1 入学式、憧れの先輩の後輩になれた
「先輩!槇先輩!」
俺は音楽大学の入学式で、新入生代表・学費全額免除の特待生として挨拶をしたばかりだ。解散になった今、門下の槇先輩にも個人的に挨拶をしたかった。
「高橋、お疲れ様。入学おめでとう。同い年だし、畏まらなくていいよ」
槇先輩が、俺の為に足を止めてくれた。
俺は別の大学に入学したが、やっぱりピアノがあきらめられず、退学してこの音楽大学を受験した。高校一年でコンクール一位を獲ったことがきっかけで、世界的に有名な教授にプライベートレッスンを受けていた。槇先輩はもっと前からその教授に師事している。年齢は同じでも、尊敬する大先輩だ。
「そんなこと……。改めてよろしくお願いします」
「こちらこそ、嬉しいよ。お互い頑張ろう。今夜は教授が御馳走してくれるらしいから、それまで練習してくる。練習室の予約の仕方、わかるよな。じゃ、また後で」
「はい!」
僅かな時間でもあれば練習しに行く。流石だな。俺も行こう。
約束の時間の五分前に大学の門を出る時、再び槇先輩に会った。教授の家で、奥様がもてなしてくれるらしい。教授の家は大学のすぐ近くだ。
「シンイチ!シンジ!」
教授がご機嫌で出迎えてくれた。あとはもうロシア語だし、奥様はフランス語だ。槇先輩は小学生の時から教授に習っているから、ロシア語はかなり話せる。俺はまだまだだ。
「シンジの誕生日が来たら、三人で一緒に飲みに行こうって」
槇先輩が教えてくれた。そう。俺は槇先輩の慎一という名前の次とでも言うのか、慎二だ。槇先輩は四月の最初に誕生日が来て、数日前からもう二十歳だ。俺の誕生日はまだだ。槇先輩は、185センチの俺よりもっと身長が高い。それは流石に追いつける気がしない。いろいろと叶わないことばかりだ。しかし、お坊っちゃま育ちで性格が良く、努力家で尊敬できる先輩だ。
音楽の道に進むことを反対した俺の両親には、心の中で訣別した。教授も奥様も槇先輩も、俺にとても暖かく接してくれた。俺はこちらの世界でやっていく。まずはロシア語だ。
レッスン中では、言葉がわからなくても音楽のどの部分をどのようにしたらいいか、音で示してくれる。原因を説明してくれているのは判るが、細かいことまでは伝わっていない。槇先輩のレッスンを聴講させてもらうと、自分が表面的なことしか理解できていないことがよく判る。槇先輩は、教授が仰ることに対して、自分が使える範囲のロシア語で「こういうことですか?」と質問し、教授にそうだとか、そうじゃないとか、言語のニュアンスまで教わっていた。俺も、早くそこまで行きたい。初心者の日常会話レベルではなく、作曲家の求める音楽性、技術的なこと、歴史的背景に至るまで、言語をそのままに理解したい。
「そろそろ帰ります。ごちそう様でした」
槇先輩は、時計の針が22時になったところで教授と奥様に言った。槇先輩の自宅はここから約50分の実家で、俺はこの近くで独り暮らしをしている。俺も一緒に出ることにした。
「シンジ、オミヤゲね!」
「シンイチ、これ、カオリに!」
奥様は、食べきれなかった菓子類を持たせてくれた。俺達は礼を行って外に出た。
「先輩、ありがとうございました。失礼します」
「あぁ、こちらこそ。また明日」
先輩は、持たせてもらった菓子の袋を大切に抱えた。公認の彼女か……。いいな。
俺は特定の彼女はいない。まぁ、これからだけど、練習の邪魔にならず、煩くなくて聞き分けが良くて、美人で、体の相性もいい人がいい。音楽をわかってくれると尚いいが、只でさえ女が多い同じ大学の女は、ちょっと……面倒そうだ。いっそ、こんなことをどうでもいいと思えるくらい好きになれる女がいい。大切にしたいし、大切にされたい。
俺には兄がいる。スポーツが得意で、いつも女に囲まれていた。大会などではアイドルの様で、爽やかに笑顔を見せ、愛想を振り撒き、声援に応えていた。密かにピアノに打ち込んでいた俺は、兄に比べたら地味な存在だった。
何もかも持っているように見える先輩が、羨ましかった。