ピンクのマカロン 血の香り
コルネリアは、家に帰って、手足を濡れたタオルで拭い、着替えた。頭痛がひどかったので、結い上げていた髪は下ろして、簡単にまとめなおす。口の中の苦いような甘いようなだるさが嫌で、水を一口飲んだ。
「お嬢様」
「なに?」
帰宅後のコルネリアの整容を、壁際で見ていたデボラが迷ったように弱弱しい声を上げた。
「レオノーラ様が、お呼びです」
「なんて?」
「ご気分が優れないそうで」
小さなころのレオノーラを思い出した。いつも、コルネリアの後ろをついて歩き、姉がいなければ何もできなかったレオノーラ。誰がそばにいても、必ずコルネリアを呼び、傍に居てほしいとねだった。そのわがままは、思春期になっても、大人になった今でも同じだ。
「行くわ」
レオノーラの部屋は、南向きの明るい部屋だった。以前、この部屋の隣を使っていたけれど、コルネリアは東向きの部屋に移った。その時レオノーラはひどい癇癪を起したけれど、それが父の命令だと知ると、怒ることをやめた。父が、何を思って、コルネリアの部屋をうつしたのかは分からない。ただ、南にある美しい庭を、部屋から眺められなくなった。
「……レオノーラ」
「お姉さま、」
ソファでぐったりとしているレオノーラは、唇を青くして、ハンカチを当てている。目の前には、色とりどりのマカロンが置いてあった。
「どうしたの?」
「気持ちが、悪くて。吐いてしまって」
手桶や水を持った使用人が近くに立っている。それを見て、過剰な反応ではなく、本当に具合が悪いことが分かった。
「何か、悪いものでも?」
「食事は、皆さまと同じものを。ただ、このマカロンは」
レディ・メイドのノエミが、ちらりとマカロンを眺めた。ピンク色のマカロンが半分、皿の上に残っていた。バラの香りと甘い味を一瞬、想像して、眉をひそめた。
「これは、お義兄さまが、下さったの」
婚約者が、妹に甲斐甲斐しく贈り物をしていたところで、傷つくような繊細な心はもとより持ち合わせていない。ただ、あの柔らかいふりをした微笑みが思い出されて、腹が立った。
「……それを口にしてから、気分が悪いの?」
「ええ、でも、その前から、少し調子が悪かったの」
「そう。とりあえず、着替えましょう。コルセットは脱いで、ゆったりとしたワンピースに」
「でも、お父様が、もうすぐ戻られるのに」
「お父様には、私から言っておくわ。具合が悪いのだから、無理をする必要はない。夕食は、消化にいいものを、部屋に運ばせるから」
目線で指示を出すと、ノエミとドナテッラが、レオノーラの着替えを手伝い始めた。寝室の枕を整えて、レオノーラを呼ぶ。
「今日は、寝ていなさい」
「……いや」
レオノーラの小さな拒絶に、コルネリアは微笑んだ。本当に嫌がっているわけではなく、構ってほしい時の『いや』であることは、コルネリアでなくともわかる。
「どうして?私は、あなたの体が心配なのよ」
「お姉さまも一緒に横になって」
「それは、できないわ。お父様と食事をしなければならないから」
「いや。一緒に寝て。ここで、一緒に食事をして」
「レオノーラ」
「昔はしてくれたわ、いつも。風邪をひいた時もお腹が痛い時も、一緒に居てくれたのに」
レオノーラが不安そうな表情のまま、コルネリアの手を引いた。レオノーラは昔と同じ、子どものままだった。この子が、領主夫人として一人で立てるのだろうかと不安に思うと同時に、罪悪感を覚えた。レオノーラの牙を奪い、1人で立てなくしたのは、他でもないコルネリアだったからだ。
「……分かったわ。眠るまでの間よ?」
「やった!」
「レオノーラ」
「ありがとう、お姉さま」
不作法を叱ると、小さく舌を出して、コルネリアをベッドに無理やり引き入れる。普段着とはいえ、横になるには不適切な恰好であるが、着替える時間はくれそうにない。レオノーラがじりじりと、コルネリアの体に近づき、胸に顔を寄せた。そのまま抱き着いてくる妹の頭を撫でて、背中に手を回し、とんとんとリズムを刻む。
「レオノーラ」
「お姉さま、ずっと、こうしていて」
「ええ、眠るまで、ずっと、こうしているわ」
レオノーラのずっとが、本当は眠るまでではないことをコルネリアは知っていた。それでも、眠るまでと言ったのは、いつまでもこうしていることが出来ないことを、コルネリアが先に知ってしまったからだ。同じところに留まっていることはできない。たとえ、どんなに望んでも、2人がずっと、ここでこうしていることはできないのだ。
「お姉さま、大好き」
「レオノーラ、私もよ」
心底幸せそうに、微笑んだレオノーラが静かな寝息を立てるまで、コルネリアはずっと赤子をあやすように、抱きしめ続けた。
それから、数日して、レオノーラの妊娠がわかり、父は激怒した。レオノーラがさめざめと泣いている、父の執務室で、コルネリアは思った。人は同じところに留まっていることはできない。それをコルネリアは、レオノーラよりも先に知っていたはずだ。だというのに、置いていかれたと思った。レオノーラの妊娠を知って、コルネリアは初めて、レオノーラに置いていかれたと思った。
泣いて絨毯の上に座り込むレオノーラを抱きしめた。レオノーラを抱きしめているつもりで、本当は、レオノーラの腹の中にいる天使を抱きしめているのではないか、コルネリアはそう思った。