ネコの牙 トラの爪
ラウロは、1週間に1度の頻度は守れなかったが、訪問はつづけることにした。コルネリアの微笑みを忘れられなかったのも一つだが、ラウロは元来小心者だった。この訪問をやめて、知らぬ間に、婚姻を取りやめられてしまったら、商会の仕事に支障が出てしまう。バルベリーニ侯爵は、金と権力を愛する男だ。ラウロ以上の金塊を見つけた場合に、切って捨てられる可能性は非常に高い。バルベリーニに執着する理由は、ラウロにはないが、バルベリーニは一度敵と定めると、二度と立ち上がれないくらい叩きのめすのを家風としているようなので、デル・コルヴォは多少なりとも影響を受けるだろう。
「ラウロくん」
「はい」
あの舞踏会以来、しばらく足が遠のいてしまったのは、別に噂のせいだとか、ひどい扱いを受けたからとかではなく、仕事が忙しかったせいだ。そう言い訳を考えていると、執務室の机に向かっていたバルベリーニ侯爵は立ち上がった。身長は、ラウロの方が高いが、威厳や圧力、体の厚みは、バルベリーニ侯爵の方がずっと大きい。ラウロは思わず一歩下がってしまった。
「足が遠のいていたようだが、舞踏会のことが原因か?」
「いいえ、仕事が溜まっておりまして」
想定問答集の中から、素早く答えを見つけ出したが、バルベリーニ侯爵が納得している様子はない。
「コルネリアは、一度決めると、なかなか覆さなくてな。扱いづらい娘だよ。それを、君に押し付ける形になって、申し訳ない」
「いえ、そんな。コルネリア嬢は、大変魅力的な方です」
扱いづらい娘をより扱いづらくした原因は、侯爵自身だろう。侯爵のレオノーラへの謎の優遇が無ければ、コルネリアだってもう少し、友好的な態度を示すはずだ。
「そうか。今日は詫びを含めて、コルネリアにアフタヌーンティーに誘うよう言ってある。バラが見頃だ、行きなさい」
「あ、はい」
転げるように歩き出そうとしてから、バルベリーニ侯爵に失礼のないように礼をする。危うく忘れるところであった。
この間、宮廷に納品に上がった際に、エジェオに会った。その時も、同じことを言われた。
「姉上は、扱いづらいだろう?」
エジェオは、学園時代に同級だったよしみで今も、割と親しい方だ。ちなみに、オズヴァルドも同級だったが、きらびやかなタイプの彼とは学園時代も今も、親しくはなれそうにない。エジェオは、姉のことを、扱いづらいと称して、にやにやと悪い笑みを浮かべた。
「レオノーラはよくも悪くも単純だからな。扱いやすいと思うだろう?」
「……ああ」
「実際、男にとっては、あの子はいい娘だよ。妻にするにも単純だ。でも、姉上にとってはそうじゃない」
「どういうことだ?」
「レオノーラを育てたのは姉上だ。まるで性格の違う娘に、育て上げた理由がわかるか?」
「いや……」
そもそも、レオノーラを育てたのが、コルネリアであることすら、初めて知ったのだ。皆目見当もつかない。
「牙を与えないためだよ。姉上は、レオノーラを何もできない馬鹿に育てたんだ」
「なんのために?」
「レオノーラは愛らしいだろう?だからだ」
愛らしい妹に嫉妬した。そこまで、想像して、少し違うような気がした。
「牙まで与えたら、一人で自由に歩けてしまう。だからだよ。でも、良くも悪くも、レオノーラは父上の子だ。」
「それは、つまり?」
「最近は姉上とレオノーラの狐と狸の化かし合いが、面白くてたまらないよ」
エジェオは、それはそれは悪い笑みを浮かべて、ラウロに背を向けた。ひらひらと手を振っているエジェオは、貴公子に見えるが、それが見てくれだけなのは、周知の事実だ。エジェオはそれを、まるで隠さないからだ。
狐と狸の化かし合い
それが、何を意味するのか、ラウロには皆目見当がつかないまま、バラが咲き乱れる庭についてしまった。コルネリアが、バラの中、たたずんでいる。バラの花弁に指先がほんの少し触れていた。その姿は、神々しい絵画のように綺麗だった。その視線が、自分に向けられた際にとんでもなく冷たくなければ。
「ごきげんよう」
「ああ、コルネリア嬢、今日もとてもお綺麗ですね」
「そういった世辞は不要です。慣れない言葉はいりません。そちらにどうぞ」
さっさとお茶会を終わらせたいらしいコルネリアに示された席に座ろうとした瞬間、椅子がコルネリア側に寄せられた。寄せたのは、いつものフットマンだ。
「コズモ」
コルネリアの視線は冷たかったが、コズモは従わない。できれば、コルネリアと距離をとって座りたかったので、ラウロもコルネリアに賛成だった。
「ご当主様の指示ですので」
コズモは珍しく、反論した。コルネリアはため息交じりに、それを許可した。不興を買ったらしいコズモは、すぐに下がるよう指示された。紅茶を給仕し、茶菓子と軽食を置いたメイドたちも、次々下がっていく。コルネリアは、もともと、あまり身近に人を置かないというが、おそらく、この雰囲気では人が寄り付かないのだろう。
「……あの、贈り物を」
受け取らない、そう言われることを覚悟して、今日は切り花を持ってきた。花のようにほころんだ微笑を思って、選んだわけでは決してない。切り花なら、もしかしたら受け取ってもらえるかと思ったからだ。ティーノから受け取った花束を、手渡すと、珍しくコルネリア自身で受け取った。デボラも驚いたようで、片方だけ前に出していた足をすぐにひっこめた。
「受け取ってもらえますか?」
あの笑顔が欲しい。
必死に、欲を抑えて、問いかける。
花がほころぶ微笑。
どうしても見たい。だが、そんな願いが叶うはずもなく、コルネリアは、冷えわたる表情を見せた。
「父の指示ですから。あなたからの贈り物は受け取るようにと」
「……そうですか」
「舞踏会でのこと、叱責されましたわ。あなたも納得のことですのに、私だけが責任を問われるのは、いささか不愉快です」
決して、ラウロは納得していない。舞踏会ほど近くはないが、手を伸ばせば触れられる距離にコルネリアがいる。あの時と、同じように、ラウロが見下ろす形になっているから、あの微笑を何度も想像してしまう。惨めな気分だった。
「デボラ、花に水を」
そう言って、おざなりにレディ・メイドに手渡す。デボラは、機械じみて見える動作で、花を受け取った。
「お近くを離れるわけには」
「別にすぐだわ。花瓶に入れて来てちょうだい。花に罪はないのだし」
「ですが、」
「そこに、従僕がいるのだから、平気よ。二人ではないわ」
「……分かりました。お部屋に飾っておきます」
「いいえ。部屋はやめて。廊下にしてちょうだい」
そこまで、徹底されると、さすがに微笑を期待するのはお門違いであると分かる。あれは、何だったのだろうか。やはり、一番は出力ミスだろうか。氷のような雰囲気は一切緩和されず、ティーノも、息苦しそうにしている。デボラがいなくなると、より空気は冷えるだろう。そう予想していたのに、デボラが屋敷に入った瞬間、ぷつりと緊張の糸が切れた気がした。
先ほど手を伸ばせば触れられる距離にいると思ったのは確かだが、それは、コルネリアからも同じだ。コルネリアが手を伸ばせば、ラウロに触れられる。コルネリアは、手をゆっくり伸ばした。ティーカップの近くに置いていたラウロの左手に、手を重ねる。
「え」
そのまま、手が取られて、大きさを確かめるように握られる。指と指の間に、コルネリアの手袋に包まれた細い指が入れられて、そのまま、テーブルの下に引っぱられた。そこで、指でなぞられて、ギュッと握りこまれて、なにがなんだか分からなくて、コルネリアを見た。
コルネリアは相変わらず明後日の方向を見て、冷たい視線のままだったが、指先はいたずらに、ラウロの指の腹を撫でた。
なんだか、わからないが、すごくやばい
語彙力すら失う破壊力は、前回の微笑みと同じか、それ以上だ。花すら部屋に飾ってもらえない婚約者だというのに、この手は何なのだろう。好意のある相手にすることではないだろうか。それとも、あれか、前回と同じ、上げて落とすやつだろうか。
声を出したら、おそらく終わる
握り返しても、おそらく終わる
それが、なんとなく本能でわかるから、コルネリアの気まぐれな指先の餌食になって逃れられない。
やばい、やばい
語彙力がごりごりに無くなって、もうダメだ、そう思った瞬間に、コルネリアは手を外し、静かに紅茶を飲み始めた。それから、すぐ、デボラが屋敷から出てきたのが見えた。
「お嬢様、指示通りに」
「そう。もういいかしら。お父様も、これで納得するでしょう」
茶菓子にも軽食にも手を付けていなかったが、コルネリアは立ち上がった。
「お好きにお過ごしください。私は、これで失礼いたします」
コルネリアは、振り返ることもなく屋敷に向かった。デボラもそれに従う。つまり、今日も見送りはないということだ。
「……今の、何ですか」
「いや、僕も分からない」
自分の左手を凝視して、握ったり開いたりすると、コルネリアの手の感覚が思い出される。指と指の間をなぞる細い指の感覚。あれを握り返したら、どうなるんだろうかと想像して、体が熱くなる。涼しい風が吹く、外で良かった。ラウロは、パタパタと服を仰いだ。紳士的とはいえない行為だが、致し方ない。
「耳、赤いですよ」
「うるさい」
コズモと呼ばれたフットマンが、また転がるように走ってきたのを見て、何とか熱を引かせようと必死になった。