海の色 壊れた色
レオノーラの結婚式以来、コルネリアには会えていない。コルネリアが、ひどく拒絶したためだ。コルネリアとレオノーラのやり取りで気になる点はいくつもあった。あの二人の関係性や、あとは、子どもを作らないという言葉、レオノーラに似た愛人を囲う話。聞きたいことは山とあるのに、聞くチャンスすら与えられない。
「また、ため息ですか」
「……ティーノさ、僕のため息の理由、知ってるくせに、冷たいよな」
「とりあえず、晩餐会なんだから、心を入れ替えて。取引相手もいるんですから、集中してもらっていいですかね」
言い方の冷たさに、ラウロは引きつった。今日、コルネリアは招待を断った。体調が優れないと手紙が来た。父親が無理強いをしなかったところを見ると、本当なのだろう。心配になって、見舞いを申し出たが、断られた。自分たちは、そんな関係ではないと言われ、不必要な痛みを与えられたので、それ以上は何も言わなかった。
晩餐会は、あまり楽しいものではなく、義務でしかない。ここにコルネリアがいても楽しくはないだろう。レオノーラとの晩餐会は楽しかった記憶があった。コルネリアとの晩餐会は苦しい記憶しかなかった。シガールームに向かったが、ラウロは葉巻を吸うことはない。父親から香る葉巻の刺激的なにおいを、コルネリアが睨みつけるのを見てからだ。
「デル・コルヴォ伯爵令息」
「ああ、チェーバ男爵、お久しぶりです」
チェーバは、ワインを片手に、とても機嫌が良かった。ちなみに、ワインは、デル・コルヴォ商会が輸入したものだ。
「今日は、お一人なのですね。あの氷の薔薇の君は?」
「……今日は、体調が優れなくて」
「いつも心が優れないご様子ですけどね」
中年に差し掛かった男は、わずかに体型が崩れてきた様子だが、若いころ、大層遊んでいたのであろう容姿だった。妻もいて、たしか、娘もいる。夫婦仲が良好とは聞いていないが、娘を甘やかしていることは知っている。デル・コルヴォが取り扱う商品を、娘がよく使っているらしく、わずかながらの取引があるから、無碍にもできない。
「……それでは、私はそろそろ、失礼いたします」
控室にいるティーノを呼び、帰り支度をしたところで、チェーバ男爵が追いかけてきた。
「チェーバ男爵?すみません、まだ、なにか」
「怒らせるつもりはありませんでした、失礼を」
「いいえ、怒るなど、そのようなことはありません」
にこやかに答えたが、早く帰りたいと思ったのは確かだ。
「……ティーノ、馬車を」
「お怒りでないなら、話があります」
「それなら、戻ります」
「いいえ、人が、いないところでの方がいいですから」
ラウロは、着こんだコートを脱がずに、チェーバ男爵の言葉を待った。
「氷の薔薇の君のことです。あなた方が不仲であることは知っています。それで」
「あの、端的に言っていただけますか」
「ならば、単刀直入に、私が氷の薔薇殿と恋仲になっても、お許しいただきたくてね」
「は?」
ラウロは、喜怒哀楽をちゃんとコントロールできるタイプだ。だが、初めて一瞬にして怒りが沸点を超えた。自分でも驚くほどの低い声がでて、微笑んでいるつもりだったが、おそらく青筋が立っているだろう。客観的に自分を見ることが出来ているが、おそらく、怒りが理性を100万倍くらいの勢いで超えている。
「……ラウロ様、ラウロ様」
小さな声で、ティーノが、取引先ですよ、と言ってきたが、そんなことどうでもいい。少し裕福なくらいの男爵家が何言ってくれてんだ。
「あなたが、モンテヴェルディ伯爵夫人の姪殿を、愛人にする話は伝え聞いています」
「あ?」
ラウロ様、ラウロ様、顔
「妻には、愛人を許さない、狭量な男、ですか」
「どんな噂話を聞かれたのかは知りませんが、そのような事実はありません」
「おや?そちらの従者は、良く知っているようですけど、事実ではない?」
ラウロは振り返る。
ラウロ様、ラウロ様、顔、鬼みたい
「……チェーバ男爵、コルネリアは私の妻です。心身ともに」
「つまり?」
「手、出したら、殺すぞ」
ラウロは、小さく、周囲に聞こえないように、どすを聞かせて言った。とてもじゃないが、誰にも見せられない顔をしていると思う。
この間、修道院でコルネリアに拒絶された理由は、おそらくこれだ。
「ティーノ、話を聞かせてもらうぞ」
従者は小さく悲鳴を上げた。
ラウロは、ティーノを締めあげてから、すぐにコルネリアに連絡を取った。
「……なんですの」
青白い顔色に、ラウロは、驚いた。晩餐会を欠席してから2日経ったが、まだ、調子を崩しているようだった。しかも、決して入れようとしなかった私室に通したということは、それだけ、体調が優れないのだ。
「すみません、体調が悪いと聞いていたのに、無理に押しかけてしまって」
「分かっているなら、お帰りいただけないかしら」
いつもの言葉も覇気がない。本当は、初めて入った私室を堪能したかったが、見まわすと刺激することになると思って、懸命に自分を抑える。
「……話があるのです」
「見て、分かりませんの?体調が悪いの。押しかけた挙句、部屋で騒がないでいただけない?」
「お嬢様、大丈夫ですか。本当なら、こんな日にコルセットを締めるなんて」
ジータも非難の目を、ラウロに向けた。そもそも、このジータに、ラウロはずっと良く思われていなかった。今日、確実により嫌われた。
「……ジータ、悪いのだけれど、温かい飲み物を」
「紅茶はよくありませんから、お白湯にいたしましょう。すぐお持ちします」
ジータが、今日、ラウロを警戒しない理由は分かっている。ラウロは、今日、締め上げたティーノの代わりに、新たに雇ったレディ・メイドのチェーリアを連れていた。最初から女性を連れてくれば良かったのだ。
「それで、お話は?」
「聞いて下さるのですか」
「早くお話しして、早く帰っていただきたいのです」
「社交界で、僕の愛人にまつわる噂が出回っています」
コルネリアは、ピクリと小さな反応を示した。コルネリアも知っているということだ。
「モンテヴェルディ伯爵夫人の姪を愛人にするという話です。でも、それは、事実ではありません」
ソファに座って、具合が悪そうに俯くコルネリアと目線を合わせるために、ラウロは傅いた。
「僕は、愛人をつくるつもりはありません」
コルネリアの表情は、長い前髪に隠れているが、赤く塗っている唇さえも青白く見えた。弱ったコルネリアを初めて見た。
「あなたが、どう考えていようと、あなたのお母さまは、それを望んでいらっしゃいます」
「母には、強く言いました。余計なことをしてくれるなと」
「そう、そうして、また、私は姑にいびられるという訳ですね。愛人をつくってくだされば、それで済むのに」
「コルネリア」
顔色が悪いままだったが、目は冷たい炎をはらんで、きつく睨みつけられた。
「……コルネリア嬢」
「お話がすんだのなら、帰ってください」
「あと、もう一つ。チェーリア、挨拶を」
「……奥様、チェーリアと申します」
チェーリアは、見目も悪くないし、気のきく娘だった。若奥様のメイドとしては、能力は十分である。
「新たに、あなた専属のメイドとして雇いました。バルベリーニから、メイドを連れてこなくても、安心して暮らせるように、整えておきます。だから、心置きなく、来てください」
コルネリアが、おそらくはレオノーラを理由に、バルベリーニ邸の誰も信用できないのは知っていた。だから、安心してほしくて、そう言った。
「……なるほど、承知いたしました」
「よかった。そしたら、」
コルネリアの目は、今度は冷たい炎すら失って、まるで月のない夜空のようだった。
「私は、意見する立場にありませんから。たとえ、愛人をメイドにされても、文句は言いませんわ」
「え……ちが!」
コルネリアは、まぶしいものを見るように目を細めて、ラウロ越しにチェーリアを見た。チェーリアはその視線に狼狽えて、自分のスカートをぎゅっと握った。ラウロも視線を追いかけて、チェーリアを見る。
あ、やらかした
そこで、やっと気づいた。
チェーリアは、レオノーラと同じ髪、同じ瞳の色をしていた。
気づかなかった。いや、気にしていなかった。ラウロは、もはやレオノーラをそういった意識の範疇に入れていないのだ。
「お帰り下さい」
「コルネリア」
「帰って、お願い」
コルネリアの赤い唇が、耐えきれないとでもいうように震えた。思わず、コルネリアの手を取った。
「ごめん、違う。本当に、違います」
ポタ、ポタ、音がする勢いで、ラウロの手に涙が落ちた。
ああ、やってしまった
やらかした
本当に、こんな、つもり
「手を離してください」
「本当なんです。僕は、この子を愛人にしようなんて思ってない」
両手で、コルネリアの手を握った。振り切らないが、涙も全く止まる気配がない。
ポタポタから、ボタボタに変わるくらい涙がとめどなくあふれている。
「ごめん、僕の配慮が足りなかった。だから、泣かないで、本当に、悪かった。そんなつもり、毛頭ない。メイドはほかの子に頼もう」
「……別に構いません。過剰に反応した私が悪いのですから」
指でぬぐっても、ぬぐっても溢れてくる涙で、心が締め付けられる。
ああ、こんなに、泣かせてしまった。
「いや、コルネリアを不安にさせたいわけでは全くない……です。ごめん」
首を振るコルネリアの震える唇に目を奪われながら、誠実な対応という言葉を頭の中で繰り返し、ただ、ハンカチでコルネリアの涙を拭う作業に移った。
そのあと、部屋に戻ったジータに秒で追い出されたことは言うまでもない。