ルージュの口紅 青い花
久しぶりに来訪を許された婚約者の家は、なんだか、いつもと違った印象を受けた。誰もかれもが浮ついているような、そんな落ち着きのなさを感じた。だが、それも、コルネリアが現れると、一瞬で収まる。女主人の力の強さを物語っていた。
「何か、ご用で?」
「この間、作らせた靴が、出来上がりましたので、お持ちしました」
「……そのようなこと、シューメゾンに任せればよろしいのではなくて」
この客間に押し込められるのは、本日で4度目なので、調度品を眺めるのも飽きてしまった。思いのほか、早く現れたコルネリアは、早く終わらせたいようで、開けもせずにジータに持っていかせようとする。
「ご用が済んだのでしたら、ご帰宅はそちらです」
「あ、まだ」
「……何か?」
この対応は、予想済みだった。作った靴をこの場で見ることは絶対にない。だからこそ、緑とも青ともつかない色を選んだのだが、まあ、そこそこに堪えた。コルネリアと、長く一緒にいるために、知恵を絞ってきたが、いつも大抵うまくはいかない。
「最近、バラの化粧品を扱っていまして」
「まあ、あの、カマルドリ修道院の跡地のですか!」
箱を持ったジータが、食い気味に、聞いてきた。いつも人形のように仕えているデボラは腹に一物抱えている印象を抱いていたが、ジータは素直な娘であるように感じた。
「ジータ」
「すごく、人気なんですよ!バラから抽出される香りが上品で!高くて手が出せませんでしたが、ハンドクリームは、今度買ってみたいと思っていて!」
「ジータ」
二度目の深海のような深くて低い声に、ジータはびくりと止まった。
「失礼しました、お嬢様」
「それで、それが、なにか」
「新製品の口紅をお持ちしたのです。試していただきたくて」
「そうですか。ジータ、受け取って」
「いえ、ここで、試していただきたくて。試作品の段階で、使用感を教えていただきたいのですが、いかんせん、若い女性はおしゃべりな方が多いもので。カマルドリの新製品を試したなんて言われてしまうと困るのです」
その点、あなたは信用できます。と、いかにも、本当に試作品を持ってきたかのようなふりをしているが、本当は違う。もう製品として、発売は目の前で、ただ、それを言い訳にすれば、コルネリアも断れないと思ったからだ。
「……この通り、口紅はすでに塗っています。試した後に、お手紙を書きますので」
「それでは、いつになるか分からないでしょ?あなたは、つけて下さらないかもしれない」
コルネリアは、深いため息をついた。
「お嬢様、化粧落としをお持ちしますから」
「ここで、化粧を落とせと?この人の前で?」
「……私室でも構いません。僕が、ご一緒させていただけるなら」
コルネリアは、私的な空間に、婚約者たるラウロが入ることを極端に嫌がる。コルネリアは、心底嫌そうに顔を歪めてから、ジータに手を振った。よほど、カマルドリの新製品が気になるのか、ジータは脱兎のごとく飛び出していった。
コルネリアは、それを見届けると、口紅を順番に開けていく。普段、コルネリアが付けているような赤色から、オレンジ色、淡いピンク、すこし毒々しい紫、そんな色を持ってきた。もちろん、どれからも淡くバラの香りがする。
ふと顔を上げるとジータが飛び出していった扉が、閉まりかけていた。従者がいるとはいえ、未婚の二人が扉を閉めて会うことは常識に反する。ラウロは、閉まりかけている扉を見て、ティーノを振り返ったが、動こうとはしない。元来、ティーノは面倒を嫌うたちで、こんな時に絶対に動いてくれない。仕方なく、ラウロは立ち上がり、扉に向かったが、それはコルネリアに阻まれた。腕を引かれて、扉を背に振り向くと、コルネリアが立っている。その手の中には、口紅が一つ握られていた。
「……コルネリア、嬢」
ラウロは、これが、いつもの言語中枢をいかれさせる、それだと気づいて、動けなくなった。ラウロの腕に縋りついた手は、いつもと違って信頼したように体重をかける。低い踵の靴のせいで、ラウロに近づくには背伸びをする必要があるらしい。わずかに体が震えていた。それを、支えなければと、ラウロは、とっさに腰を支えた。
やってしまった
自分から、触れるなんて
でも、コルネリアはそれを気にした様子はない。
見上げた瞳は、まっすぐにラウロを見ていて、真っ赤な唇が少し開いた。
この唇に口づけたら、手っ取り早く、口紅を落とせるのではないか。ふと思いついてしまって、直視できなくなって、目を逸らしたが、コルネリアが、ラウロの頬に手を当てて、彼女の方を向かせた。そのまま、その手がラウロの右の手を取った。手の中の口紅をはさんで、お互いの手を握りこむ。
そして、ゆっくりと首を傾げて、目を閉じた。
あ、やばい、待って、いや、待って、いや、ちょっとだけ待って
これ、待ってる?
あれ、待ってる?
やばいって、やばいって、やばいって
ああああ、これ、していいやつ
していいやつかな
口紅、これ付けろってことか
取って、いいってことだよな、いいんだよな
ラウロは、迷いに迷って、ゆっくりと唇を近づけた。
「って、おっわ!!」
次の瞬間に、体に強い衝撃を感じて、後ろにのけぞって転ぶ。ほぼ同時に、倒れこんだところに、扉が勢いよく開かれて、右半身に激痛が走った。
「いった!」
「え!あ!申し訳ございません」
扉からジータが顔を出して、その先に立っている主人と、倒れこんでいる婚約者を見比べた。
「お嬢様、これは?」
「……ジータ、もう、いいわ。化粧落としは必要ない」
「え、」
「私が、協力するいわれはありませんので」
いてて、と体を起こすと、いつもの2割増しの冷たい目線で上から睨みつけられた。いつもと反対の立ち位置であるせいか、圧が強く感じられた。
「……あの、でも、これは」
「なにもないところで、勝手に転ばれたのです。気を付けていただきたいわ。ここで怪我でもされたら、婚約者に怪我をさせたと、我が家が批判をうけるのですから」
「……それは、その申し訳ない」
「本当に、鈍間な方、イライラするわ」
コルネリアは、扉の前で地面に這いつくばっていたラウロを睨みつけた。
「どいて下さらない?」
「あ、ごめん」
ラウロは、まだ、わずかに痛む体を無理やり立たせて、避けた。それに対して、挨拶もせずに、コルネリアは出ていく。ジータは、口紅によほどの未練があるのか、そうとう粘ってから部屋を出た。
「……俺の存在、忘れてませんでした?」
「……忘れてた」
「いやー、それにしても、コルネリア様は、分かりませんね」
「分かるよ」
コルネリアが、ラウロに握らせた口紅の蓋を開ける。普段、コルネリアが絶対にしない淡いピンク色だった。ちなみに、ラウロが似合うと思って見繕った色でもあった。
「めちゃくちゃ可愛いってことは、分かるよ」
「……のろけですか?」
ティーノが嫌そうな顔をして、部屋を出た。最近、案内がないことに慣れてきたが、従者に置いていかれるのは慣れていないので、慌てて追いかけた。