2 俺が先輩に憧れた理由
昨夜は、教授のお宅で俺の入学を祝ってもらった。
一限の授業に余裕をもって間に合うくらいに家を出ると、少し前に槇先輩の後ろ姿が見えた。俺は走った。
「槇先輩!おはようございます」
「あぁ、高橋。おはよう」
俺は槇先輩が好きだ。
「昨日の、彼女に渡したんですか?」
「渡したけど、彼女じゃないよ」
「結構な時間だった筈ですけど、会えるんですか?」
「お互いが、両方の家の鍵を持ってる。『教授から』ってメモを残して玄関に置いてきただけだ。会ってない」
「鍵!それは両方の両親も公認の彼女ですよ」
「もう一度言う、『彼女』じゃない。自由に出入りさせて練習している『生徒』だ。教授にお世話になったこともある。他言しないでくれ」
「はい、すみません」
俺は一応謝った。ちょっとからかいすぎたか。先輩は真面目だからな。
どんな人なんだろう。見たことはない。見せてもらえないだろうな。
俺は高校生の時から月に一回、地方から教授のホームレッスンに通っていた。ある時俺は、交通事情で自宅まで帰宅することができなくなった。飛行機代、レッスン代、地方からだとお金がかかる。余計なお金はそんなに持っていなかった。俺は槇先輩を頼った。図々しすぎるだろう。でも……電話してしまった。
「槇君、……高橋です」
「高橋君!今日レッスンだっただろ?飛行機飛ばないんじゃないか?うちに来いよ。品川だ」
先輩は、俺の用件も聞かずに言いにくいことを判ってくれた。
「すみません、お世話になります」
「気にするな。◯◯◯駅の◯出口にいるから」
「ありがとうございます……」
俺は羽田空港から引き返し、品川近くの◯◯◯駅に行った。降りたことのない駅だったが、すぐにわかった。雨風の強い中、大きな傘を二本持った先輩が、出口で待っていてくれた。
「大変だったな。こんな天気でなければたいした距離じゃないんだけど、ここから歩ける場所だから」
同性で同じ学年、同じ教授に習っていて、可愛げのない俺にライバル心を持たれてもおかしくない、ここまで親切にする義理もない筈なのに……槇先輩はそんな風に接してくれた。俺の顔は、雨以外の理由で濡れた。
都内の閑静な高級住宅地にあるマンションには、駅から数分で着いた。リビングには、亡くなった作曲家が所有していた曰く付きと言われるコンサートグランドピアノが置かれていた。他に、レッスン用のグランドピアノが二台あるという。槇先輩の『生徒』はこの上の階だと聞いた……社宅らしい。毎日子供の頃から一緒にピアノで遊んでいただけだという。
俺は月一回のレッスンだったのに、槇先輩は毎週レッスンに呼んでもらえること、母親がピアニストで音楽に理解があり、教授のところには小学校高学年から通っていること、羨ましかった。既に『生徒』がいることも……それは即ち人物に魅力があるということだ。
槇先輩と『生徒』の関係は、まだ続いているんだな。
俺達は大学に着いた。
「またな」
「はい」
始業前に教科書を開いて予習していたら、男子の同級生に声を掛けられた。
「ねぇ、代表挨拶した高橋君だよね。来る時、槇先輩と話してただろ?」
「同じ門下」
俺は、ちょっと得意気に答えた。
「マジ?すげぇ!槇先輩カッコいいよな~」
「性格も良くて、真似できない」
自分の自慢はしないが、槇先輩の自慢をした。
「槇先輩は背も高いしさぁ、顔もいいしさぁ、ピアノもトップだろ?お前も頑張れよ!」
「ありがとう。名前は?」
「俺は佐藤。この辺は皆ピアノ科。よろしくな」
「よろしく!」
俺はたちまち全員の男子と仲良くなれた。音楽大学は女ばかりだ。男は男同士仲良くするに限る。少し遅れて女達が話しかけてきて、賑やかになった。
先生が入ってきて、授業が始まった。
新しい大学生活が始まった。