた携帯画面を私と夢莉へと見せ連なる言葉を口にした。

「―そういう不思議な話だったら、此処で幾つか読んだことがある」

「これは?」

「とあるサイトの考察をしているスレッド。で、そのとあるサイトっていうのが『天使のお悩み投函所』と呼ばれる都市伝説に近いもの。このスレッドでは天使に助けられたっていう人が偶に出てくるんだけど、その書き込みをした人以外で実際にそのサイトへと行き付いた人はいない。…嘘か真か都市伝説の名に恥じない、幻のサイトだ」

 改めて何かを検索した倉原はその検索結果の画面を見せるも、その画面に出ている目を引く項目は検索欄の『天使のお悩み投函所』と『検索結果はございません』の二つだけだった。

「なに…これ」

「これが現実的観点を無視した考えの示し道。普通じゃこんなのはありえないだろ?」

 再度、検索をかけた倉原が見せてきた画面には検索欄に『天使のお悩み投函所 とは』と書き込まれ、検索結果の一覧にはそれに連なるスレッドが幾つか表示されており、先程の画面の違和感を膨れ上げさせていた。

「今現在確認されている超常的現状は『検索欄に天使のお悩み投函所とだけ記した際の不可解な検索結果』と、『スレッドに張られたとあるスクショの画面が見る人によって違うものである』の二つ。まさにこれがそのスクショってわけだけど、有希はこれどう見える?」

「どうって…何か一輪の花の絵にしか見えないけど」

「そう、俺もそう見える。だけど、このスクショの投稿者や他の何人かは『天使のお悩み投函所』のホームページが見えるそうだ。面白いだろ?」

 まるで子供が新たらしい発見やおもちゃを買ってもらえたかのような無邪気な笑みを浮かべる倉原に対し、私は失礼ながらも若干引きつった笑みを返し僅かに目を細めては一輪の花の絵を凝視する。

(あれ?何か変だ。ほんのうっすらとではあるけど、何か全く別の物…が見える気が)

 そう思考に耽るも、倉原は画面の表示を別の物へと変え新たに表示させたスレッドの内の一つを開き、私と夢莉へと見せつける。

「ついさっきの画像が『天使のお悩み投函所』に見える人達の共通点は、自己申告ではあるものの悪魔と遭遇し天使に助けられたっていう人だけなんだ。そして、そんな中でも今一番注目されているのはこのスレ主が張った一枚の写真。これが天使の存在を裏付ける最も信憑性がある写真なんだ」

 スレッドを開いた画面を下へとスクロールさせ、張られていた一枚の写真を拡大表示させた倉原は抑えられない興奮を隠すことはせずに言葉を連ねる。

「これほどまでに目が引かれる純白の羽根なんて見たことがない。造形だと思いたい反面、これが本物であるのならと、俺は本気で思ってる。大きさ、形、色のその全てがどの羽根を持つ生物の物とも一致しない。まさに神秘そのものだ」

 一枚の写真から動画へと簡易的な操作で画面を表示させた倉原は、これまでに何度も目にしてきたであろうその動画に釘付けとなっており、私もまた流れている動画の内容に言葉を失っていた。

 その動画ではどれだけの水や砂や土、果ては火や化学薬品といったものに浸され埋められ炙られようとも原型を崩すことなく、また汚れの一つも寄せ付けない純白の羽根が映し出され続けていた。

「…すごい、けど在り得ない。これが天使の羽根?」

「未だ確かな確証は得られてない。だけど、俺にはこれが全てだと思ってる。これこそが答えなのだと」

 私にとってそれが答えなのかはまだわからない。

 だが、一抹の不安さえも一時的に忘れさせてくれた純白の羽には興味が尽きず、疑いながらも本物であって欲しいという願いは強まるばかりだった。

「…でも、どうしてこの羽根は写真に映ってるんだ?サイトに載せられたスクショでさえ映りはしなかったのに」

 そんな私を現実に引き戻したのはこれまでただ黙々と画面を見ていた夢莉の発言であり、倉原は「多分だけど」と前置きをしてから口元に指を当て自身の考察を語りだした。

「消すよりもかは自然に収まるのを待っているんだと思う。下手に消しにかかればそれが存在の証明になってしまうし。…ホームページのスクショに関しては、予めフィルターをかけているから特に何もする必要性はないって感じかな。この場合のフィルターっていうのは『天使に助けられた人』、つまるところその人達はそうでない人にはない何かを持っている…とかね」

「なる…ほど?」

 自身の発言を理解しているのかそうでないのかわからない返答をした私に対し、倉原は苦笑いを向けてから自分なりの結論を口にする。

「まあ正直なところ、俺ではどうしようもないってこと。もし咲に悪魔が憑いているとして、俺は直接的な関係を持ってはいないし、咲を目の前にしても何も感じなかった。…だからきっと、これは有希にしかできない事なんだと思う」

 私は殊更首を捻り視線だけで続きを促すと、倉原はそれに頷いてから自身が思い浮かべる考えを話始める。

「まず検索するのはパソコンじゃないとダメだろうな。実際にそのサイトを見たって言っている人達は全員が全員パソコンからアクセスしたみたいだし。そして、その上でこのサイトに行き付く為の鍵…みたいなものがあるんじゃないだろうかって思うんだ。

「鍵…みたいなもの?」

 そう怪訝そうに聞き返して夢莉に対し倉原は「憶測だ、あまり真には受けないでくれ」と自信なさげにいってから言葉を続ける。

「多分悪魔に関係する何かを所持している人間だけがサイトに辿りつけるようになってるんじゃないかって。そうでなきゃ色々と辻褄が合わないし、納得がいかないって誰も書き込んでいるし俺もそう強く思ってる」

 以上かな、と倉原はもう見せるものはないと云わんばかりに携帯をしまい込み、私は不安げな表情をしながら倉原へとずいっと顔を近づけた。

「でもそれって…!!」

「そう、どこまでいっても眉唾な雲を掴むような話。だけど、有希や夢莉が抱いた咲に対する違和感…それらを考えれば、どこか天使や悪魔は実在するんじゃなかって何となくだけどそう思えてくる。そして、咲には悪魔が憑いている。…まあこれも俺の主観だけで何も確証があるわけじゃない」

 私の言葉の先を汲み取る様に続く言葉を口にした倉原だったが、言葉の最後の方はよほど自身がないのか視線を逸らし口を閉ざしてしまい、私もまた僅かに俯き口を閉ざした。

 そんな私と倉原の姿を余所に、夢莉は一人頭を抱え何やら悩んでいる様子でいたのを「どうしたんだ」と倉原が問いかけると、夢莉は悩んで悩み抜いた末に一度ため息をついてから何かを決意したかのような表情を浮かべた。

「誰も彼にも話すなって言われてる事なんだけど、一応例外として『悪魔が関っている』って判断できた場合に限り、その関係者だけに話してもいいって言われている事がある」

 そう告げた夢莉の表情からそれが意味することに気が付いた倉原は、驚愕の表情を浮かべてそれを夢莉へと向けていた。

「ただ今回の件については多分有希だけだ。…倉原が自分で言っていたように、直接的な関係を持ってはいないって、私もそう思ってるから」

 申し訳なさそうな表情を浮かべる夢莉は視線を逸らし、倉原は少しだけ悔しそうな表情を浮かべたがすぐにもその表情を変え、夢莉がそう思う必要なんてないとでも云わんばかりに明かる気な表情を浮かべた。

「そうだな…わかった。残念ではあるけど俺は席を外すよ」

 そう言って立ち上がった倉原に夢莉は頭を下げ「ごめん倉原」と小さく謝ると、「それ、夢莉が謝ることじゃないさ」と清々しく笑った倉原は背を向け、扉へと向かって歩みを進める。

 そしてドアノブへと触れ扉を開いてから振り返った倉原は、心配そうな表情で私と夢莉へと言葉を投げかけた。

「何かをやるって決まったわけじゃないけど、あまり無茶なことはするなよ」

 そう真剣な声色で告げ二人からの返事を待つことなく扉を潜り後ろ手に扉を閉じた倉原。

「…たりめーだバカ。カッコつけやがって」

 聞こえないとは理解していながらも倉原へと毒気付いた夢莉は、一度深呼吸をしてから私へと真剣な表情を向けた。

「最後の警告として一応言っとくけど、一度聞いたら後には退けない。それでも聞くか?…それでも、咲を救いたいか?」

 暗に私が何かをする必要なんてない、とでも言いたげな重々しい口調で告げた夢莉だったが、浮かべた私の表情には迷いはないようで一度大きく頷いてから力強く答えを口にする。

「大丈夫、それで咲を元の咲に戻せるのなら」

 私が示した決意は確かなもので、その答えを聞いた夢莉の心中では僅かな後悔と罪悪感が芽生えていたが、それでもと自分に言い聞かせた夢莉は私へと話始めた。


 夢莉の話を聞いてから学校を後にした私だったが、無自覚のまま本来の帰り道とは別の道を進み遠回りして自宅の帰路へと足を進ませる。

 その道中、夢莉から聞いた嘘のような話が頭の中を何度も思いだすも上手く考えはまとまらず、ふと透き通るような鈴の音が聞こえ顔を上げると、こじんまりとしながらも何処か強く目を引く神社が佇んでいた。

「…どうせなら神様に頼んでみようかな」

 普段から神という存在を信じてはいない私だったが、誰に聞かせるわけでもなく呟いてから神社の中へと足を踏み入れ、本殿前に設置されている賽銭箱へと財布から取り出した五円玉を入れ静かに手を合わせてからゆっくりと頭を下げる。

「どうか、咲を…助けてください」

 何が原因でそうなってしまったのかは未だわからない私にとって、明確な何かを口にすることは出来ずそう告げる。

 手順や動作、自分が行なう行為その全てが正しいものなのかは私自身よく知らなかったが、身勝手なお願いをする以上何もしない訳にもいかず、自身が今できる事をする。

 神社を後にする際、もう一度本殿へと向き直し頭を下げた私だったが、その時ふと透き通るような鈴の音がまた、聞こえた気がした。


 予想以上に遠回りしていたおかげか、私が家に付いた頃には太陽が僅かに傾き始めており、空は鮮やかな朱色へと染まり始めていた。

 鍵を空け玄関扉を空けると飼い猫がちょこんと座っており、私の顔をみるなり可愛らしく鳴き声を上げた。

「にゃー」

「どうしたのるー?もしかしてお腹空いた?」

 そういって慣れた手付きで靴を脱いでから自身を抱き上げた私に対し、るーは近づいた私の顔へと自身の顔をすりすりと押し付け、甘えるようにもう一度鳴き声を上げる。

 るーを抱きながらリビングの扉を開き台所へと視線を向けると、私の母親が夕食の準備をしており「ただいまー」と声をかけると、母親は一度手を止めて「あら、おかえりなさい」と笑顔を向けてから夕食の準備を再開する。

 どうやら私が早退したことは学校から連絡が届いてはいないようで、それに安堵の息を吐いてから抱いていたるーをソファへと下ろし、二階にある自室へと向かう。

 着替えを済ませてからベッドへと倒れこむように転がった私は天井を見上げ、咲の事、夢莉の話、昨日からの様々な事に対する考えをまとめ、身体を起こし学習机に置いてあるノートパソコンで調べ物をしなければならないとわかっていながらも、その意思に反するかのように重くなった瞼が閉じていく。

 意識が薄れていく中、視界の端で窓の外に何かがひらりと落ちていくのが見えたが、それを確認することもできずに静かに寝息を立て始めた私は、やがて夢を見始める。

 知らない丘の上で寂しそうな笑顔を浮かべどこか遠くを見ている見知らない少女が見える、これが夢であるとハッキリわかる―何故か理解できてしまうそんな夢。

 その少女の姿はまるで蜃気楼の様な儚く朧気で、ついっと自身に向けられた視線に私は鼓動を早まらせ、吐いてもいない息が荒くなる。

『―――――』

 少女は何度か口をパクパクとさせ、私に対して何かを告げようとしているようだったが、何を言ってるかまではわからない。

「聞こえない…何て言ってるの?」

『―――――』

 私の問いかけに対しまたパクパクと口を動かしたがその声は聞き取れず、少女が少し物悲しい表情を浮かべると朧気だった姿は霧散するかのように消えてしまい、少女が消えたと同時に私は瞼を開き夢から覚める。

 いつの間に部屋に入ってきたのか、お腹の上ではるーが身体を丸くさせて静かに寝息を立てていた。

「ゆきーそろそろ降りてきなさい。ご飯できるわよー」

 そう一階から母親の声が聞こえ、短く返事をしてから自身のお腹の上で寝ているるーを抱き上げて、しっかりと抱きかかえながら自室を後にした。


 ご飯を食べ終えてからお風呂へ入り、さっぱりした気分で自室へと戻ってきた私は、一度息を大きく吸ってからゆっくりと吐き出し勉強机の上に置いてあるノートパソコンを開け、起動させる。

 ややあって起動したノートパソコンのキーボードを慣れた手付きで叩き、倉原が言っていた『天使のお悩み投函所』のサイトを探すため入力し検索をかけるが、ノートパソコンの画面にはおかしな表記と共に検索エラーと表示されていた。

「…なにこれ」

 僅かにそう言葉を溢し、倉原が自身の携帯で検索をかけその結果を見せてくれた画面とは少し異なる、検索エラーのすぐ下に躍り出た文字列が私の目を強く引き付ける。

「”貴方が所持している物を手に持ち、再度検索をかけて下さい”…これって」

 屋上で倉原が言っていた『悪魔に関係する何かを所持している人間だけがサイトに辿りつけるようになってる』という予想は的を得ていたようで、ややあってからハッとした様子で立ち上がり咲から受け取った鍵の事を思い出しては、制服のポケットから引っ張り出す。

 手に持った鍵をじっと見つめてから強く握りしめ、再度ノートパソコンへと向き合い深呼吸をしてから意を決して再度検索をかけると、ノートパソコンの画面には一件のサイトの様絵が踊り出る。

「嘘…でてきた」

 躍り出た文字列を何度読み返しても変わることなどは当然なく、そのサイトの名前は私が探し求めていた『天使のお悩み投函所』に他ならなかった。




「『天使のお悩み投函所』―これで間違いない。…はずなんだけど、なんでこんなに胡散臭いんだろ」

 そう呟きながらも現状を変えることができるのならと、藁にも縋る思いでメニュータブから投函するを選択しざっくりとした内容を有希は書き記していく。

「名前は…一応伏せておこうかな。夢莉は大丈夫って言ってたけど、まだこれが本物―私が探しているものかどうかまではわからないし…えーと、”始めましてこんにちわ。友人からこのサイトの噂をお聞きし、私が今抱えている悩みを解決して頂きたいという思いからお話します。つい先日、親を失くした親友の様子が以前とは明らかに異質なものへと変貌しており、どうやら私以外の人とはまともに言葉を交わそうとはせず、無言のまま頷くだけか噛みつくような悪態をついています。このサイトの事を教えてくれた友人は、今回の話に似た物事を知っているらしく「恐らく悪魔がついているんじゃなか」と憶測を立てていました。その後、別の友人からは実際に天使様に助けられたことがあるとお聞きし、もし本当に親友が悪魔に取り憑かれているのなら、どうか天使様のお力で親友を助けて頂けないでしょうか”…こんな感じでいいかな」

 夢莉曰く、このサイトに投函すると見てくれた人から様々な助言を貰える―というありきたりなものではなく、どこからか天使が自分の元に現れて助けてくれる、という未だに眉唾な話。

 だが―

「―火のない所に煙は立たぬっていうしね。だから…だからどうか、どうか咲を助けてください」

 そう願いを口にしながら《投函》と書かれたボタンにマウスポインターを合わせてクリックする。

 すると、閉め切っていたはずの部屋に風が流れ優しく私の髪を揺らす。

 そのことに不思議に思った有希が視線を窓へと移すと―

「この度は”お悩み投函所”にご投函いただきありがとうございます。検査の結果、貴方様のお悩みは我々『天使』が責任を持って解決させていただきます」

 ―見入ってしまうほどに綺麗な純白の翼を広げ、スカートの裾を軽くつまみ上げながら頭上に淡い光の輪っかを浮かせた頭を控えめに下げる見知らぬ少女が立っており、初めて見るにも関らず少女が発した言葉通り、その少女が天使であるのだと有希は強く理解する。

「早速ですが、より詳しいお話をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 そう言いながら淡い光を帯びた輪っかを共に頭を上げて優しく微笑んだ少女―もとい天使に対し、有希は若干顔が熱くなるのを感じながら頭を縦に何度も振った。


 部屋の中心に置かれた小さな机を挟むように座った有希と天使。

 有希はつい今しがた入れてきたお茶の入った湯呑みをスッと天使の前に置き「粗茶ですが…」と小さな声で言うと、天使はぺこりと頭を下げ綺麗な仕草で湯呑みを口に運び、一口飲んでから先程発した問いかけを再度口にする。

「さて、それでは先程申した通り詳しいお話を聞かせてもらえますか?貴方の友人―親友がどのようにしてそうなったのかを」

「え、えぇあ、はい…その親友は咲っていうのですが、咲の両親が事故で無くなったと咲本人から聞いた事からなのですが―」

 ある程度掻い摘みつつ昨日から今日この時までの話を話し終えた有希は一度自身の湯呑みに入ったお茶を飲み、短く息を吐いてから「とまあ、こういった経由です」ともう話すことはないといった様子を見せる。

「なるほど…確かに普通ならざる物事が多く起こっているのですね。えーと、…いや先に名乗るべきでしたね。私は【ミョルエル】、天界から定められた現界守衛隊の一人ということになっています。遅れてしまいましたが、貴方のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」

 そう微笑みながら少し他人事かの様に言葉を告げた天使―ミョルエルは、何故か呆けている有希に対し「あのー聞いていますか?」と困り眉で続けて問いかけた。

「え、はい私は【花垣有希(はながきゆき)】といいます。えーと、その…特にそういった肩書はないです、すみません」

「いえ、別に謝る事でもないですよ。ただ語感がよくてついでに言っちゃっただけなので」

 そういって視線を合わせて笑ってから、ミョルエルは「では話を戻しましょう」と告げて有希は大きく頷いてから握りしめていた物をミョルエルへと差し出した。

「これが、咲の家の鍵です」

 有希から鍵を受け取ったミョルエルはそれをまじまじと見つめてから一度ため息を吐き、音を立てることなくスッと立ち上がった。

「さて、それでは行きましょうか」

 そう言って有希へと手を伸ばしたミョルエルだったがその行動の意味に数多が追い付いていないのか、有希は不思議そうな表情を浮かべ、たじたじとした様子でミョルエルへの手を顔を何度か交互に見つめる。

「あの、まさかとは思いますがこれから咲の家に行くのですか?しかも私も」

「もちろん。迅速に解決するのが私の信条です。有希さんが同行していただく理由は単に私が咲さんの家を知らないからです」

 そうあっけらかんと言ってから、ほら早くと云わんばかりの表情をしたミョルエルの手を、恐る恐る取った有希は自身の目を疑った。

 先程まで自身の部屋にいたはずが、突如として空中―自身が住まう家の上空へと移動しており視界には空と街並みの半々の景色が映っていたからだ。

 不思議な事に落下することなく宙に浮いている自身の身体を包み込む風の冷たさは、それは疑いの余地もない現実なのだと無慈悲に教えてくれていた。

「それでは行きますよ。少し苦しいと思いますが、すぐにでも到着しますから」

「え、どういう」

 その疑問に対する答えを得られる間もなく、有希は視界で捉えられる景色が全て線状に見えるほどの高速飛行体験に反射的に叫び声を上げる他出来なかった。

 ほんの数秒程で咲の家の前へと着いたミョルエルは、顔を青ざめさせた有希を電柱へと寄りかけさせてから家の周辺を歩き始め、程なくして一周回り終えボソッと口元を動かしてから有希の元へと歩み寄った。

「さて、これから咲さんの家に入るわけですが、いいというまで決して私の傍を離れないでください。それとあと一つ、咲さんがどのような提案をしようとも決して頷かないでくださいね」

 未だ息の整っていない有希の背中を優しく擦り、少しだけ申し訳なさそうな表情でそう言ってから立ち上がったミョルエルだったが、既に理解の範疇を越えていた為か特に反論することのない有希は一度だけ頷いてから立ち上がり手を引かれるままミョルエルの後に続く。

 ミョルエルが玄関扉のドアノブを掴みボソボソと何かを呟くと、扉の内側からチャリチャリとドアチェーンが外れる軽快な音が聞こえ続けざまにガチャっと鍵が外れる音が鳴ったが、ドアノブを捻り引いてみるも扉は一向に開くことがなかった。

 ミョルエルとしては力任せに空けるのも良かったが、流石に壊すわけにもいかずにどうしたものかと悩んでいると「もしかして」と有希の呟きが耳に入った。

「あの、先程渡した鍵でしか開かないんじゃないですか?」

 そう問いかける様にミョルエルへと提案した有希にはとある考えが浮かんでいた。

 それは、咲から受け取った鍵がトリガーとなってサイトにアクセス出来たことから、鍵には自身が気付けない―感じ取れない何かがあり、それでしか開くことができないようになっているんじゃなか、というものだった。

 そうでなくては、ドアチェーンや玄関扉に備わっている鍵が外れているにも関らず開かないことへの説明がつかない。

 たどたどしいながらも自身の考えを口にした有希に対し、ミョルエルは人差し指を下唇へと当て「なるほど」と少し嬉しそうに笑ってから取り出した鍵を鍵口へと差し込み回してみた後、ドアノブも同じように回してみると扉は何度ともなかったかの様に開き始めた。

「私の解析不足ですね。お手柄ですよ有希さん」

 そう言ってからミョルエルは有希の手を優しく握りながら咲の家の中へと踏み入れると、人が住んでいるとは思えないほどの異臭が鼻を刺し肌には絡まる様な気色の悪い温かさが二人を包み込む。

 そのあまりにも異質で異様な体験に有希は足を止め、吐き気を催したのか口元を手で押さえ僅かに嘔吐し始めた。

「大丈夫ですか?」

 有希へと振り返ったミョルエルの表情には特に変化はなく、異臭や肌に絡まる気味の悪い温かさをまるで気にしていない様だった。

 そんなミョルエルの問いかけに有希は頷きを返してみたものの、生理的拒否からか足がいううことを聞かない様子で立ちすくんでいたが、獣の遠吠えに近い雄たけびが家中に響き渡り、抱いていた恐怖とはまた違った感情を新たに抱く。

「もうその段階にまで進んでしまっていますか…。これは久々に骨が折れそうですね」

「い、今のはなんなのですか?!咲の家に何が―きゃああああ!」

 淡々と言うミョルエルに食って掛かる様に問いかけた有希だったが、そのすぐ後方で勢いよく閉じた玄関扉に驚き、悲鳴を上げながらミョルエルへと抱き着いた。

 身体を震わせる有希の頭を優しく宥めるように撫でてから「行きましょう」と小さく声をかけたミョルエルは、再度有希の手を優しく取り足の踏み場のない廊下を進み二階へと続く階段へと足をかける。

 すると、階段を上がりきった先で月光に照らし出されたナイフやフォークといったカトラリーがいくつも宙に浮き、その穂先をミョルエルへと向けている。

 もはや言葉を発せる事はできず口をあんぐりと開けたままの有希は、弦で弾かれたかのようにまばらに放出された幾つものカトラリーが迫り死を悟ったが、眼前に立っていたミョルエルは取り乱すことはなくスッと手を前にかざす。

「【天界術守衛ノ参・拒絶する大幕】」

 誰に聞かせる訳でもなく紡ぎ出された言葉の羅列によってミョルエルがかざした手の前には、色鮮やかな青みがかったオーロラのような大幕が下り、迫っていたカトラリーらは触れた傍からその身を金属の粉へと化し霧散する。

 程なくして全てが金属の粉へと変わり、襲い来るものがなくなったのを確認してからミョルエルはかざした手を下ろすと、オーロラのような大幕は煙の様にふわりと消えた。

「い、いまのは?」

 有希は腰が引けてしまったのか、ミョルエルの腕に抱き着きながらおどおどした様子で尋ねると、ミョルエルは空いた手で優しく宥めるように有希の頭を撫でる。

「今の―というよりは、先程の叫び声と扉がひとりでにしまったのも全て、とある存在が引き起こしているもので、この家にそれがいるという証明でもあります」

 頭を撫でられた事でいくらか平穏を取り戻したのか、引けた腰を上げた有希は一度こくっと喉を鳴らしてから弱々しく、けれど確かな決意を込めてミョルエルへと問いかける。

「その存在っていうのはやっぱり…悪魔、なんですか?」

「正解です。もしくはその上位種である魔神である場合もありますが。ついでなので今言っておきますが、『親友を助けていただきたい』と有希さんは書かれていましたが、その認識は間違っています」

 そう冷たく責め立てるように言い放ったミョルエルの瞳には先程までの温かなものはなく、意識を引き込まれるような冷たく澄み渡るようなものへと変わり、その瞳を向けられた有希は一瞬怯んだ様子を見せるもそれでも問わねばならないことが確かにあった。

「どういうことですか、それは?」

 睨みつけるような視線を向けながらにいった有希だったが、それでも尚ミョルエルは冷たい視線を逸らすことなく無機質にも似た声色で言い放つ。

「貴方達人間が住むここを現界というのですが、一部の例外を除けば悪魔や魔神が現界へと来るには召喚されるという大前提が必要なのです」

 その言葉を耳にして有希の頭には考えまいとしていた事が過り目を見開く。

 そんな有希の様子を見て尚態度を変えることはなく、ミョルエルは淡々と話を進める。

「一部の例外であれば、そもそも一ヵ所に留まること自体が稀有なので今回の一件には当てはまりません。そうなれば必然的に此処に居るのは召喚された存在であり、その召喚者を依り代にしていることになります。もちろん他者が召喚し、別の誰かが依り代となる場合もあるにはありますが、殊更面倒な契約が絡んだり特殊な痕跡が確認されるので、これまた当てはまりはしませんね」

 やれやれといった表情を浮かべてから凛とした表情へと変えて階段の上へと向け、ミョルエルは目を細めながら言葉を続ける。

「そうなってしまえば自業自得としか言えません。神を崇めず悪しきに縋るなど、神々に対する冒涜です。ですが、いわとわかっていて見逃すなど出来もしないので私が来たということです」

 ミョルエルのその言葉にある程度の察しがついた有希は気まずさに視線を下げ、やがて静かに涙を溢し始めた。

「なんで…どうしてなの咲」

 そんな消え入りそうな声で呟いた有希に視線を向けたミョルエルは、声色を変えないまま答えのない言葉を口にする。

「それは咲さん自身に聞かなければ答えは得られません。なので―」

 そう一旦言葉を区切ってからミョルエルは柔らかな笑みを浮かべると、俯いていた有希の頭へと手を伸ばし優しい手付きで撫で始める。

「―事が済んだ後にでもご本人に直接確認してください」

 ミョルエルのその言葉にハッと視線を上げた有希だったが、少し気恥ずかしそうにミョルエルはぷいっと顔を逸らし、階段の上へと視線を向ける。

「ちなみにこれもただの私の信条です。…ほら行きますよ」

「は、はい!ありがとう…ございます!」

 照れ隠しをするようにそっぽを向いたまま有希の手を取り階段を上がり始めるミョルエルへと、先程溢した涙とは少し違う―温かい涙を頬へと伝わせながら有希は覚悟を決める。

(私に何が出来るかまではわからない。何一つ出来ない可能性の方が高い。それでも…それでも咲を助けてみせる!)

 無意識に力んだ有希の覚悟を受け取ったのか、有希から見ないことを良いことにミョルエルは自身の口元を小さく笑わせた。


 階段を上がり咲の部屋の前へと着いたミョルエルがノックもせずに扉を開くと、確かな殺意を込めた視線を送る咲がベッドに腰かけており、月明かりに照らされたベッドの上やその足元には十数枚の写真が散りばめられていた。

「さ、咲?」

 控えめにミョルエルの後ろから顔を出した有希が名前を呼ぶと、今しがたまでミョルエルへと向けていた視線とは打って変わって明るい笑顔を浮かべた咲は、声を弾ませ陽気に言葉を有希へとかける。

「こんな時間にどうしたの有希?確かに私はいつでもっていったけど、こんな夜遅くに来られたら色々と困っちゃうよ。何にも準備、出来てないのに…」

 つらつらと並べる言葉とは裏腹に、咲は身振り手振りで嬉しさを現しては何故か赤くしている頬へと手を当て口元を緩ませる。

「有希、来てくれてすっごくありがとう。お父さんとお母さんが死んじゃって聞いて、もう私は一人なんだなって実感が沸いてきてさ、寂しかったの。だから改めて言うね。来てくれてありがとう有希」

 有希には其処に居る咲に悪魔など憑いているとは思えない程、これまで幾度と見てきた咲本人でしかない姿―笑顔を浮かべている様を目にして迷いが生まれる。

 本当は悪魔なんて憑いていない、昨日から今日この瞬間までのありとあらゆる出来事が大がかりなドッキリ何じゃないかと疑ってしまう程、今目の前にいるのは自身がよく知る咲であり咲以外にあり得ない。

 何処かそうであって欲しいと思ってしまったが為か、自身と繋ぐ手の力が緩められた事に気が付いたミョルエルが有希の名を口にするのもつかの間―

「だけどさ」

 ―そう確かにハッキリ聞こえた言葉のすぐ後に、ベッドに腰かけていたはずの咲の身体は無動作にミョルエルへと距離を詰め、鋭利に伸びた爪先がミョルエルの瞳を貫く寸前までに迫っていた。

 有希に気を取られたとは云え、持ち前の反射神経の高さから咲の手首を掴み止めることで事なきを得たミョルエルだったが、止められることを想定して手刀を繰り出していた咲は差し向けていた手を広げ、予め手のひらに集中させていた【魔力】を躊躇うことなくミョルエルへと打ち放つ。

 ほぼ零距離で放たれた魔力の塊は体重の軽いミョルエルを吹き飛ばすには十分で、ミョルエルにぶつかって尚あり余る魔力が廊下の突き当りに接触することで爆発を起こし、それによって発生した爆風が庇われる形で壁へと押し退けられた有希の頬を撫でる。

 先程まで抱いていた淡く甘すぎる夢を完全に払拭させるべく有希の無自覚の本能が視線を誘導し、眼前で起こった現実を己が主人へと突き付けて、有希はようやっと理解する―理解させられる。

 自分がどれだけ無知であったかを。

「あいつはダメだよ有希、あんな奴と一緒に居ちゃダメ。だってあれは、有希を苦しめる悪い奴だから」

 そう、へたり込んでいる自身の頭上から聞こえた声の主へと、廊下の突き当りに出来た大きな穴から視線を移した有希は目を見開いて身体を震えさせる。

 不気味な笑みを浮かべる顔の右半分は黒く変色して一本の捻じれた角を額から生やし、背中には黒く大きな翼を生やしてゆっくりと羽ばたかせている咲は腰を低くして、有希の目線に合わせて笑みを溢す。

「でも、もう大丈夫だよ。これからはずーっと私とだけ一緒。ご飯を食べる時も寝る時も。そうだ、お風呂も一緒に入っちゃおうか。…ずーっとずーっと一緒に居ようね、ゆ・き」

 表情では笑っていても何処か目が虚ろで焦点が合っていないかのような目をしたまま、咲は有希へと黒く変色した手を伸ばす。

 有希は自身が無知である事を差し引いてもその手に触れてはいけないと直感的に理解したのか、無理矢理に身体を捻ってはその場から倒れこむように床に転がり、動かない足を引きずる様に腕の力だけで身体を前進させ何とか逃げようと必至に藻掻く。

 その姿―その事がよほど面白くはなかったのか、咲は変色していない左の眼に涙を溜めて少しだけ項垂れるように動きを止めていたが、やがてハッとした様子で腰から生やした鞭の様な尻尾で有希の足を捉えて力づくで有希の身体を近づけさせる。

 そして有希を傷つけぬよう翼で有希の身を翻しては今度は逃げられないよう覆いかぶさった咲は、未だ恐怖で怯える有希に目を合わせ一粒の涙を零す。

「…ごめんね有希。でも有希が逃げるから…逃げようとするからだよ。私は有希を…有希だけは傷つけたくない。…ずっと傍に居て欲しい。私を受け入れて欲しい。私と同じ気持ちになって欲しい。私にはもう、有希しかいないから。有希だけが…大切な人だから」

 咲から零れた涙からその言葉が嘘偽りない咲の気持ちだと、有希は何となくだが理解する。

 もしかしたら、このまま咲を受け入れれば事が丸く収まるかもしれないと、そんな事をふと思う。

「だから有希…こんな私をどうか、受け入れて」

 有希にとっては受けれることは簡単で、例え周りから白い目で見られようとも咲と共に人生を歩めるつもりでいる。

 だけど、それ故に―そうだからこそ、有希はこれだけは譲れないのだと僅かに残った恐怖の感情を払拭し、強い意志を以て言葉を告げる。

「私には、受け入れられない。…ごめんね、咲」

 その言葉に咲の瞳が大きく揺れたのを見逃さなかった有希は確信した。

(そっか。…ずっと前から、私は咲を―)

 だが、そんな気持ちを今は口にしてはならないと口を強く噤んだ有希は、取り乱している咲の身体を押し退けて今度はしっかりと足で立つことで咲へと対峙する。

(もう逃げない。大好きな咲を取り戻すために、私はもう…ここから逃げない!)

 何が出来るわけでもない―他ならない自分自身が一番それを知り得ていても、有希は強い意思を抱いて迫りくる咲から目を離さない。

 そして、自身を掴もうと刺し伸ばされた黒い手は―

「随分とまあ素敵な挨拶ではないですか咲さん」

 ―有希の身体へと触れることなく宙を舞い、僅かに間を置いてから放たれた蹴りによって咲の身体は自室の奥へと吹き飛ばされ、勢いよく壁にぶつかってからその下にあったベッドへと倒れこむ。

「それでどうですか?お望みの身体を手に入れて」

 そう言って再度有希を庇うようにして立ちはだかるのは、吹き飛ばされたにも関らず怪我どころか汚れの一つもついていない服を身に纏ったミョルエルで、その手には咲の腕を切り飛ばしたであろう一本の剣が握られていた。

「―ッ!無事…だったんですね」

「当然です。何といったって私はえりーとですからね。あの程度であれば、無傷でいることなど当然です」

 薄い胸を張りながら自信満々に言ってのけるミョルエルは、有希の無事を目視で確認してから視線を咲の部屋の中へと向けると、まるで壊れかけた―関節が錆びつき動きの硬い機械の様なゆっくりとした動作で身体を起こした咲の姿があったが、つい先ほどまでの様子と異なる点が幾つか見られる。

 身体の節々をほぐすような動きには一般人のそれとは違う―戦い慣れた者特有の滑らかな動作で行ない、佇まいは何処か凛としたものへと変わっている。

 顔は全体が黒く変色し額には対となる位置に二本の捻じれた角を生やし、身体には通常魔力を感知、目視できないはずの有希にさえ見えてしまうほどの膨大な魔力を纏っていた。

「…全く、痛みと衝撃でこの身体の主の意識が飛んじまったじゃねぇか。まさかこの俺が表に出る羽目になるとはなぁ」

 言葉とは裏腹にその表情には嬉しさが滲み出ていたが、咲ではないその何か―悪魔と思わしき者はくいっと指を動かしてミョルエルの足元に転がる切り落とされた腕を引き寄せ切り口同士を合わせると、

みるみるうちに切り口が消えていき平然とその腕を上下に振ってから指先が正常に動作するかを確認する。

 そう間もなく具合を確かめた悪魔はスッと指先をミョルエルへと向けてから魔力を一点に集中させると―

「ま、とりあえず死んでろクソ天使。【魔珖線】」

 ―それを放つ瞬間に指先を有希へと向け、禍々しい黒い光線を放つ。

「え、」

 そう声を短く溢した有希は、咲を心配するあまり前に立つミョルエルから僅かにずれた位置に身体を移した事を後悔する。

 あからさまに自身を殺すために放たれたその光線は、そんな有希の行動を戒めるかのように確かな殺気を孕ませており、再度間に割って入ったミョルエルが居なければ消し炭になっていたであろうことが容易に想像できる程に。

 だが、そんな光線をミョルエルは突き出した手のひらで以て受け止め四方に散らしながら、そのすぐ下にもう片方の剣を握った手を添え言葉を紡ぐ。

「創造主たる神々よ、この世を滅する悪しき者から我らを守る聖なる盾を。【天界術守衛ノ弐・戦乙女の盾】」

 紡がれた言葉はミョルエルの持つ魔力を糧にして、悪しきを阻む円縁の盾へと形を現し悪魔の放った魔珖線を四方へ散らす。

「ほぅ、素手で一時的に凌いだばかりか、盾を出すだけの余裕があるとはな。見た目に反して中々…」

 未だ嬉しそうな笑みを浮かべながら、今度は殊更魔力を集中させた指先を向けた悪魔はつい今しがた放った魔珖線よりも威力が上の業を打ち放つ。

「【魔珖破閃】」

 魔光線と比べ数倍にも膨れ上がった光線は、ミョルエルが出現させた円縁の盾よりも尚大きく、どう対処するのだろうと悪魔の心を僅かながらに躍らせる。

 そんな悪魔の心情を知らぬまま、ミョルエルは有希を抱き寄せ身を屈めると、円縁の盾を僅かに傾けその陰に身を隠す。

 傾いた円縁の盾は真正面から受けるよりも効率よく光線を凌ぎ、やがて視界が晴れた先で無事でいるミョルエルと有希の姿を目にした悪魔は驚き半分嬉しさ半分といった声を上げた。

「おいおいマジかよ。これを凌ぎきれる盾とか性能バグってんだろ!」

 期待はしていた―だが、それ以上の結果を示された事に身の内から魔力を滾らせた悪魔は、円縁の盾の影から飛び出してきたミョルエルの剣閃を躱し、三度指先に魔力を集中させて今度は細かい銃弾の様な塊―魔弾としてミョルエルへと放つ。

 しかし、その魔力の弾は一つ残らず剣によって弾かれ程なく霧散する。

「ま、当たらねぇわな。てことで」

 そう呟いてから指先を再度有希がいる方向―ミョルエルの制御から離れただその場に存在しているだけの円縁の盾、その後ろへと向け魔弾を連射する。

 先程のこともあって、悪魔の指先が向く方へと意思を割いていたミョルエルは、円縁の盾を超えつ前に有希の元へと一瞬で移動しては魔弾を一つ残らず弾くことで霧散させ、持ち前の瞬発力を活かして悪魔の背後へと移動してから振り上げ下ろす過程で剣を大槌へと変え、悪魔へと一直線に振り下ろす。

「さて、貴方のお名前を教えていただけますか?それとも存在がちっぽけ過ぎて名乗れる名前など持ち合わせてはいませんか?」

「っは!てめらのところと一緒にすんな。てか、名前を聞くときは自分から名乗るのが礼儀だろ?相も変わらず成ってねぇな天使ってのは!」

 迫りくる大槌を防ぐため魔力を集中させた両腕で受け止めた自身にそう言葉を投げかけたミョルエルに対し、悪魔は負けじと鼻で笑っては声を張る。

 それが強がり以外の何物にも聞こえなかったミョルエルもまた鼻で笑い、殊更大槌に力を込めて呆れ気味に言葉を放つ。

「貴方達に向ける礼儀があると思っているのですか。…ですが、まあいいでしょう。私は現界守衛隊第八隊隊長ミョルエル。以後お見知りおきを」

 予想外にも名乗りを上げたミョルエルに、悪魔は心底楽しそうな笑い声を上げてから両腕に纏う魔力を増大させる。

「俺は第16柱・情欲の【ゼパル】。魔神ゼパルだ!よーく覚えておくんだなミョルエル」

 そう声を張り上げ両腕に集中させていた魔力を爆発させた悪魔―否、魔神ゼパルは、魔力による爆発で大槌を押し返してその場から退き有希がいる方へと駆け出すと、魔力を霧状にしてミョルエルの視界を遮り有希を抱きかかえる。

「悪知恵ばかり思いつきますねホントに!」

 大槌から大きな芭蕉扇へと変化させ魔力を込めることで淡い緑色の光を帯び始めた芭蕉扇。

 それを力任せに仰ぐことで魔力を帯びた風が視界を遮る濃霧を霧散させ、晴れた視界の先では有希を小脇に抱きかかえたゼパルが今にも外へ出ようと空けた大穴の縁に足をかけていた。

「一手遅かったなミョルエル。まあ勝負事態は引き分けだ。俺の目的はこのガキんちょにあるからな」

 じゃあな、と一際悪戯っぽく笑うゼパルが外へと飛び出すが、ミョルエルの表情は勝ちを確信した笑みを浮かべており、パチンと控えめに指を鳴らす。

 刹那、ゼパルを取り囲むようにして出現した複数の魔法陣の中心から黄金の槍―まるで時計の針を模した槍がゼパルの四肢を貫き動きを封じた。

「があぁあぁあああ!!」

 そう叫び声を上げ痛みによって解かれた拘束から宙へと投げ出された有希の身体は重力に従って落下を始め、迫りくる地面に向かって悲鳴を上げることしか出来なかった有希だったが、寸での所で優しくミョルエルに抱きかかえられ事なきを得る。

 有希の無事を確認してからゆっくりと地面へと降り立ったミョルエルは有希を下ろし、黄金の槍に貫かれて拘束されているゼパルへと勝気な笑みを差し向ける。

「【天界術攻衛ノ捌・時間神の天槍】…貫いた対象の時間を操作する能力を持つ、クロノス様の槍を模して生み出された術式です。どうすか?今は時を止める能力を発揮させているので、然しもの貴方も動くことが叶わないでしょう?」

 ミョルエルがそう言う前から思いつく限りの事を試していたゼパルだったが、四肢からは貫かれて以降痛みを含んだ感覚すら無く、また魔力を送り込もうとしても何かに阻まれているようで魔力を送り込むことは叶わない。

 詰んだか―と現状ではどう足掻くことも出来ない事を悟ったゼパルは、未だ勝気な笑みを向けてくるミョルエルに嫌味たらっしい表情を向け言葉を放つ。

「あの時に仕掛けていたのか、大したものだ。魔法陣が現れるまでこの俺が気取れなかったのは、別の術式を合併―付与していたから…。戦闘時の身のこなしや攻守両面での正確な選択の速さ、お前どの階級だよミョルエル」

「馬鹿正直に答えるわけないでしょうに。でもまあ上位天使ではあるとだけ情報を明かしておきましょうかね」

 白翼を羽ばたかせ、ゼパルの目線より少しだけ高い位置まで昇ってから答えたミョルエルに対し、何処かうっとおしそうな表情をしてからゼパルはハッと言葉を吐き捨てる。

「あーうぜえうぜえ。つまりなんだぁ?【大公爵】の俺では上位天使には及ばないってか。心底嫌になるねぇ」

「それはどうでしょうね?貴方が本気を出せさえすれば、もう少し結果は変わっていたかもしれませんが…それでも私が負けることなどないでしょうけどね」

「んだよそっちの勘も鋭いのか。全くどうして…面白い奴だ」

 そう言ったすぐ後カクッと頭を下げたゼパルは、程なくして黄金の槍をすり抜けるように身体を地面へと向け落下させた―かと思いきや、黄金の槍には未だ貫かれた人物がいた。

 地面に落下したのは咲本人だけであり、寸での所で咲の身体を抱き止めたミョルエルは再び―今度は魔神としての本来の姿のゼパルへと視線を向けた。

「くははは、今回のところは退くとしよう。元々遊び半分で応じたが思いもよらない収穫があって満足だ」

 愉快気に笑い声を上げ度にゼパルは赤い鎧を微かに揺らしていたが、その身体は端から中心に向けて崩壊が進みあまり長くはないようだった。

「全く面倒極まりないですね、それ。いい加減全員正々堂々魔核を所持して現界に来てくれませんね。自分たちで全力も出せない状態で来るくせに、負ければ強がりばかりでうっとおしい事この上ないんですねよ。恥ずかしくないのですか?」

「死ぬのが嫌で保険を掛けるのが恥ずかしい事であってたまるか。見た目通りのお子様思考め…俺たちからすればお前たち天使の方が異常だよ」

 黄金の槍に貫かれていた四肢が崩れ落ち、貫いていたものが消えたために黄金の槍は霧状に霧散する。

 遂には首から上だとなったゼパルは落ちることなくその場に留まり、未だケタケタとミョルエルへと笑いかけていた。

「ただまあ、あっちはあっちで退屈な所になっちまったし、追い続けていたかったものも既にない。…約束してやる、次ぎ来る時は【魔核】を持って全力でミョルエルお前を殺してやるよ。それまで死ぬなよ…ミョルエル」

 そう言葉を放ってから完全に消え失せ現界からその存在を失くしたゼパルへと、聞こえるはずもないとわかっていながらミョルエルは悪態をつくように言葉を吐き捨てる。

「そんなのごめんですよ。ばーか」

 腕に抱き止めていた咲の身体を抱き直し家の中へと入っていったミョルエルに続き、家の中へと入ろうとした有希だったが、どこからか聞こえるはずのない笑い声が聞こえた気がして僅かに焦った様子で家の中へと入っていった。


 咲の部屋を魔力で修復し、ベッドの上へと寝かした咲に両手をかざしたミョルエルは、その両の手のひらに魔力を集中させる。

「【天界術支援ノ漆・ヒュギエイアの診療録】」

 そうミョルエル唱える眠っている咲の頭上に薄いガラスのようなものが出現し、咲の身体状況や過去にどのような怪我をしたかなどの情報を事細かくに表し始める。

 羅列される文字をすらすらと読み進め、手元に現れたキーボードのような物を流れるように打つ音だけが響き渡る部屋の中、有希はミョルエルの肩口から咲の情報を表示しているガラスのようなものを覗き込むも、羅列されているのは教科書などで稀に見るギリシア文字と呼ばれる文字であるため読み解く事は叶わず、静かに寝息を立てている咲の手を優しく握ってはぽつりと言葉を溢した。

「…咲、大丈夫だよね」

 答えが欲しかったわけでもない言葉ではあったが、沈黙を嫌ったミョルエルは「大丈夫ですよ」と有希へと言葉を投げかけ、有希は僅かに涙を滲ませた目をミョルエルへと向ける。

「見た目の外傷も特になく、私が切り落とした腕に関してはゼパルが完治させています。…残る問題があるとすれば、残留しているゼパルの魔力による悪影響。そして心の問題ですね。後者に関しては私の専門外なので有希さんにお任せします」

 淡々と語るミョルエルはキーボードから手を離し、咲へと手をかざし魔力を集中させて咲の身体に残留しているゼパルの魔力を体外へと放り出していく。

 ややあってから一息つき、立ち上がったミョルエルは何処か晴れやかな笑みを有希へと向けた。

「では私は修復作業に入ります。その間はちょっと危ないので、有希さんはここで咲さんの様子を見ておいてください」

 こくりと頷きを返してきた有希へと再度笑みを浮かべてから部屋を出たミョルエルは、まず手始めに廊下の突き当りの壁に空いた穴を防ぐために魔力を練り辺りに散らばっている壁の破片へと飛ばすと、まるで時が戻るかのように壁の穴へと飛んでは接合し始め、やがて穴は完全に塞がり元の状態へと戻る。

 次いで階段を降りたミョルエルは、荒れ果ててしまった一階の各部屋の惨状を見てから大きなため息をつく。

「まあ乗りかかった船です。サービスしておいてあげますよ」

 そして誰に聞かせるわけでもなくそう言葉を吐いてから、壁を直した要領で修復作業へと取り掛かった。


「あれ…有希?」

 そう呟きながら目を覚まし、重く気だるげな身体を起こした咲に対して、涙を目に溜めた有希はそれを溢しながら嬉しそうな笑みを浮かべたが、キッと睨みつけるような表情へと切り替え咲の頬を力いっぱいに引っ張叩く。

 一瞬何をされたのか理解できなかった咲は、やんわりと広がるような痛みを孕む左頬へと手を添えて茫然とした様子で有希へと視線を戻す。

「このバカ!咲、あんた自分が何をやったかわかってるの?!こんなに心配させて…私、絶対許さないから!」

 そう荒めの口調で抱きついた有希と、叩かれた事は理解したが何故叩かれたのかを理解できず困惑している咲の二人を見守っていたミョルエルが「どうやら大丈夫そうですね。それもまあ当然の事ですが」と薄い胸を張りながらにいうと、まるで初めて見たかのような反応をしながら咲は口を大きく開けてミョルエルへと指を差し、有希へと問いかける。

「え、えぇ?!ちょ、ちょっと有希あの天使はなに?本物?本物なの?!」

「うん、そうだよ。…ついさっきまで咲は悪魔に身体を乗っ取られてておかしくなってたの。それをミョルエル様が助けてくれたんだけど…咲、どこまで覚えてる?」

 そう聞かれ、薄く靄のかかった記憶を辿り始めた咲はしばらくしてから目を見開き「そうだった、私…」と小さく呟き、自身に抱きついていた有希を優しく遠ざけてからベッドから降り、ミョルエルへと向いて両手を床に付け頭を深々と下げる。

「ごめんなさい。それと…ありがとうごうざいました」

 謝罪と感謝の言葉を即座に送った咲の態度に気まずそうに視線を逸らした有希を余所に、ミョルエルは先程までの態度とは打って変わって冷徹な視線を咲へと向け、無機質な声色で咲へと言葉を投げかけた。

「まず現状を理解しすぐさま謝罪したことは褒めましょう。ですが、貴方がしたことは決して許されることではありません。それについては理解していただいていますか?」

 ミョルエルのその言葉に身体をびくつかせてから間を置いた咲は、ゆっくりと顔を上げ視線を僅かに彷徨わせる。

「はい…わかってはいるつもりです。言い訳をする余地がないほどに。…ですが、もし…もしわがままをいってもいいのなら―」

「―二度としないから見逃して欲しい…でしょうか?」

 そう遮るように放たれたミョルエルの言葉に咲は喉を詰まらせる様に押し黙る。

「随分とまあ図々しいですね。その言葉が出てくるということは、少なくともそれが悪いことだと知った上で行なった…ということでしょうか?」

「…はい」

 再度視線を下げながら短く言葉を返した咲は、肩を震わせぽろぽろと涙を溢し始める。

 今になって自分が行なった事が一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていたと、沸々と蘇ってきた記憶を基に思い知り、何よりも大切な友人である有希や、クラスメイトの夢莉や倉原を危険に晒していた事を深く後悔したからだ。

 悪魔を呼び出す、召喚するという行為は、現界を見守る神々に対する冒涜であり決して許されないことだと遥か昔から云い伝えられ、いつしか人が犯してはならない大罪の一つとなっていた。

 人かしてみれば代償さえ支払えば願いを叶えてくれる悪魔の存在は、存在を感じられず傍観しているだけの現在の最高神と比べ遥かに頼れる存在といえるのか、今も尚悪魔は呼び出されることが多く現界の天使達―現界守衛隊に所属する天使達は日々その対処に追われ続けている。

「貴方が何処でそれのやり方を知ったは聞きません。今となってはその気であれば知ることができる時代になってしまいましたし、何より興味がありません。ですが、実際に呼び出してしまえばそれは厄災の種になります」

 悪魔を呼び出した際、呼び出したその場所は悪魔やその下位の者達が住まう魔界と通じやすくなり、流れ出てくる魔界の魔力―魔素は【瘴気の穴】を生成する。

 瘴気の穴は時間の経過と共に広がり、悪魔や下位の者達がそれを通じて現界に来る事ができるようになってしまう為、早急に塞ぐことが必要とされている。

 せめてのもの救いと云えるのは、悪魔は依り代とするものがない場合は長時間現界での活動が出来ないということと、瘴気の穴周辺と特定の場所を除いて魔素が少ないことによる身体能力の低下だ。

 それらがなければ、現界は既に人が住める様な場所では無くなっていた。

「悪魔を呼び出した場合、その人物には特例処置が施されることになっています。その内容は…まあ言っても仕方ないのである程度省きますが、少なくとも今まで通りの日常が送れないこと、そして死後魂の扱いが通常のそれとは異なり、最悪の場合は転生すらできないまま天界に幽閉されて監視下に置かれ続ける…生命の巡回、魂の輪廻から外される存在へとなってしまいます」

「そんな…それじゃあ―」

「―ですが『それではあまりにも救いがない』という慈悲深いとある神様の一言によって、一度だけその者に猶予が施されることとなりました」

 絶望に染まりかけた表情で言葉を発した有希を遮り、ミョルエルは咲へと近づいては眼前でかがんで咲の右手首を優しく掴み取り、ぼそぼそと何かを呟いたミョルエルの手は魔力に包まれ淡い光を放ち始める。

 やがて淡い光を放つ魔力は咲の右手首へと移り、ミョルエルが手を離すと咲の手首には繋ぎ目のない薄いプラスチックのような物が巻かれ、それには咲と有希が見たこともない文字が刻まれていた。

 それをまじまじと見つめる二人は説明を求めるような視線でミョルエルを見ると、ミョルエルは殺伐とした表情を収め可愛らしい笑みを浮かべていた。

「それは言わば罪人であるということを証明するものであると同時に、私達天使の監視下にいることを証明するものでもあります。傍から見ればただのアクセサリーで普通の人に見られた所で特に問題はありませんが、面倒ごとを避けるためにもむやみめったらに見せびらかすことはしないでくださいね。何かと人というのは違うものを指摘したがりますからね」

 そう説明したミョルエルが窓辺へと向かい窓を開くと、夜風がミョルエルの服を優しく撫でて静かにはためかせた。

「まあこれから先、何かと不便なことがあると思いますが、それらは全て咲さん貴方が犯した罪によるもの。どうか、折れることなく余生を過してください。そして有希さん」

 呼びかけられたことに上擦った声で返事をした有希だったが、神妙な面持ちでいるミョルエルを目にし、改めてから目を合わせる。

「これは私の個人的なお願いです。どうか…どうか咲さんがこれから先、道を踏み外さないよう傍にいてあげて欲しいのです。…それができるのはきっと有希さんしかいません。だから、どうか…咲さんを」

 少しづつ愁いを帯びていくその言葉に、有希は自身の胸の前で拳をぐっと握ってから咲を抱き寄せ、その決意を言葉にして口にする。

「約束します。咲がこの先何か良くないことをしてしまわないよう私が隣で見守り続けると。私にとって咲は―」

 そう言いながら咲へと視線を向けた有希は、優しく微笑んでから再度ミョルエルへと視線を合わせた。

「とても大切な人。ですから」

 その言葉に心から安堵して微笑んでから、ミョルエルはスカートを少しつまみ上げ綺麗な所作で会釈する。

「ありがとうございます。…それでは私はそろそろ返りますね。機械があればまた会うこともあると思いますが、その時はお二人が事の中枢でないことを祈っています」

「あ、あの…本当にありがとうございました!この御恩は絶対に忘れません」

 そう言って再度深々と頭を下げた咲へと、ミョルエルは微笑みを向け背中に生えた白翼を力強く羽ばたかせて窓の外へとその身を投げる。

「大いなる神々が一柱トール神の名の下に、お二人に祝福があらんことを

 それが最後の言葉であると云わんばかりに、ミョルエルはその大きな白翼を一際強く羽ばたかせると、瞬く間にその姿を暗ませた。

 もはやそこにミョルエルがいた事を証明する物は、咲の手首にある【契りの腕輪】と白翼を羽ばたかせた際に部屋へと舞い込んだ二枚の小さな羽根の二つだけ。

 咲は契りの腕輪を逆の手で包み込むように握りしめ、有希はまるで自身の手の内に吸い込まれるかのように落ちてきた二枚の羽根を潰さぬように握りしめる。

 そんな祈りをしているかのようにも思える二人を、開け放たれた窓から舞い込む夜風が優しく包み込んでいいた。


 夜空の中、白翼を羽ばたかせながら心地よく空を飛ぶミョルエルは、自身が向かっている方向に佇む二人の天使の前で一度停止すると、呆れながらに二人へと問いかけた。

「今から戻るところだったのですが、もしかしなくても連行しに来た感じですか?」

「えぇそうよ。もしかしなくてもね。依李姫様から言伝があったとは言え、本当にミョルは信用されてないわね。まあ、不参加を決め込みたいって気持ちはあるだろうし、私もそれには同意だけどね」

「メレちゃんそれは職務怠慢発言だよ。私達に与えられたお役目なんだから、しっかりと真っ当しないとね。ミョルちゃんもわかってる?」

 そういいながら踵を返してミョルエルが向かっていた方角へと白翼を羽ばたかせた【メレルエル】と【アラドヴァル】の背を追って、ミョルエルは再度白翼を羽ばたかせる。

 やがて三人で並んで言葉を交わし合いながら高度を上げていき、遥か空高くにある天界へと辿り着く。

 三人を出迎えた門番の天使達と短く挨拶を交わしてから、のんびりとした足取りで天界の上位戦力が集まっている大広間へと着いた矢先、四大熾天使達の一段下の段に座す年老いた天使の内の一人が台を叩いてから立ち上がった。

「我々を待たせておいて随分な態度ではないかミョルエル!普段の行いには多少目を瞑るが、もう少し己の立場をしかと意識した言動を心掛けろ!」

 そう怒号を浴びせる年老いた天使に続き、同列に並んだ他の年老いた天使達も声を揃えてミョルエルを責め立て始める。

 しかし当の本人であるミョルエルは、まるで何事もないかのように設けられている自身の席へと着き、スッと静かに手を上げた。

 素っ気のないミョルエルのその行動に怒りが増した年老いた天使達だったが、上階から響いた二度の柏手の音で煮え切らない気持ちを収め口を閉ざす。

 音の主である天使長の【ルシフェル】は静まったのを確認してから口を開いた。

「ミョルエルが遅れた理由は四季神であられる依李姫様から伺っている。だが、それだけでは納得されないことはミョル自身が一番よくわかっているだろう。…まずは此度の報告から聞かせてもらおうか」

 責め立てることもなくルシフェルがそう発言を促すと、ミョルエルは上げていた手を下げてから立ち上がり今回の一件について語り始める。

「此度は四季神である依李姫様から『隊長クラスでないと危ないかも』という神託を受け、勝手ながら行動をさせていただきました。…今回召喚された悪魔は大規模な事件を起こすことはしませんでしたが、自らを大公爵の魔神であると語っており纏う魔力量や質からもそれ以上の実力が伺えました。」

 淡々と事なし下に語るミョルエルとは逆に、広間内は騒然となっては年老いた天使が声を荒げ始める。

「バカな大公爵だと?それほどの階級の者がたかが私利私欲を貪る人間の召喚に応じ、何も成さなかったと?」

「だが事実、被害があったという報告はされていない。愚かな召喚者との契約に由るものか否かはさておき、迅速に対処したという点のみは流石だと言わざるを得ないな…」

「そうだ!それでなくてはな!流石はミョルだ!ようやっと認めたな老勢の諸君?」

 そう年老いた天使達を窘めるように言葉を告げた四大熾天使の一人【ミカエル】は、まるで我が事のように誇らしげにミョルエルのあれやこれやと語り始めるが、その話を「わかったから少し黙っていてくれミカエル」と呆れた声で押し黙らせたルシフェルは、ミョルエルへと向きなおした。

「事情は把握した。その上で現界守衛第八隊隊長ミョルエル…よくやった。大公爵という肩書のみを考慮するならば、たった一人で解決して見せた事をしっかりと褒めなければな。流石はトール神の直属天使。きっとトール様もお喜びになられるだろう」

 そうルシフェルが笑顔で褒めたのをミョルエルは会釈を返して席に着き、誰にも見られない様顔を下げてから喜びを噛みしめ、察せられる前に何とか感情を飲み込み顔を上げる。

 それを見届けてからルシフェルは再度柏手を一度打ち、神妙な表情で口を開く。

「では諸君、そろそろ今回の議題である目下の問題点【魔界の軍勢】について話し合おう」




 天界で議会が始まった頃、霧の都と称されるロンドンではおよそ百年程前に起きたとある猟奇事件が話題となり、人々は霧に包まれる夜を恐れていた。

 昨今で起きた殺人事件件数は既に十を超えその犠牲者は十五人にも及び、その犠牲となった全員が可憐もしくは美しいと大なり小なり話題を読んでいた女性達であり、いずれも刃物による斬殺によるものだった。

 とある富豪の令嬢として生まれた少女は、今宵とある名家の跡取り息子との会食の日であったが、危険性を考慮して両家の合意の下、日を改めることになり自室で空いた時間を過していた。

 令嬢が窓の外へと視線を向け暇を持て余していると、部屋の扉を叩かれそちらへ視線を向けてから「どうぞ」と短く声をかけると、扉を開いたのは令嬢の父親で浮かべる表情は不安の色を見せていた。

「まだ起きていたか。やはり不安で眠れないか?」

「そういうわけでは…いえ、とても不安です。不安なのですお父様」

 令嬢はここ数日まともに睡眠をとることができず、目の下にはクマができ整っていた肌は少し荒れ始めていた。

 つい昨日に起きた事件で親しい友人を一人失ったこともあり、心労はもはや限界だということは火を見るより明らかだ。

 だが、令嬢の父親が何故か明るい表情を浮かべたことに令嬢は小さく首を傾げると、令嬢の父親は嬉々として話始めた。

「安心しろ、その不安も今宵で終わりだ!不幸中の幸いとはまさにこのことだ」

「…?それはどういうことですかお父様?」

 令嬢の質問に対して笑顔を返し、扉の外へと視線を向けてから「どうぞ中へ」と令嬢の父親が呼びかけフードを深く被った人物が部屋へと入ってきた頃、門前に立っていた警備員の一人が突如崩れ落ち、もう一人は音もなく門を開けると静かな足取りで敷地内へと足を踏み入れる。

 まるで慣れた足取りで富豪の屋敷へと入った警備員は、警備室兼休憩室に向かい事前に持ち込んでいた仕事着である燕尾服へと着替えてから令嬢の部屋へと向け歩き始め、やがてその部屋の前へと至る。

 軽やかなノックをしてから返事を待たずに扉を開いた人物に、令嬢は戸惑いながらもそれが昨今の事件を引き起こしている人物だと至りその表情を強張らせた。

 その人物は後ろ手に扉を締めて鍵をかけてから鮮やかな所作で頭を下げる。

「始めましてご令嬢。いやはや今宵は何とも美しく鮮やかな月光で心が踊る。…貴方もそうは思いませんか?」

「…貴方が件の殺人鬼、でしょうか?」

 敢えて質問には答えず問いかけることを選んだ令嬢へと、その人物は嬉しそうに微笑んでから言葉を返した。

「叫び声を上げないのは賢明ですな。でなくば、今宵また一人をとある場所へと多きりせねばならなかった。ここの住人もきっとそれは望んではいないでしょう。…そして、その質問にはYESとお答えしますが、一つだけ訂正させてもらってもよろしいですか?」

 自身が放つ殺意が込められた視線を受けながらも、無言のまま動じない令嬢に僅かな疑問を抱きながら、燕尾服の人物は一度瞼を下げ穏やかな表情で言葉を続ける。

「殺人鬼…というのは少し違います。私は貴方のように選ばれた人物をとある場所へと送り届ける使命を得た亡霊―そのような表現が適切かと考えています」

 自身に対し燕尾服の人物が寂寥感を抱く様子に令嬢は首を傾げるも、燕尾服の人物の手中にある禍々しいナイフに寒気を感じ気を引き締める。

「ですが、殺人鬼とそういわれるのも仕方ない。私がしていることはど言い繕うとも人殺し。…許しは乞いません。基より―」

 そう下げていた視線を上げたその燕尾服の人物の表情に、令嬢は感じたことのない恐怖を感じて咄嗟に武器を創り出しその手に剣を握るも、向けた切先の先には誰もいない。

「―貴方方の意思や意見に興味はない」

 そう背後から声が聞こえ、令嬢は咄嗟にその場から離れすぐさま視界に捉えようと振り返るも、そこには今しがた自身が創り出した剣を握る燕尾服の人物が立っていた。

 ある程度手にした剣を眺めてからつまらなさそうに投げ捨てた燕尾服の人物は、令嬢へと向き直しゆっくりと口を開いた。

「ではそろそろ自己紹介といきましょう。私は【ジャック・ザ・リッパー】と呼ばれていた人物その本人…のはずですが、正直なところ本名は忘れてしまいました。まあ、あまり意味がないものですからね」

 軽快な口調で言ってから会釈する燕尾服の人物―ジャックは、次は貴方だと云わんばかりの表情を令嬢へと向ける。

 令嬢は切り落とされた手首の痛みを我慢しながら既にバレていると悟ると、元の姿へと戻り不敵な笑みをジャックへと浮かべてみせた。

「私は現界守衛第六隊所属【ルマエル】。…ジャックといったか?私も人間の諸事情などには興味もないが、お前には悪魔との繋がりという重罪の容疑が掛かっている。どうか大人しく連行されてはくれないか?」

 そう言いながら切られた手首を魔力で再生させ凛とした姿勢でジャックへと視線を向けるも、そんな姿勢とは裏腹に焦る気持ちを落ち着かせるため思考を動かし続けていた。

 だが、どれだけ考えようとも答えは見つからず、どうすべきかと迷い続ける。

「そうするのもまた一興ではありますが、残念ながら『はいそうですか』と従うわけにはいきません」

「…あぁ、全く以て残念だ。であるのなら、どうか再び死んでくれ切り裂きジャック」

 まとまらない考えはかなぐり捨てて、ルマエルはジャックが雑に投げ捨てた剣を魔力で引き寄せ、強く握りしめてからジャックへと切りかかる。

 だが、その剣閃は禍々しいナイフに受け止められ、ジャックの首には届かない。

 その後数十分もの間、屋敷内から激しい金属音や様々な物が壊れる音が響いていたが、やがてその音は止み屋敷の扉からは一つの人影が姿を現した。

「どうだった?現界にいる天使の実力は?」

 そう屋敷から出てきたジャックへと声をかけたのは門前にもたれかかったスーツ姿の男に対し、ジャックは少しだけ間を置いてからその質問に答えを返す。

「お強かったですよ。ただ、私の方が上だったと言わざるを得ませんが」

 所々が切られ血にまみれた燕尾服を脱ぎ捨てたジャックは、スーツ姿の男へと向きなおしてから先程浮かんだ疑問を口にする。

「それで、何故貴方様が現界におられるのですか?ベリアル殿」

 そう【ベリアル】と呼ばれたスーツ姿の男は「まあ少し用ができてな」と前置きしてから二枚の飛行船のチケットを取り出し言葉を続ける。

「日ノ本に行くんだが、ジャックお前ついてこないか?」

「ふむ…日ノ本ですか。そうですね、そこに私が求める人物がいるのなら…やぶさかではありませんね」

「カッカッカ、そうかそうか。ならば期待するといい。聞くところによるととびきりの上玉がいるそうだからな」

「…そうですか、それはなにより」

 大きな声で笑いながら歩き始めたベリアルの背を追って、ジャックもまた歩き始める。

 つい先ほど相まみえていた美しい天使の姿を鮮明に思い出しながら、日ノ本にいるという知り得ない人物へ思いを馳せらせ邪悪な笑みを浮かべたジャックの邪気を感じながら、ベリアルは心底楽しむような表情を浮かべ夜の闇へと消えていく。

 ジャックとベリアルが闇へと消えた後、富豪の家―令嬢の部屋の窓に大きな白翼を持った天使が降りたち、部屋の中で息絶えているる前の身体をその胸へと抱き寄せ静かに涙を流し自身の頬を濡らす。

 やがてルマエルの瞼をそっと閉じ、抱きかかえながらその場を後にした。

・天使


【ミョルエル】

 本作の主人公

 天界における最速の天使で本人曰く上位に位置する天使


 使用した術式及び魔法等々


 天界術攻衛ノ捌・時間神の天槍

 天界術守衛ノ弐・戦乙女の盾

 天界術守衛ノ参・拒絶する大幕

 天界術支援ノ捌・ヒュギエイアの診療録


【メレルエル】

 現界守衛第一隊の隊長を務める天使


【アラドヴァル】

 現界守衛第一隊の副隊長を務める天使


【ルシフェル】

 天使達をまとめる天使長を務める熾天使


【ミカエル】

 四大熾天使の内の一人で熾天使

 ウリエルとは腐れ縁で、その妹であるミョルエルにはより目をかけている

 天使皆が大好き


【ルマエル】

 現界守衛第六隊の隊員の力天使



【階級】

 上位には熾天使、智天使、座天使 中位には主天使、力天使、能天使 下位には権天使、大天使、天使、見習い天使と定められ、基本的には自身より上の階級の命令を遵守する



【天界術攻衛ノ捌・時間神の天槍】

 クロノスの神器を基に時計の針の形を模した黄金の槍で貫いた対象の時間を操作する

 時を進める、止める、戻すの三つの能力から選んで使用するが、進めると戻すの二つの能力は倍の魔力を消費する

 詠唱:時を刻むは神の指針、万物全ては指針に従い時を生きん


【天界術守衛ノ弐・戦乙女の盾】

 かつて戦乙女が使用していた神器を格落ちさせ顕現させる術式

 格落ちしているとはいえ神器であるため性能は高い

 術者によって形状は異なり、ミョルエルの場合は円縁の盾

 第一章では顕現させた後、魔力によってその場に浮かせ続けていたが、実際に持って盾として使用するのが一般的

 詠唱:創造主たる神々よ、この世を滅する悪しき者から我らを守る聖なる盾を


【天界術守衛ノ参・拒絶する大幕】 

 色鮮やかなオーロラのような大幕が下り脅威を阻む

 大幕というだけあって範囲は広く、第一章ではその真価は発揮していない

 詠唱:舞台は終わり幕を閉じる、薄氷の如きその幕は、全てを阻む虚無の布


【天界術支援ノ漆・ヒュギエイアの診療録】

 対象となる人物の身体状況や過去にどのような怪我や病気をしたかなどの情報を事細かく、出現させたガラスの様なものに表示させる術式

 付随して現れるキーボードのような物で、特定の情報を検索できる

 表示される文字はギリシア文字であるため、頑張れば人間でも読破可能



・魔神


【ゼパル】

 第16柱・情欲のゼパル

 赤い鎧を身に纏う情欲を司る序列16番目の大公爵の魔神で

 人間の情欲を操作する能力を有しており、対象者の愛情を掻き立たせ結びつかせる事ができるが、対象者の生殖能力を奪ってしまうため野放しにはできない

 本人曰く、魔界は退屈な所になってしまった上、追いかけていたかったものを失くしてしまっている

 その為次には全力でやり合おうと一方的な約束をミョルエルと交わした


 使用した術式、魔法


 魔珖線

 魔珖破閃


【ジャック・ザ・リッパ―】

 かつて霧の都であるロンドンで起きた猟奇事件の大量殺人犯

 どのようにして存命し、再びロンドンで事件を起こし始めたのかは不明


【ベリアル】

 スーツを着たの男性の姿で登場

 用ができて現界へと来ているらしいが、どのようにして来たのかは不明

 目的は日ノ本にあるらしいが…


【魔核】

 魔神と成った者が身体に内包する心臓

 その部位からは活動するにあたって必須とされる魔力が生成されており、それを壊されない限り半永久的に活動できる


【魔珖線】

 悪魔や魔神が魔力を固めて一直線に放つ光線

 ミョルエルには素手で弾かれていたが、それなりに貫通力は高く鉄であれば容易く貫く


【魔珖破閃】

 魔珖線の完全上位互換で魔神にしか扱えない

 魔光線とは違い幅を広げて放つことができる他、玉鋼で作られた盾ですら消し積みに出来るほどの威力を誇る


【大公爵】

 魔界における階級の一つ

 本作品においては『かなりえらくて強いやつ』程度の認識で大丈夫です


【瘴気の穴】

 悪魔や魔神が呼び出された場所に開くことがある魔力の穴

 開いてしまった場合、そこから通じて魔界の魔力が流れ出ては現界に悪影響を及ぼす場合がある

 また広がりすぎた穴からは魔界の魔力だけでなく、その住人である下位の獣や悪魔、最悪の場合は魔神が穴を通じて現界に来てしまう恐れがある


【魔界の軍勢】

 未だ天界ですら全容を掴めていない悪魔、魔神の集団組織

 第一章の時点で、過去に二度ほど現界への大規模侵略を試みているが、序列を持つ魔神のほとんどは現界に踏み入る事さえ出来ない為、敢え無く失敗に終わっている



・人間


【花垣有希】

 第一章における重要人物の一人

 咲に対しては友人以上の感情を抱く女子高校生

 事件後はこれまで通りの平穏な日々を咲や夢莉と共に過しており、ミョルエルの羽根は夢莉同様に小瓶に入れて肌身離さず持っている


【七瀬咲】

 第一章における重要人物の一人

 有希に対して恋愛感情を抱いている女子高校生

 両親の死をきっかけに、縋るもの欲しさに悪魔の召喚に試みるも呼び出しに応じたのは魔神・ゼパルであり、今回の事件を引き起こした

 ゼパルを呼び出して以降は自身の意思だけが強く反映された、ゼパルでもない別の何かが身体を支配していた為、目覚めた直後の記憶は曖昧になっていた

 通常であればゼパルの能力によって生殖能力を失っていたはずだが、咲自身の悪魔、魔神に対する免疫が高かったために失われずにすんでいる

 ゼパルが乗っ取り切れなかったのはそれが大きく由来する

 事件後はこれまで通りとはいかずとも、有希や夢莉と共に平穏な日々を過しており、腕にある契りの腕輪は隠さず、またミョルエルの羽根は有希や夢莉同様に小瓶に入れて肌身離さず持っている


【倉原亜久斗】

 何処か日常にはないものを求めている男子高校生

 勉学に関しては優秀で、有希や咲、夢莉が通う高校の生徒会長を務めている

 日々の生徒会の活動で屋上を使用することがある為、屋上の鍵を所持することを許されるなど教職員からの信頼は相当高い

 今回の事件ではあまり力になれなかった事の他に、これ以上は関れないという点に悔しそうな表情を浮かべるなど、今後何かあるのかもしれない


【新西夢莉】

 第一章及び第八章の重要人物の一人

 倉原が口にした『天使のお悩み投函所』について有希に詳しく教えた褐色の女子高校生

 口調は荒めで、様子の変わってしまった咲に対しても有希を庇う様な行動を取るなど、何処か肝が据わっている

 過去に一度ミョルエルに救われ、その際に貰った羽根は今も肌身離さず小瓶に入れて所持しており、それを見る度にミョルエルの事をそれはもう鮮明に思い出している

 出来るのであればまた逢いたいと恋する乙女の様に小さな願いを抱いている



・その他


【魔力】

 天使や悪魔、魔神に必須と云えるエネルギーの総称

 便宜上、天使はマナ、悪魔や魔神は魔素と称することがあるが、大部分的なものは同じ

 聖のエネルギーに満ちているものがマナとするのなら、邪のエネルギーに満ちているものが魔素と云え、それぞれが各位にとっては命の源となっている


【契りの腕輪】

 ミョルエルが編み出した魔法によって生成される魔法道具の一つ

 定められた形はなく臨機応変に形を変えることが出来るが、共通しているのはつなぎ目がない事とプラスチックのような見た目をしている事の二つ

 着用者に何かを強制するような能力はなく、主に天界勢力に置ける警戒対象であると証明するもので、それを知っている者からは迫害の目を向けられることもしばしば




何か分割投稿していた方に比べ9000文字近く増えましたが

その分各キャラの深堀ができているとは思ってます

それに誤差の範囲内ですよ

分割であれば投稿二回分ってところではありますが誤差です きっとそう



作品Nコード: N1476HG

作品URL: https://ncode.syosetu.com/n1476hg/


↑にこの話の続きが投稿されています

続きが気になる方はそちらを読み進めてください

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