9 彼女の正体
槇先輩の『彼女』を見ることができたのは翌年、先輩が三年生の時だった。
槇先輩は変わらず人気者で、俺も人気者と言われるようになっていた。俺は槇先輩を尊敬しながらも、たまに悪戯したりからかったりした。それでも先輩は俺を大切な後輩として気にかけてくれた。どれだけ性格の良いお坊っちゃまなんだ。
槇先輩は、大学三年生でピアノコンクールに出場した。三回行われた予選は全て聴きに行った。いつも聴かせてもらっていたからわかる。男らしさが上がったというのだろうか。彼女と何かあったのかと思わせた。本来の素材が格好いいだけで色気のなかった先輩に、大人の艶と翳りがそれぞれに増していた。
彼女と進展があったのかどうか聞いてみたかったが、その頃の先輩は、僕でさえ迂闊に話しかけることが出来ない程音楽に集中していた。
ピアノコンチェルトの審査がある。前期に大学で行われたコンチェルトオーディションでは、大学院の先輩がオーケストラパートを弾いて、槇先輩がトップになった。当然だ。これは外部のコンクールの練習に過ぎない。外部のコンチェルトも同じ曲だろう。コンクールがいつなのか、練習に真剣な槇先輩には聞きにくかったので、大学院の先輩を探した。
その先輩は見つからなかった。俺は大学の事務室で聞いてみた。すると、その先輩は留学したと言う。俺は驚いた。じゃあ誰がオーケストラパートを弾くんだ?俺は自惚れていたから、俺じゃないことに動揺した。ますます先輩には聞きにくくなった。
一般のファンのようにコンクール要項から、コンチェルト審査の日程と、出場者の演奏時間を問い合わせた。予選は無料だったが、コンチェルト審査は有料で、チケットを買った。
プログラムには、オーケストラパートを弾く演奏者の名前はなかった。俺は、槇先輩の出番まで複雑な思いを抱えて過ごした。チャイコフスキーのピアノコンチェルトだぞ。オーケストラパートとはいえ、あれほどの先輩を支える演奏者なんて、俺の他に誰がいるんだ?客席中央には、審査員席にいらっしゃる教授が見えた。
次だ。
名前を呼ばれ、槇先輩が女性を伴ってステージに現れた。嘘だろ!
あれから思い出さなくなった『ノートの女』の雰囲気、背格好が同じ女性だった。ヒールのある靴を履いて、170センチはあるだろう。おそらく、女性の中では高いほうだ。長身の槇先輩と並んで見劣りしないバランスの、見た目も綺麗な女性だった。いつか『生徒』のことを、手が大きくて表現力があると言っていた。間違いない。この女性だ。聴く前からわかった。おそらく、あの時に買ったモシュコフスキーの上級者向けの練習曲は、初見……パッと見て演奏する訓練のためだろうと察しがついた。
槇先輩は、今まで見たことがないほど緊張感に溢れていた。良いエネルギーを溜めていたようだった。ピアノの椅子に座って、目を閉じ、下を向いて集中していた。顔を上げた途端、華やかなオーケストラの音楽が始まり、数小節後に先輩の『ピアノ』の音が響き渡った。これで決まりだ!
オーケストラパートの演奏者が弾いている楽器もピアノだ。しかし、この女性はオーケストラの音色を奏でていた。まだ若い筈。先輩だって若いのに、この若さでこれだけオーケストラの音色が出せるなんて!
……俺は、自分がオケパートに指名されなくて当然だったと素直に思えた。アンサンブルは、ソロとは違う技術が必要で、今まで、そこまで考えたこともなかった。俺の音楽の浅さを思い知らされた。
二人の演奏は素晴らしかった。他に何と表現したらいいかわからなかった。つまり『生徒』は俺より巧かった。懐の深さや広さも感じたし、ホールの響かせ方も良かった。悔しさを通り越して感動した。
演奏後、審査員席の先生方も皆拍手をしていた。
槇先輩は礼をして、彼女の背中を支えるようにステージ袖に戻った。遠目には支えているように見えたが、実際には触れていない。……絶妙な距離感がまた一層二人を綺麗に魅せていた、そんな感じだった。
俺はすぐにロビーに出たが、演奏者はロビーには出てこなかった。そうだ。これは予選じゃない。演奏者と観客は入り口も出口も別で、会うことはできない。演奏者が出演者出口から一旦出て、それから改めて参加者票を提示して観客席に入る形だ。槇先輩は、こちらには来ないだろう。
俺は敗北感を味わったような気分だったが、ますますソリストになりたい気持ちを強くした。今も他の楽器の学生から頼まれている数々の伴奏をこなしながら音楽の勉強をして、ソリストとしての表現力を磨いていこうと思った。
そして、先輩の『彼女』のソロの演奏を聴きたくなった。
あれだけ巧くて、何故無名なんだ?まてよ、まだ名前を知らない。確か「かおり」で、名字は知らない。
だめだ、手掛かりが無さすぎる。
俺は素直に先輩に聞くことにした。
しばらく、先輩に悪戯したり、からかったりするのはやめよう。