10 先輩へのお願い
俺は槇先輩のことが大好きで、尊敬している。そんな槇先輩が好きな女に、ずっと興味があった。最初は興味本位だった。しかし、それを聞き出すことは想像以上に困難だった。
会わせて欲しかったが、確かに本当に『彼女』ではないのだとしたら、紹介してもらえる希望は薄い。俺が『彼女』という言葉を使うと、必ず否定して『生徒』だと言った。いつまで『生徒』なんだろうか。いや、それは先輩自身が葛藤している筈だ。
俺は、先輩が俺のことを単なる大学の門下の後輩としてだけでなく、心から信頼できる人物となるよう、誠実を心掛けた。しかし、それは槇先輩に対してのみで、女達には今まで通りに笑顔を振りまいたり、話しかけてきた女には優しくした。軽いイメージだっただろう。一応、『ノートの女』以外には大学の女には一切手を出さなかった。
俺は何度か機会を見計らっては槇先輩を訪ね、人がいない時にお願いした。
「槇先輩。『生徒』さんの演奏を聴かせていただける機会がありましたら教えてください。お願いします」
槇先輩は少し驚いていたが、笑いもせずにこう言った。
「……機会があったらな」
俺は、どういう意味かわからなかった。あれだけ巧ければ、専門を目指していれば公開されている場所で演奏する機会はいくらでもあるだろう。俺には教えないということか?教えるつもりもないということだろうか?……先輩はそういう人間ではない気がする。いつだったか、『生徒』は専門を目指していないと聞いた。趣味だと、発表会などにも出ないのか?そんな習い方で、あれだけ巧くなれるものなのか?指導者が槇先輩なら出来るのか?
謎と興味は、ますます深まるばかりだった。
僕は大学三年になり、槇先輩は四年になった。留学もしない、大学院を受験する準備もしていないように見えた。それは、先輩の『彼女』のこと以上に聞きにくかった。
ある日、俺は大学の練習棟の部屋でピアノの練習をしていた。ドアの窓からこちらを見ている人がいた。槇先輩だ。俺はすぐに練習を止めてドアを開けた。
「槇先輩?」
「中断させてすまない。あ、……えぇっと……」
先輩が何か言い淀む姿を初めて見た。俺はドアを閉め、急かさないで先輩の言葉を待った。
先輩は、頭の中の何かを読み上げるように、静かに俺に言った。
◯月◯日◯時◯◯◯ホール
◯月◯日◯時◯◯◯◯ホール
◯月◯日◯時◯◯文化会館
俺は、すぐにそれを側にあった楽譜の裏表紙にメモし、先輩に見せて確認した。先輩は頷いた。
これが、……何だ?
「……コンクールに『生徒』が出場する。あまり、外で弾かせたことがない。冷やかしたり、しないでくれ。『生徒』を困らせたくない。頼む」
先輩が、俺に深く頭を下げた。俺は、尊敬している先輩にそんなことをさせた、過去の自分の行いを反省した。
その三つの日程は、間違いなく先輩が去年グランプリだったコンクールの一般部門の予選のことだろう。高校生部門の次の学年は年齢制限のない一般部門で、大学生部門という部門はない。大学生だったのか……。俺は、その三つの日程を空けるよう、調整した。
あのコンクールの一般部門は、バッハの作品を1曲以上、エチュードを3曲以上、古典派のピアノソナタを1曲以上、ロマン派の作品・近現代の作品・小品を組み合わせて合計150分程度のプログラムを提出し、それをおよそ50分ずつ、3回に分けて演奏するという規定だ。
17人の審査員で採点されるのも大きな特徴で、最低点と最高点をカットして15人の支持を集める音楽性と完成度の高い演奏が要求される。
ここで上位10人が選出され、ピアノコンチェルトを2台ピアノで演奏し、最終選考に残った5人がオーケストラと共演して順位を決定する。
俺もいつか出場するつもりで視野に入れていた。槇先輩が三年生で獲った。今年は無理だ。先輩はすごい。それに、今年でなくてよかった。
先輩の大切な人と、競いたくなかった。