鏡の中のアリス 私の中のアリス
我が家自慢の緑の庭が、完全に氷河期となってしまった。ブリザード吹きしれる場所に立たされたラウロは、足が凍り付いて物理的に動けなくなったのを感じる。デボラは、その寒さにあてられたのか、真っ青になったまま動かない。それは、そうだ。仕える主人からあれだけの殺気を込められた美しい微笑を送られたのだから、たぶん、ラウロでもそうなる。あの、人を殺せる微笑と、花のような微笑が、同じ人の浮かべるものだとは、ラウロ自身も信じがたかった。母は、母で怒り心頭でいなくなってしまったし、どう収拾すればいいのか、ラウロにも分からない。
「……えっと、そうしたら、案内します」
迷った末に、母のおざなりな指示を遂行することに決めて、歩き出すと、コルネリアのため息が聞こえた。
「案内は結構。私は帰ります」
「いや、でも、来たばかりで」
「この家に長居するつもりはありません」
「結婚したら、そういう訳には」
「子どもが生まれたら、私は好きにさせていただきますので」
「お嬢様!」
コルネリアは、いつもと同じ言葉を口にした。その表情はいつもと変わらず、負の感情しか映し出さない、氷のような冷たさのままだ。コルネリアのことを、何一つ理解できていない。デメトリア王女の言葉を思い出した。コルネリアは、母に何を言えば、嫌われるか知っていた。なのに、気位が高く、貴族然とした言葉をコルネリアは、あえて選んでいた。そうすることで、母に嫌われると分かっていながら、そうしたのだ。一方で、ラウロのことは翻弄し続けるのだ。氷のように冷たい態度をとり続けるのに、2人きりになった瞬間に、全く違う一面を見せつけられる。どうして、そんなことをするのか、ラウロは聞くことが出来ずにいた。
「デボラ、帰ると言ったの」
「ですが」
「二度は言わせないで、すぐに準備を。私が、玄関に着く前に、しておくべきことがあるのではない?」
「2人きりにするわけには、参りません!」
「……この人が、私に何かできる甲斐性があるとでも思っているの?」
デボラは、少し、迷ったような顔をして、ラウロを見た。ラウロから何かをする胆力は、本当にないので信用してほしい。デボラは、顔を歪めて、失礼しますと小さく言ってから、その場を離れた。
コルネリアは、何も話さないまま、緑の庭を眺めている。大きくはないが、趣向を凝らしたその庭を、コルネリアはきっと気に入っているのだろう。母が、息子の目の色を想像して造らせた庭と知ったら、嫌ってしまうかもしれないので、黙っておくことにした。沈黙に耐えかねて、ラウロが一歩アーチに近づくと、背中に体温を感じた。自分の腹に回された華奢な腕を見下ろして、ラウロは、パニックに陥った。白い手袋に包まれていたが、その腕の白さも、素肌の滑らかさも、ラウロはすでに知っている。
待って、いや、待って、どういうこと
背中に体が押し付けられている。目いっぱいの力で、抱き着かれているのだ。
ああ、柔らかい、やばい、柔らかい
女性特有の華奢さと柔らかさの前で、すでに言語中枢が白旗を上げ始めている。
「……ラウロ様」
おおおおおおお、名前、名前、呼ばれた
伯爵令息じゃなくて、名前、名前を呼ばれた
声が、声が、可愛すぎる
前から思ってたことだけど、声が、体温を持つと途端にやらかくなる
腹側のシャツがギュッと握られて、くしゃくしゃになるくらい強く握りこんでいるのを見て、胸がどんどん熱くなる。その手に手を重ねて宥めようとしたら、いつの間にか手も握りこまれた。
もう、可愛いが限界突破なんだが
可愛すぎて、おかしくなるんだが
もう一回、もう一回呼んでください。お願いします
「コルネリア嬢」
そう呼びかけた瞬間に、パッと体が離れた。柔らかさも、何もかもを喪失してしまい、自分のミスに舌打ちをしそうになった。もう一度というのは欲張りだったのだ。コルネリアは、挨拶の一つもなく、静かに歩き出した。バラのアーチを歩くコルネリアは、一度もこちらを振り返ることはなかった。
ラウロは、その姿を最後まで見届けると、母の私室に急いだ。コルネリアは、複雑だ。デメトリア王女は、女は二人になると複雑になると言っていたが、コルネリアは一人でも十分複雑だ。その人を、一回会っただけの母が、理解できるとは思えない。
「母上、」
「人前じゃないのだから、いつも通りで構いません。そのシャツはなんですの?みすぼらしい。……それより、あの娘は、いったい何なのかしら」
とりあえず、コルネリアが握りしめたシャツはそのまま取っておくことにしたので、母の言葉は華麗にスルーすると決めた。
「……母上の目から見たら、そうかもしれませんが、僕の目には違って見えます」
「何が、どう違って見えるのかしら、皆目見当がつかない。あなたたちの噂は知っていましたけど、ここまでひどいとは」
母は深くため息をついた。その姿は、一瞬年相応に見えるが、次の瞬間には少女のような幼さを醸し出す。母は不思議な人だ。年相応に見える瞬間もあれば、少女のように残酷な一面も見せるのだ。
「ラウロ、あなたの言いたいことは分かります。あなたが、ティーノに愛人候補を探させていたのは知っていました。私は、結婚前から、そのようなことをと反対していたのです」
「……ええ、ですから、もうその件はやめました」
「何を言っているのですか!今日見て、決めました。母は、反対しません。あなたも愛人を持ちなさい」
「母上!コルネリアは、複雑なのです。見えている、いえ、見せている彼女だけが、彼女の全てじゃない」
「それが、何だというのですか!あのような態度、見るに耐えません。あなたが、やらないというなら、私が探します」
「母上!その件は、考えて、やめたのです。僕は、コルネリア嬢と、」
そこまで口に出して、ラウロは戸惑った。コルネリアと、どうなりたいというのだろうか。氷の女王のようなコルネリアと、花の妖精のようなコルネリア、そのどちらもコルネリアであり、そのどちらも自分の婚約者だ。そのどちらかを選ぶことなんて、おそらく出来ないが、ラウロは一方だけを望んでやしないだろうか。コルネリアの本質がどちらであるかよりも、都合のいい姿だけに、感情を寄せていないだろうか。
「コルネリア嬢となんですか?」
夫婦として歩いていくことを望むなら、どちらかだけを愛することはできない。それに気づいて、ラウロは、愕然とした。都合のいい方ばかりに気取られていた、自分の浅ましさに、心底愕然とした。