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ふたりシリーズ(短編集)

始発列車の猫娘

作者: 澄風一成

「私は猫です」

 彼女は細々とした声でそう言った。


 始発電車の三号車の二番ドアの海側。そこが彼女の指定席だった。

 始発電車は五時三十分。当然、座席は殆ど空いている。にもかかわらず、彼女は必ず座席の仕切りに寄りかかり窓の外を眺めていた。

「なにか見えるのだろうか……」

 今は12月。始発電車の時間はまだ真っ暗だ。ましてや田舎の海。この時期は漁もやっていない。漁り火は無い。ましてや工業地帯が有るわけもなく、見えるものはただの暗闇だ。それでも彼女は毎日、この時間、この場所に闇を見つめて電車に揺られている。

 この事に私が気が付いたのは二ヶ月くらい前。その頃はまだやや明るい五時三十分であった。

「余程の海好きなのだろう。朝焼けの海がよく似合う」

 なんて考えていた。その奥ゆかしさにきっと惹かれていたのであろう。それ以来、この時間に電車に乗るようになった。

 しかし、朝が薄暗くなってきた頃からであろうか。彼女から奥ゆかしさ以外の何かを感じるようになった。その何とも言えない違和感の正体はすぐにわかった。季節外れの服装からすらりと伸びた脚に傷がついていたのだ。その傷は多種多様であった。初めは赤く一筋の線が入り、水ぶくれのようになってた。それが消えるころ、反対の足にひっかき傷ができていた。そしてそれもまた消えるころ、次は何かにかまれたような歯形が付いていた。

「何か動物でも飼っているのだろうか」

 私はそう思い意を決して話しかけてみた。元々、気になっていた女性であるし、始発の電車は私と彼女以外乗客は他にいない。人目を気にする必要もない。

「おはようございます。よく電車で一緒になりますね」

 少し唐突すぎただろうか。彼女はいつもより少し大きく目を開き、数秒おいて口を開いた。

「おはようございます。どこかでお会いしましたか」

 やはり唐突すぎたようだ。電車で急に話しかけられて、知り合いだと思うのも無理もない。

「いえ。お話しするのは初めてです。お会いするのは電車の中で幾度となくですがね」

「そうでしたか。少し驚いてしまいました。電車で話しかけられたのは初めてで」

 言葉遣いは至って真面目。というより、人に慣れしておらずよそよそしいそぶりであった。

「気に障られたら申し訳ありませんが、お尋ねしたいことがありまして」

「どうぞお気になさらず。何なりと」

 私は尋ねていいものなのかかなり迷った。もちろん、プライベートの踏み込んでしまうかもしれないということもあるが、何よりも、私が女性の足の傷に気が付いたと言うことに気が引けるのだ。破廉恥な奴だと思われるのは嫌である。ただ、日々増える傷がやはり気になってしょうがない。それに、ここまで日替わりで傷がついているとなると、誰が気が付いてもおかしくないだろう。そういうことにして、私は尋ねた。

「大変お聞きしづらいのですが、その足の傷はどうなさったのですか」

「ああ、この傷ですか……。猫です」

 女は一息おいてから顔色一つ変えず、細々とした声でそういった。その言葉に私はどこかほっとした。

「そうでしたか。猫、お好きなのですか?」

「ええ、たまに甘えてくるのがかわいらしい」

 私が彼女に惹かれた理由が何となくわかった。母性というものであろう。つくづく、男とはマザコンなのだと思わされる。

「私も猫を飼っていますよ。なかなか甘えてくれませんけどね。そのくせ親戚の子なんかが来て遊んでいると構ってくれってじゃれてきてね。可愛らしいけど嫉妬深いみたいでね」

「それはまた愛くるしいですね」

 そうこう話しているうちに私が降りるべき駅で電車は止まった。

「それでは私はここで」

 少し名残惜しいが彼女とはこの駅でお別れをした。

 

 私が始発電車の三号車の二番ドアから乗り込むと、そこには彼女がもたれかかっており、私が「おはようございます。またお会いしましたね」と話しかける。すると彼女は少し目を大きくしにこりと笑う。そして、四十分程の他愛のない話をし、あっという間に時が過ぎ「また明日」と言いお別れをする。これが私と彼女の通勤の日課となった。最も、彼女が通勤かどうかはわからないが。

 彼女は沢山の猫話を聞かせてくれた。彼女が猫とお風呂に入ったこと。彼女が猫と一緒に寝たこと。彼女が猫と一緒にお買い物に行ったこと。彼女が猫と一緒にご飯を食べたこと。猫が彼女の体をなめましてくること。「あの子、甘える時には私の胸元に手を入れてくるのよ」なんて話をきいたときは正直どぎまぎしたものだ。私にとってこんな僅かなひと時が一日の活力であった。だから、会話の内容なんてどうでもよかった。彼女と話せているという事実だけでふわふわした気分になれたのだった。しかし、そんな楽しげな会話とは裏腹に、彼女につけられた傷は日に日に増え、くっきりしたものになっていった。そして、そんな日々が一ヶ月程経った頃、彼女の姿がぱったりと消えてしまった。

 風邪でもひいたのだろうか。なんせ、今は一月の半ばである。一年でも特に寒い季節だ。あの露出の多い服では風邪をひいてしまうのも仕方がない。

「私が彼女の恋人ならば、暖かい服でもプレゼントしてあげるのに。どんな服が似合いだろうか」

 そんなことを考えながら、久しぶりの一人の四十分間を過ごした。最近は六時頃にもなると空が群青色に染まるくらいには明るい。遠くの磯までは見えないが、近くの港の漁師の姿は見えるようになった。

「彼女はこんな朝を見ていたのか」

 そう思うとトキメキとともに寂しさも感じた。

 この海はゆく年もくる年もこの地の人間を見つめ、時には牙をむき人を殺してきた。畏れと恐れの渦巻きが私を飲み込んだ。

 四十分後、いつもの駅に着いた頃にはどことなく空が明るく、人気を感じられるほどになっていた。


 彼女と最後に話してから三週間くらいが経っただろうか。凍えるように寒い日曜日の朝、自宅のインターホンが鳴った。

「警察署の者です。お休みの日の早朝に申し訳ありません。お話を伺いたいことがありまして。お時間よろしいですか」

 本当に警察手帳を見せながら名乗るのか。というのが私の率直な感想であった。なにぶん警察と関わるのは人生で初めてなもので、緊張とともに新鮮さもあった。

「大丈夫ですが。玄関では寒いですし立ち話もなんですから中へどうぞ」

「それはありがたい。それでは、少し失礼しますね」

 そう言い、年配の刑事さんは少し頭を下げながら靴を脱いだ。それまで気が付かなかったが、もう一人若い者を連れているらしく、彼は先に上がった刑事の分の靴もご丁寧に並べていた。

 二人の刑事はコートを脱ぎ丸め、私と向かい合うように座った。

「それで、どのようなご用件で」

「ええ、そうですね。少しお待ちを」

 そう言い、丸めたコートを再び広げポケットの中から一枚の写真を出した。

「この方をご存じですか」

 そこにはいつもよりもさらに露出の多い服を着た彼女が写っていた。その姿はあふれんばかりの色気であり、何のために撮られた写真かはすぐにわかった。

「ええ、電車でお会いすることが多かったです。それで、どうなさったのです」

「彼女ね、昨日の朝ご遺体で発見されましてね。以前から捜索願が出ていたのですが」

「え、どういうことです」

 私は明らかに動揺していた。どういうこともこういうこともない。言葉のままである。彼女は行方不明になり死んだ。私が海を見て彼女と繋がれた気になっていたあの時も、どんな服が似合うかとにやついていたあの時も、彼女はもう死んでいたのかもしれない。

「彼女は二週間程間に亡くなっていたみたいでね」

 私を見透かしたかのようなタイミングで年配の刑事が言う。

「どうして」

「彼女は風俗店で働いていたみたいでね。そこで殺されたみたいですね」

「ならどうして、もっと早く見つからないのです。店で殺されたなら店員がいるでしょう」

「ええ」

「それに、殺されるとなればもみ合いにでもなるでしょう。なぜ、なぜ誰も気が付かないのです」

「何故って。殺したのは客ではなく店員だからですよ。それに、彼女とその店員は情交関係にあったみたいでしてね」

「で、でも」

「おっしゃりたいことは分かります。少し落ち着いてくださいよ。彼女と電車でお話したこととかはあります?」

「ええ、一か月ほど話をしながら通勤しました」

「どんな話を?」

「他愛のない話です。猫の話が多かったですね」

「猫ですか」

「ええ、初め彼女の足の傷に気づき尋ねたら、猫にやられた、と」

「その他には?」

「猫を飼っていて、甘えてくるのが可愛らしいと言っていました。一緒にお風呂に入ったり、寝たり、ご飯を食べたりと、随分可愛がっていたみたいです」

「そうですか」

 二人の刑事は少し曇った表情で顔を見合わせ、若い刑事が口を開いた。

「彼女、猫アレルギーだったみたいなんですよ」

「はあ。それがどうか」

「ですから、猫を飼ってなんかいなかったんです」

「どういうことです」

 だから、どういうこともこういうこともない。そのままの意味である。

「ですからね、彼女は猫を飼ってなんかいなかったんですよ」 

 今度は年配の刑事が柔らかく言う。

「じゃ、じゃあ、私との会話はすべて嘘だったと? そうゆうことなんですか?」

 再び二人の刑事は顔を見合わせた。彼らは何か真相に行きついているのだろうか。次は年配の刑事が言った。

「嘘ではないでしょう」

「でも猫を飼ってはいなかったのでしょう?」

「ですからね。彼女にとっての猫は『猫』ではなかったのですよ。彼女はが猫と呼んでいたのは『男』だったのでしょう。きっと」

 脳には電気回路があるというが本当のようだ。脳の毛細血管一本一本まで電気が行き渡り感電するかのような衝撃が走る。

 彼女は男を猫と呼んだ。

 猫とご飯を食べた。

 猫とお買い物に行った。

 猫とお風呂に入った。

 猫と一緒に寝た。

 猫が胸元に手を入れてきた。

 猫が身体をなめまわしてきた。

 彼女は男を飼っていた。

「そうでしたか」

 落ち着いているというのか茫然自失というのか。力のない声になってしまった。

「ええ」

「では、あの傷は男につけられたということですか?」

「そうみたいですね。男は独占欲というか、束縛が強かったみたいでして、傷をつけるというのも一種のマーキングだったのかもしれませんね」

 年配の刑事が落ち着き払った声で納得したかのように告げる。

「それで、どうして殺されたのです?動機は?」

 年配の刑事は言った。

「ですから猫は嫉妬深いのですよ」

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