物語はマルジナリア 楽譜のダ・カーポ
コルネリアが王子様と出会った日は、秋の香りがする日だった。
その日は、王妃主催の舞踏会だった。それは、第一王子のクラウディオの妃候補を選ぶ場だったから、若い男女が集められている。コルネリアとレオノーラも、こういった場には必ずデメトリア王女の招待で呼ばれていた。
最初、デメトリア王女と親しかったのは、コルネリアだけれど、今ではすっかりレオノーラが友人として隣に座っている。それを、コルネリアは、寂しいと思ったことはないが、友人だと思っていた人たちが、次の時にはレオノーラを選んでいることはよくあった。コルネリアに友人と言える人は、ほとんどいない。親しくなった人は、みんな、レオノーラを選んだし、気づいたときには、嫌われているからだ。
最初は、何が悪いのか考えた。コルネリアの冷たい表情や、きつい言い方が、原因だと陰で言われていることはしばしばだったし、面と向かって言われることもあった。可憐で優しい妹を虐げているかのように、吹聴されることもあった。コルネリアは、それを否定したが、否定すればするほど、自分が悪い立場に立たされることを知って、反論することをやめた。でも、しおらしくすることもしなかった。ここで、自分に非があるかのように振舞えば、自分の行いを恥じたことになる。女主人として屋敷を預かっているコルネリアが、自分の行いを恥じれば、使用人に示しがつかなくなる。だから、振る舞いは変えないまま、黙ることを選んだ。
今日の舞踏会でも、コルネリアは悪者だ。
「前を見て、歩きなさい。あなた、自分が、シャンパンを持って歩いていることを、ちゃんと意識していたの?そのグラスがどれほど高価なものか分かっていて?あなた自身の給金で賄えるものではないのよ?」
「お姉さま、そんな言い方なさらないで。私も、ちゃんと前を見ていなかったのがいけないのだもの」
「明らかに、よそ見をしていたのは、そこの給仕です」
レオノーラにぶつかり、トレーごとシャンパングラスをひっくり返した給仕が、地面に座り込んでいた。割れたガラスはシャンパンの泡でキラキラしている。幸いにも、シャンパンはかからなかったが、酒精の香りが嫌に鼻についた。
「そこに、手をつかない!」
「ひっ!」
「それ以上、この場を汚すまねはおよしなさい」
「ガラスがあるから、気を付けて」
レオノーラは助言と共に、給仕に手を貸した。コルネリアは、その行為に顔をしかめた。何人かが、こちらを見て、扇子の下で囁き合っているのが見える。
「片付けるために、人を呼びます。レオノーラ、あなたは、向こうに行っていなさい。これ以上、目立つことはしないで」
「はい、お姉さま。あなたも、怪我がなくて良かったわ」
天使のように微笑んだのを見て、給仕の男が頬を染めた。コルネリアはそれを睨みつけてから、その場を離れて、使用人たちに声をかける。コルネリアが離れれば、扇子の下の囁き声が、大きくなるのも致し方ないことだった。悪者になることに慣れているとはいえ、コルネリアは、疲れを感じて、静かにその場を離れた。
静かに過ごして、無難に終わらせるつもりだった舞踏会が、そうならなかった理由は察しがついた。よそ見をしていたとレオノーラは言ったが、給仕とぶつかったのは、おそらくわざとだ。
「……大丈夫、大丈夫、まだ、大丈夫」
コルネリアは、何度か自分に言い聞かせるように呟いた。会場に戻るために人気の少ない扉に向かったが、その先に、3人ほど男性が壁に寄りかかっているのが見えた。違う扉にしようと、踵を返そうとしたときに、自分の名前が聞こえて、思わず足が止まった。
お高くとまっている
それが、自分に対する悪口の最たるものだということをコルネリアは知っていた。先ほどの出来事を指しているのだろうと予想できた。許されていないが、本当は、このまま帰りたいという気持ちが強くなった。
「そうか?彼女の言うことは間違ってないとおもうけど」
「でも、あんな言い方しなくてもいいだろう?」
「確かにきつい言い方だけど、あれで恐らく、給仕は咎められないんじゃないか?あの場で、コルネリア嬢が注意したから」
「あんなのの妹なのに、レオノーラ嬢は本当に可憐で天使みたいだよな」
「あんなのって止めろよ!コルネリア嬢は、他人に厳しい人だけど、それ以上に自分に厳しい人だよ。尊敬できる人だ」
立ち聞きなんて淑女にあるまじき行為だ。だから、聞かずに離れるべきだ。それは分かっていたのに、コルネリアは動けなくなった。ほんの少しだけ見えた顔は、見覚えが無く、交流のない人だった。それなのに、コルネリアを、尊敬できる人だと言ってくれた。社交界では、たいてい、はっきりと物事を口にするコルネリアは、男性に嫌われるのに、そんな風に言ってくれた人は、初めてだった。
もう一度、顔を見ようと一歩踏み出したことで、男性たちは振り返る。気まずそうな表情を浮かべて、蜘蛛の子を散らすように、会場の中央に歩いて行ってしまう。友人の背を叩く、その人は、黒い髪に緑の瞳をしている背の高い人だった。
王子様だ
コルネリアは、そう思った。物語の王子様とは見た目も、中身もきっと違うけれど、白馬に乗った王子様だと思った。ふわふわするような、胸が締め付けられるような感覚は、自分の婚約者に一度も感じたことのない類のものだった。結婚の相手は、父に定められて決まっている。その人を、一生支えるため、努力してきたことも真実だ。でも、この気持ちだけは、誰にも奪われたくない。たとえ、レオノーラであっても。
だから、内緒にした。王子様を遠くから眺められる夜会は、特に気を付けながら行動した。婚約者にも妹にも知られないために、コルネリアは、その人への気持ちを自分だけのものにした。それだけで良かった。この気持ちを自分だけのものにできたら、それで、満足できたのだ。
その人が、妹の婚約者になるまでは。
妹の婚約者に、王子様がなった日、コルネリアは絶望した。誰が、王子様の隣に立っても構わないと思っていた。王子様が幸せになれるのであれば、それでいいと思っていたのだ。でも、それが、レオノーラだという現実を突きつけられた時、この上ない、憎しみを感じた。何もかも、与えてきた。欲しがったものは、何もかも、渡してきた。奪われても、何も言わなかった。奪った分、与えるべきだと、黙ってきた。
でも、王子様だけは、譲れない。
だから、コルネリアはオズヴァルドに恋をすることにした。真実、愛していると振る舞い、オズヴァルドが一番だと振舞った。レオノーラが、それを見てどうするか、コルネリアには分かっていた。
思ったよりも時間がかかって、焦ったけれど、予想通りだった。オズヴァルドは、コルネリアの努力を顧みることもなく、レオノーラを選んだ。それは、悲しいことだったけど、コルネリアが選んだことでもあった。
王子様と結婚できるなら、他の何を犠牲にしてもいい、そう思った。だから、王子様に好かれようなんて思わなかった。大切な王子様を盗られないなら、嫌われてもいい、愛人を作られたっていい、不誠実にされたっていい。それで、生涯を共にできるなら。顧みられなくても、妻として扱われなくても、幸せな王子様を近くで見られるなら、それだけでいい。だから、絶対に、このことを口にすることはない。
コルネリアの王子様が、誰かなんて、絶対に生涯口にはしない。
幸せな夫婦だなんて、誰にも思われなくたっていい。真実不幸せだと思われたっていい。王子様自身にそう思われたって、構わない。王子様の家族に嫌われたって、それでもいい。それで、傍にいられるなら。コルネリアは、そう思っていた。だから、いつか、その瞳が自分を映さなくなっても、王子様のことを恨むようなことはしない。そう決めていた。