若頭の側近
日本では近年、警察の取り締まりが強化され、裏社会の組織の規模や影響力は弱体化している。つい最近もライバルだったシマの組織が摘発され、幹部らが逮捕された。
ライバルが減ったのはいいことだ。その分シマを拡大できるし、事業の幅も広がる。実際、若頭がいち早く目をつけた。
片柳邦彦はバックミラー越しにちらりと後部座席を見遣った。
車内の暗闇に紛れるように、そこにある黒。
外からの光によってぼんやりと浮かぶ、伶俐に整った冷ややかな美貌。長く伸びた黒い前髪に映えるその顔は、しかし今は黒い瞳を閉じた瞼の向こうに隠している。
ーーその男は片柳が主人として仕える、宮野組の若頭だ。
宮野恭平という名の主人は片柳よりもまだずっと年若いにも関わらず、そのずば抜けた頭の良さと天賦の才ともいえる武闘派な強さで組の中で頭角を現し、組長の目に留まったことで若頭の座に就いた。
これまでの宮野組にはなかったビジネスを展開し、組に新しい風を吹かせる彼は、しかし組の中でも特に、極めて冷酷な男として恐れられている。
そんな男に側近として仕える片柳は、これまで一度も彼が笑ったところを見たことがなかった。
幼い頃から裏社会に身を置いている恭平のことは片柳も昔から知っているが、彼は子供の頃から一貫して無表情で、その整いすぎた顔立ちから女たちから持て囃されても笑みを浮かべたことはなかった。
ーーその冷酷無慈悲で常に眉間に皺を寄せている恭平に、半年前、あることを言われた。
『この女を監視しろ』
提示された写真に写っていたのは、どこにでもいそうな普通の女。強いて言えば、恭平と同じような感情の無さそうな印象があった。
何故見るからに一般人の女を監視する必要があるのか理由を尋ねようとしたが、恭平は有無を言わせぬ雰囲気を、あるいは鬼気迫ったものだった為、黙って従った。
女の名は藍原真澄。
都内の小さな会社に事務員として勤務していて、徒歩10分ほどの距離にあるマンションに一人暮らし。
対人関係は極めて薄く、特に親しい友人もいない。しかし離れて暮らしている家族との関係は至って良好。
特に特筆すべきところもない、本当に普通の一般人。
片柳たちが複数人で監視していても気づいた素振りはない。
そして若頭はたびたび彼女の部屋に侵入していた。帰ってきたその手にはいつも何かが入った黒いビニール袋を持っていた。
それを見て、恭平が彼女の部屋で何をしているか瞬時に悟った。
だから彼女を若頭が拐ってきた時はついに来たかと思った。
仕事帰りにそのまま彼女のマンションに行けと言われ、マンションに消えた若頭がその女を抱き抱えて戻ってきたのだ。
薬でも嗅がされたのか藍原真澄は気を失っていたが、その彼女を恭平はまるで大切なものでも抱えるように抱き締めていた。口元に満ち足りたような笑みを浮かべて。
その時は思わず自分の目を疑った。これまで一度も笑わなかった彼が笑みを刻むなど、考えられなくて。
翌日からは、藍原真澄は若頭のマンションで暮らすようになった。勿論自主的にではなく恭平が強要したのだが、彼女は諦めているように見えた。きっと、相手が普通のストーカーではないと分かったからだろう。
恭平のマンションから仕事に行き、仕事を終えると片柳が待機する車に乗り、彼のところへ帰る。そんな生活になった。
そしてある時期から彼女にはGPSがつけられるようになった。
それはある組員が彼女を逃がそうとしたことが原因だった。
幸い、すぐに異変に気づいた恭平が対処し藍原真澄を取り返したが、これからも彼女を連れ出そうとする者がいるかもしれないと片柳が助言し、彼女の携帯にGPSをつけた。
しかし恭平はそれだけでは安心できなかったのか、彼女自身にもつけた。つまりGPSを体内に埋め込んだのだ。これには彼女もかなり嫌がっていたが、有無を言わせず手術を施された。
ただ、大人しく従ってはいるが彼女なりにこの状況をどうにかしたいと思っていたようで、若頭のマンションに向かう車内でこんなことを尋ねてきた。
「いつまでこの生活が続くんですか」
それまで無言だったのにぽつりと言うものだから最初は独り言かと思ったが、問い掛けられていると気付き静かに答える。
「若頭が飽きるまででしょう」
もっとも、ストーカー行為に出るほど執着している相手に飽きることなど到底ないと思うが。
そう言おうとして、そのまま呑み込んだ。
彼女は無言になった。
藍原真澄の存在は既に組内に知れ渡っている。若頭が故意にそうしたからだ。理由は言わずもがな、彼女を逃がさない為。
若頭は彼女を逃がすことはないだろう。それこそ、何を敵に回してでも。
そしてその主人に仕える部下もまた然り。片柳も藍原真澄の動向を一瞬たりとも逃すことはない。
これでも片柳は次期組長の座に近い彼に心酔しているのだ。主人の幸せは部下の幸せ、なんてくさいことを言うつもりはないが、それくらいには思っている。
だから。
「申し訳ないが、あなたには犠牲になってもらう」
主人が望んでいることは必ず叶わなければならないから。
再び無言になった藍原真澄に片柳は薄く微笑んだ。